霊におおわれた世界

〜創世記による説教(1)〜
創世記1章1〜2節
使徒言行録2章1〜4節
2007年5月27日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)二つの誤った読み方

 本日は、ペンテコステの礼拝であります。この私たちの礼拝にも、神様の霊が豊かに降るようにと祈り、御言葉に聞きましょう。本日から、ご一緒に創世記を読み始めることになりました。
 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(1〜2節)。
 これが、今日、私たちに与えられたテキストであります。短い文章ですが、大きな内容をもつ大事なテキストであります。
 「初めに、神は天地を創造された。」これは、創世記第1章において、この後秩序的に語られる天地創造物語の序文のような言葉です。同時に、聖書全体の序文とも言える言葉です。
 「初めに、神は天地を創造された。」神は、この世界ができる以前から存在し、その神によってこの世界が創られたのだ、という高らかな宣言であります。
 ただし当たり前のことですけれども、誰もそれを見た人はいません。他のことはともかく、これについては絶対に証人はいません。人間そのものが、まだ誰もいないのですから。私たちは、この天地創造物語を一体、どのようにして読めばいいのでしょうか。私は、両極端の誤った二通りの読み方を避けなければならないと思います。
 ひとつは、聖書の言葉には誤りはないということを、科学的な意味においても理解し、あたかも科学の教科書のような読み方をするものです。キリスト教の「超」保守的な信仰をもつ人々は、聖書は、神様が言ったことを、人間がそのまますらすら書いたと信じています。あるいは信じようとし、それに矛盾するかに見える科学、進化論などを躍起になって否定します。ダーウィンの進化論が正しいかどうかは別として、少なくとも、聖書がそれに代わる教科書になりうるというのは、どうしても無理がありますし、そうする必要もありません。
 しかしそのような理解は、一見、とても信仰的なように見えて、実はもろい信仰ではないでしょうか。自分の中の疑いを封印し、排除して成り立っている。ですから、聖書に書いてあることがそのまま起こったのではないということになると、とたんに信仰そのものを失うことになりかねません。
 私たちが、「聖書は神の言葉にして、信仰と生活との誤り無き規範なり」と告白しているのは、そんなことではつぶれない、もっとダイナミックで、柔軟な事柄であると思います。
 もう一つの誤った読み方は、それと逆に、これを単なる古代人の神話と片付けて、合理主義的に理解しようとする読み方です。なぜこういう書物が生まれてきたか。その背景にはどういう神話があったのか。それを人間的レベルで読もうとする。考古学的、社会学的、文学的意味を分析することは上手なのですが、そこから神の啓示を聞こうとはしない。人間の文化の所産というレベルで終わってしまい、神の言葉としては読まない。これもまた不信仰な誤った読み方であると思います。

