生きるにも死ぬにも

〜フィリピ書による説教(2)〜
詩編84編6〜13節
フィリピの信徒への手紙1章12〜21節
2007年5月6日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)パウロの投獄

 先週の日曜日からフィリピの信徒への手紙を読み始めました。今日の1章12節から、いわば本文が始まります。先週も申し上げましたように、パウロはこの手紙を獄中で書き記しました。パウロが投獄されたという知らせは、フィリピの教会の人々にとっても、その他の地域の初代クリスチャンたちにとっても、大きな衝撃を与えたことであろうと思います。パウロがどのようにして逮捕され、投獄されたのかは記されていませんが、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていたがゆえであることははっきりしております(13節参照)。
 パウロの同労者たち、特に彼よりも先輩のクリスチャンたちは、パウロの宣教スタイルがあまりにも急進的であると感じていたのではないかと思います。そしてもしも当局の反感を買い、捕らえられでもすれば、それはキリスト教宣教にとって大きな障害になると、はらはらしていたのではないでしょうか。「パウロさん、お気持ちはわかりますが、もう少し穏やかにお願いします」。
 どういう障害になると思ったか。それは一つには、パウロという大きな宣教の担い手を一時失うことになる、二つには、それによってキリスト教が悪い宗教、お上に逆らう危険な宗教だというレッテルを貼られる、人々がそれによって恐れをなし、宣教しなくなる、また福音に耳を傾けなくなるというような危惧であります。
 こうしたやり取りは、時代を超えていつも存在してきました。

(2)福音の前進

 パウロもそういう批判をこれまでも何度も耳にしてきたのでありましょう。手紙の最初から、いきなりそうした批判を想定して書き始めるのです。
 「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知って欲しい」(12節)。パウロは「かえって」という言葉で、普通、人が考えること、心配することとは全く反対のことが起きていると主張します。そして二つのことを語ります。

 「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り(これが一つ目)、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」(13〜14節)。

 このことは、先ほどあげた二つの危惧とまさに反対の事態です。一つ目は、パウロという宣教の主体が捕らえられたことは、宣教の妨げになるどころか、かえって福音を前進させているということです。「あの人が監禁されたのはキリストのためだというけれども、それほど人を突き動かしているキリストというのは、一体どういう人だろう、そこで宣べ伝えられていることは一体何なのだろう」という風にみんなが関心をもつようになる。これは言葉を超えた証しです。口で宣べ伝えているよりも大きな影響力があったのです。
 もう一つは、彼が捕らえられたことは、他の人々を萎縮させるのではなく、大いに励ましたということです。パウロよりも前に捕らえられた人が何人もいました。彼らは、それまでは「自分のやっていたことは正しかったのだろうか。間違いであったのだろうか」という不安がありました。若者も多かったことでしょう。「ちょっとやりすぎだったかな。寸止めにしておけばよかったかな。」そういう風に後悔した人もいたかも知れません。しかしパウロ自身が捕らえられたことを知って、「自分たちのやっていることは間違いではなかったのだ」と大いに励まされて、ますます勇敢に恐れることなく、御言葉を語るようになったのです。
 福音のゆえに捕らえられる。何をもってそういうのかは難しいところですが、イエス・キリストという名前を出さなくても、正義のため、平和のために投獄された人々は、その後の2000年の歴史においても数限りなくあることを私たちは知っています。また直接、正義、平和を語らなくとも、不正義のもと、抑圧のもとで、投獄された人もたくさんあります。パウロは、ここでそのような人たちと連帯しているということもできるのでありましょう。
 いやパウロ以前に、イエス・キリストご自身がそのような不正義のもと、抑圧のもとで、逮捕され、死刑判決を受け、殺されていったということを心に留めるべきでありましょう。パウロはまさにそのイエス・キリストの弟子であったのです。

(3)バーミングハムでのキング牧師

 ここでさまざまな人々のことが心に浮かびますが、今日はマーティン・ルーサー・キング牧師のことを、少しお話したいと思います。公民権運動の推進者であったM・L・キング牧師も、同労者から絶えず、パウロに向けられたのと同様の批判が向けられていました。白人の中で比較的理解のあった穏健なリベラル派と呼ばれる牧師たちからもそうでしたし、黒人教会の中でさえも、「もう少しやり方を考えて欲しい」という声はいつもありました。
 キング牧師は、例えばボンヘッファーのように、長い獄中生活をしたわけではありませんが、生涯で何度も逮捕、投獄されています。1963年4月12日には、バーミングハムという町において、アラバマ州巡回裁判所における抗議運動禁止令違反の罪で逮捕され、19日まで投獄されました。
 キング牧師が逮捕されたというニュースが全米に広がった時、翌日の朝刊に、当時のアメリカの主要な教派を代表する8人の聖職者たちが、キング牧師たちの行動を批判する一種の意見広告を載せました。キング牧師は、それに対する反論として、少し長い、有名な手紙を書きました。「バーミングハムの獄中からの手紙」と呼ばれるものです。今日はその中の大事な部分を、少し読ませていただきます。