(2)信仰の戦いの言葉

 確かに、この天地創造の物語は、たくさんの神話的要素をもっております。創世記第1章の天地創造物語は、実は旧約聖書の中では、新しい方に属するものです。聖書の一番前にあるからと言って、一番古いという訳ではありません。創世記の第2章にも創造物語が出てきますが、こちらの方がずっと古いのです。
 この第1章が書かれたのは、紀元前6世紀頃だと言われます。それはイスラエル・ユダの国が滅び、都エルサレムがバビロン軍によって崩壊し、主だった人はバビロニアへと連れ去られた時代、バビロン捕囚の時代です。当時のバビロニアには、さまざまな天地創造神話が存在しました。その中には、紀元前7世紀のアッシリア王アッシュルバニパルの図書館跡から発掘された粘土板に記されているものもあります。その古い神話とこの創世記第1章がとてもよく似ているということです。つまり、聖書の創造物語は、それよりも古いバビロニアの創造神話の影響のもとに成立しているということが言えるのです。ところが、よく比べてみると、決定的な違いがあります。バビロニア神話の方は、多神教ですから、神々と怪物の闘争を通して天地が創造されていく。その点が違うのです。
 その当時、世界最大の都バビロンでは、壮大な祭りが行われていました。新年祭には創造神話が祭儀的に演出されました。巨大な神々の威風堂々たる行列を見て、捕虜であったイスラエルの民は力の差を見せつけられ、圧倒される思いがしたことでありましょう。戦争に敗れて捕虜となった彼らには、それはイスラエルの神、ヤハウェの敗北のように思えたかも知れません。
 そうしたバビロニアにおいて、この物語が書かれていったということに、私は大きな意味があると思います。つまり、バビロニアの神々の創造神話のモチーフ、材料を使いながら、「いや違う」という思いで、それに抵抗し、対決するようにして、創世記の天地創造物語が書かれていったのです。それは、彼らにとっては、自分たちの存在を否定され、笑い飛ばされかねないように状況の中における信仰の戦いであり、信仰の宣言であったのです。「はじめに、神は天地を創造された。」
 私たちも、そうした彼らの信仰の宣言に応答するように、アーメンと言いつつ、この言葉を読みたいと思います。今日の私たちの世界も、当時のバビロニアとは違った意味かも知れませんが、神がこの世界を創られたということを無視し、否定し、一笑に付すような力に取り囲まれています。創造主なる神に対する恐れがありません。科学もまた神を必要とせず、人間の力だけでやっているように見えます。よき支配者がいないのであれば、自分が秩序を守らなければならない。自分が悪いやつをやっつけなければならない。すぐに自分が、そして自分の国が支配者になろうとする。そこで、逆に抑圧や、迫害が起き、そこで不信感が増幅し、そこで戦争が起きてくるのではないでしょうか。「初めに神は、天地を創造された。」私たちはすべてのことをそこから始めなければならないでしょう。

(3)無からの創造か、混沌からの創造か

 この1節と2節の間には、実は微妙なずれがあります。
 1節の「創造する」(バーラー)という言葉は、普通、人間が何かを作る場合には用いず、神の場合にだけ用いる特別な言葉だそうです。「労することなく造る」「言葉、または意志によって造る」という風な含みがある。それは「無からの創造」を暗示しています。確かに、神は無から有を作り出すことのできるお方です。その信仰は、新約聖書にも引き継がれています。パウロも「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」(ローマ4:17)と言っています。
 しかし2節を読むと、少し表現が違っております。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」この2節が暗示していることは、無からの創造ではなくて、何かがあった。どうも水はあった。その混沌に霊を注ぎ込んで、秩序あるものにした。カオス(混沌)をコスモス(宇宙、秩序)にしたということです。
 先ほど、申し上げたように、この物語はバビロン捕囚の時代に成立しました。それは、形なくむなしく、まさしく混沌のような状態でありました。そういう状態からでも神は秩序を創造されるという信仰が、ここに映し出されているように思います
 果たして無からの創造なのか、混沌からの創造なのか。私たちは、もともと科学的な話をしているのではないので、どちらが正しい、と決める必要はないと思います。神は無から有を作り出すことのできるお方であり、混沌を秩序付けて宇宙とすることのできるお方であります。聖書そのものがその両方を語っている。そのあいまいさというか両義的な言葉がかえって聖書の解釈を豊かにし、理解の幅を広げてくれるのではないでしょうか。

(4)神の霊がおおい動く

 「神の霊が水の上を動いていた」とあります。前の口語訳聖書では、「神の霊が水のおもてをおおっていた」と訳されていました。「動いていた」と「おおっていた」では、随分違うように思えますが、これも両方の意味がある言葉なのです。「おおい動いていた」と訳している聖書もありました。神の霊が地の面をおおいながら、さーっと激しく動いているのです。これから何かが起ころうとしている、その直前の状態です。
 この「おおい動く」という動詞は、聖書の中に、あと1回だけ出てくる言葉です。それは申命記32章11節。「鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように、ただ主のみ、その民を導(く)」(申命記32:11〜12)。この「飛びかける」というのが、「おおい動く」と同じ動詞なのです。
 鷲が雛鳥の巣の上を飛びかけるように、神の霊が混沌とした深淵、闇、水の面をおおい動いている。そして神の創造の御業が始まろうとするのを今か今かと待ち受けている。そうした情景が浮かんでまいります。

(5)ペンテコステ前夜の情景

 私たちはこの情景から、もうひとつ別の情景を思い描くことができるのではないでしょうか。それはペンテコステ、あるいはペンテコステ前夜の情景であります。
 「五旬節の日が来て、一同がひとつになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(使徒2:1〜2)。
 ペンテコステの出来事が起きる前に、天の上では、すでに激しい嵐のように、聖霊が弟子たちの上をおおい動いていたのです。
 イエス・キリストは復活された後、再び弟子たちの目の前から姿を消してしまわれました。弟子たちの心は揺れ動いていました。「主イエスは、本当によみがえられたのだろうか。あれはやっぱり夢か幻ではなかったのか。この先、私たちは一体どうなるのだろう。いつまでこんなことをしているのだろうか。早く目を覚まして、見切りをつけて、元の生活に戻った方がいいのではないか。」ある者は、その心の中にどうしようもない空しさが広がっていたのではないでしょうか。混沌とした状況に陥りかけていたのではないでしょうか。あのバビロン捕囚の時のイスラエルの民と同じです。
 その気持ちをかき消すようにして、心を一つにして、信仰を奮い起こすために一同で共に祈っていたのです。神様はその祈りにこたえ、混沌したものを形ある教会にするために、言葉を変えれば、教会を「創造する」ために、聖霊を注がれたのでした。

(6)原初の福音

 私は、今日の私たちも、この神の霊を必要としていると思います。この神の霊が私たちに命を与え、私たちを新しいものに創りかえるのです。
 私たちは、この世界が、それこそ天地が創られる以前から、神の霊におおわれていたということを、今、皆さんと一緒に聞きました。これは大きな福音ではないでしょうか。そしてこの神の霊は天地創造の後は、どこかへ吹き飛んでしまったというのではありません。今もこの神の霊がこの世界をおおい、この世界の上を激しく駆け巡っているのです。
 私たちの世界は別の霊におおわれているように見えます。虚無の霊、偽りの霊、いさかいの霊、臆病の霊、恐れの霊。そういう悪しき霊があたかも私たちを支配しているように見えます。しかしそうではない。その上では神の霊が世界をおおっているのです。私たちは、神が神の霊によって創られた世界に住んでいるのです。
 今、私たちに必要なことは何でしょうか。それは「この神の霊に地上まで降りてきてください」と祈ることではないでしょうか。

(7)ブラジルの世界メソジスト大会

 1996年、ブラジルのリオデジャネイロで、第17回世界メソジスト大会という教会会議が開催されました。私はその頃、日本キリスト教団からの宣教師としてブラジルにおりましたので、教団代表としてこの大会に参加しました。世界中のメソジストのクリスチャンたちが5千人集いました。私たちの経堂緑岡教会もメソジストの伝統に属する教会です。メソジズム運動というのは、ジョン・ウェスレーという人の燃えるような信仰経験によって始まった信仰覚醒運動でした。ちょうどこの5月24日がウェスレーの回心記念日です。
 この大会の開会礼拝の説教で、当時、世界メソジスト連盟の議長であったドナルド・イングリッシュ牧師は、次のように語りました。

「ペンテコステの日のクリスチャンのように、今日のメソジストたちも共に祈るべきである。初代のクリスチャンにとっては、祈りこそ真の仕事であった。私たちは今、あの最初のペンテコステの前夜にいるのではない。しかし聖霊が私たちすべてに力を注がれる時、私たちは新しいペンテコステの前夜にいると言えないはずはない。神の恵みによって、その準備ができるように祈りたい。」

 祈りは、クリスチャンの最も大切な仕事であります。私たちも初代のクリスチャンたちのように、聖霊を受けて、燃えあがるような熱い信仰の経験をしたいと思うのです。喜んで神さまの仕事ができる人間になりたいと思います。そして神の霊によって歩む教会になりたいと思います。奇しくも今日は、教会総会の日でありますので、神の霊が教会をおおい、その霊に導かれ、歩み出されることを共に祈りましょう。
 私たちには不可能に見えることであっても、神様には可能です。神様は無から有を生み出すことのできるお方です。混沌から秩序を生み出すお方です。その神の霊が降るように祈りましょう。


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