(4)正しい法と不正な法

「ところであなたがたは私たちが法を破りたがっていると、大変心配しておられます。……『なぜあなたはある法は破るようにと勧め、ある法には従えと勧めるのか』と問うのは、もっともなことです。それに対する答えは、法には正しい法と不正な法の二種類があるという事実にあります。私は正しい法には従えと真っ先に主張する者です。人は正しい法には従うべき法的義務だけでなく、道徳的な義務もあります。その反対に、人には不正な法に従ってはならないという道徳的な義務もあります。この点で私は、聖アウグスティヌスの『不正な法はそもそも法ではない』という意見に賛成です。……聖トマス・アクィナスの言葉を借りれば、不正な法とは永遠でかつ自然な法に基づかない人間の法のことです。人間の人格を高めるのは正しい法であり、人間の人格を貶めるのは不正な法です。あらゆる人種隔離は人間の魂を歪め、人格を傷つけるからです。それは人種隔離する側に誤った優越感を与え、人種隔離される側に誤った劣等感を与えるからです」(『キング自伝』梶原寿訳、p.230)

(5)いかなる種類の過激主義者か

 キング牧師は、さらにこうも言います。

「最初私は過激主義者というレッテルを貼られたことに失望しましたが、その問題を考え続けているうちに、次第にそのレッテルに一定の満足感を覚えるようになりました。……問題は、私たちが過激主義者だろうか否かということではなくて、いかなる種類の過激主義者だろうかということです。いったい私たちは憎悪のための過激主義者なのか、それとも愛のための過激主義者なのでしょうか。不正義の維持のための過激主義者なのか、それとも正義の拡大のための過激主義者なのでしょうか。あのゴルゴタの丘の劇的場面では、三人の男が十字架につけられました。私たちが決して忘れてはならないことは、その三人ともが同じ罪名 −過激主義の罪− で十字架につけられたということです。その内の二人は不道徳のための過激主義者でした。……しかしもう一人のイエス・キリストは、愛と真理と善のための過激主義者でした」(同p.236)。

 なかなか興味深い手紙であります。

(6)現代においても

 私は、こういうことは形を変えて今日でも存在する、これは30年前、40年前の話だ、しかも外国の話だと、済ますことはできないと思います。一つは、今も世界の各地で、不正義のため、抑圧のために拘留されている人たちがいるという事実であります。
 もう一つは、私たちが今の日本で拘留されることはないかも知れませんが、イエス・キリストのなさったように、愛の過激主義のゆえに、あるいは不正義を訴えようとすれば、どこかでそのようなことにぶつからざるを得ないのではないかと思います。
 例えば、憲法「改正」は大問題です。今の日本は、だんだんと戦争をしやすい国になっていこうとしています。憲法制定60年を迎えて、先週の憲法記念日には、あちこちでさまざまな集会がもたれました。そうしたところでも、将来を見越した、平和を実現するための戦いが存在するのではないでしょうか。

(7)パウロの大らかな一面

 パウロの投獄は、かえって福音の前進をもたらしましたが、同時に意外な事態をもたらしたようです。そのようなパウロに対して競争心を持ち、ひがむ人があらわれたのです。
 「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます」(15節)。「ねたみと争いの念で」キリストを宣べ伝えるとは、一体どういうことであろうかと思います。
 パウロは、もっと先の方では、「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい」(3:2)と、厳しい言葉を語りますが、ここでは、そういう論敵ではなく、基本的にはパウロと同じ立場に立つ同労者たちについて述べているのでしょう。今日で言えば、教会同士の張り合いであるとか、教派間の競争のようなことに通じるかも知れません。
 パウロは、ここではそれを一喝するのではなく、「理由はどうあれ、福音が宣べ伝えられているのであればいいではないか」と達観しているのです。

 「一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(16〜18節)。

 これは、パウロのイエス・キリストへの信頼、そして神さまへの信頼のゆえであります。すべてはキリストのため。そして「生きるにも死ぬにも、キリストがあがめられるように。そのことのために、自分は生きているのだ」という思いであります。
 ガラテヤ書2章20節で、パウロは「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と言っております。私は、パウロのこの境地というのは、完全に神様に自分を委ねきったところではじめて生まれてくるものであろうと思います。「自分が、自分が」という思いが、すうっとなだめられて、何が本質的に大事かということが見えてくるのであります。

(8)「ハイデルベルク信仰問答」問1

 私たちが3年以上かけて、キリスト教基礎講座で学んでまいりました「ハイデルベルク信仰問答」問1は、このように始まっていました。

「問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
答 わたしがわたし自身のものではなく、
体も魂も、生きるにも死ぬにも、
わたしの真実な救い主、
イエス・キリストのものであることです。」

 究極的な慰めは、私がイエス・キリストのものだということにある。もはや私は私のものではない。からだも魂も、生きることも死ぬことも、キリストに向かい、キリストに受け止められている。このことの中にこそ、私たちの生死を超えた究極の慰めがある。「ハイデルベルク信仰問答」は、そのようにして、このテキストを始めるのです。全体の主題のようなものです。
 私たちも信仰の道を歩んでいく時に、最後はそういうところを見据えて生きていきたいと思います。そうした中でこそ、正義の戦いも、平和のための戦いも、気負うことなく、しかしひるむことなく、受け止められるようになるのではないでしょうか。
詩編84編を、今読んでいただきました。

「いかに幸いなことでしょう。
あなたによって勇気を出し
心に広い道を見ている人は。
嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。
雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。
彼らはいよいよ力を増して進み
ついに、シオンで神にまみえるでしょう。」
(詩編84編6〜8節)

 この詩編の詩人も同じ境地に立っていたのではないでしょうか。
 私たちは今、どんな状況にあるか。日本の福音の前進のため、あるいは神の国の実現のために、社会の中で戦っておられる方もあるでしょう。そこまではできなくても、そのような声を通して、キリストの声を聞こうとしている方もあるかも知れません。自分の病気と闘っておられる方もあるでしょう。そうした思い、祈りが、「自分はイエス・キリストのものである」というところで、一つにされて進んでいきましょう。


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