光ある世界

〜創世記による説教(2)〜
創世記1章3〜5節
ヨハネによる福音書1章1〜5節
2007年6月3日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)光の創造

 聖書によれば、神がこの天地を創造されるにあたって、最初に創造されたものは「光」でありました。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。」(3〜4節)。
 神が最初に創造されたものは光であったということには深い意味があると思います。この光というのは、どうも太陽や月のことではないようです。太陽や月は、第四日目に造られることになっています(14〜19節)ので、この第一日目に創造された「光」というのは、もっと根源的なことを指し示しているように思います。神がこの世界を始められるに当って、最も大切なもの、世界を導くものとして、光を創造されたということです。これは私たちの世界、この創られた世界の本質のようなものと言ってもいいのではないでしょうか。それが光です。あるいは私たちの歴史を導く原理のようなものです。闇が歴史を導くのではなく、光が導いている。そのことが最初に宣言され、そこから世界が始まっていったのです。

(2)闇の問題

 その先には、「神は光と闇を分け」とあります。おもしろいことに、神は闇を創造されたとも、それを見て「良し」とされたとも書いてありません。光が造られたことによって、光と闇が鮮やかに区別されるようになった、ということでしょうか。
 神が闇を造ったのでないとすれば、一体誰が闇を造ったのか。光を造った神がいるのであれば、闇を造った神もいるのではないか。悪はどこから来たのか。確かに難しい哲学的な問いではあります。昔からそういう議論はありました。光と闇、善と悪を対立させる二元論(グノーシス主義)です。聖書の中でもヨハネによる福音書などは、そういう二元論の影響を強く受けていますが、聖書の場合にはどんなにその影響を受けていても、光と闇は決して対等ではありません。いつも光が優位に立っております。
 「闇」ということで、わたしたちはサタンの支配、悪霊の支配を考えることができるでしょう。それは決してあなどることができないものです。いつも私たちはその力に脅かされています。私たち人間の力よりもはるかに強い力をもっています。しかしその闇も、光の前ではくすんでしまう。陰のようなものです。光がない時には、自分が支配者のようにふるまっているけれども、光が登場すれば、退場せざるをえない。それが「闇」の本質です。
 私たちの世界には確かに「闇」が存在します。「闇」という言葉で象徴されるもの、悪、災い、病気、死、そういう力が私たちを覆っています。しかし「光はそれよりも優位に立っている」と聖書は告げるのです。光、それがこの世界の本質であり、そこに神様の大きな意志が働いている。神は闇をも支配しておられるのです。
 神様の創造は三つのステップで行われていきました。まず言葉が語られて、そしてその言葉どおりに出来事が起こって、さらにそれを見て、神が「良し」とされるのです。言葉と出来事と確認(祝福)、この三段階です。このところでは、「光あれ」という言葉です。

(3)神の言葉には力がある

 旧約聖書の言葉、ヘブライ語では、「言葉」というのは「ダーバール」というのですが、この「ダーバール」というのは、単に意志伝達の道具としての「言葉」というのではなく、「事柄」「出来事」という意味もあり、さらにその「意味」「解釈」という含みをもっているそうです。ある事件、ある事物の背後には、必ず「ダーバール」(言葉、意味)があると考えられていた。逆に言えば、その「ダーバール」(言葉、意味)が、その事物を生じさせたり、その事件を引き起こしたりするということです。
 「初めに言(ことば)があった。」これは、先ほど読んでいただいたヨハネ福音書冒頭の言葉です。ここでは、「ロゴス」というギリシャ語が用いられているのですが、日本語でも、「言」という一文字を当てて、特別な意味を込めています。
 ヘブライ語の「ダーバール」とギリシャ語の「ロゴス」では、少しニュアンスが違うようです。ダーバールの方は、動的(ダイナミック)で、動きがあるのに対して、ロゴスの方は、静的(スタティック)で、哲学的・理性的な感じがします。しかし、「はじめに言があった」というのは、旧約聖書以来の伝統、「言葉が出来事を引き起こす」という意味を込めて使われているのでしょう。
 神の言葉は必ず出来事を伴う。力を持っていて、出来事を引き起こす。言葉と行為が一つである。裏表のようなもの。言葉が空しく、空振りに終わらない。裏切られない言葉。それが聖書の世界です。

(4)言葉のインフレ

 私たちの世界は、そうではないですね。言葉はいつも裏切られる。信用できない言葉が氾濫している。政治家の言葉は信用できない。教師の言葉も信用できない。あるいは、宗教家の言葉も信用できない、と言われているかも知れません。宗教家、牧師も人間ですから、そういう批判も甘んじて受けるべきだと思っています。聖書そのものの中でも、宗教家が偽善者として批判されています。
 「言葉のインフレ」ということを、申し上げたことがあります。インフレというのは、必要以上に、お金が出回ることによってお金の価値が下がってしまい、信用できなくなってしまう。そしてさらにお金を発行する、という悪循環です。私は経済のことはよく分かりませんが、大体、そういうことではないでしょうか。
 それを言葉に当てはめてみると、言葉が氾濫して、使い捨てのような言葉に満ちあふれている。どの言葉が大事なのか、どの言葉を信用してよいかわからない。特にインターネットの世界になって、余計そうでしょう。聖書は、そういう重みのない言葉の世界、信用できない言葉の世界にあって、私たちを裏切らない言葉が存在する、ということを証しする書物ではないでしょうか。2〜3千年の間、その言葉が変わらずに伝えられてきて、それが人を動かしてきた事実そのものが、そのことを証していると思います。
 預言者というのは、神の言葉を預かった人たちでした。預言者はいつも「主は、こう言われる」と言って、預言を伝えました。そしてその言葉どおりの出来事が起こっていきました。聖書は、そういう世界を私たちに証し、見せてくれるのです。
 その神様が、最初に発せられたのが「光あれ」という言葉であった。私たちも世界の本質、歴史の本質である「光あれ」という言葉を、しっかりと聞き取りたいと思います。この「光あれ」という言葉によって、神様は光を創造し、光ある世界を「良し」とされた。肯定された。私たちは、その世界に、今生きているのです。

(5)時間の創造

 「神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」(4〜5節)。
 光の創造によって、昼と夜が生じました。このことも興味深いことです。それは、ここから時間が始まったということを意味しているのではないでしょうか。それまでは混沌としていたものが昼と夜というメリハリができることによって、一日一日が数えられるものとして始まった。光の創造は、同時に時間の創造でもあったのです。天と地という空間が造られる前に、すでに時間が始まっているというのは、興味深いことです。空間よりも前に、時間が創造されている。あまり抽象的な話になってもよくないと思いますけれども、このことは聖書においては、歴史というものが大きな意味をもっているということを、指し示しているように思います。
 天地の主なる神は、同時に歴史の主であり、歴史の導き手でもあるのです。私たちの歴史には始まりがあって、終わりがあるのです。聖書によれば、時間は永遠にぐるぐると回っているというわけではありません。神様が意志をもって、この世界を始められた。それがいつであったのかはわかりません。今日の宇宙観の常識からすれば、それはとてつもない大昔だということになるでありましょう。それでもかまわないのです。「いつ」というのは、自然科学がある程度、答えてくれるでしょう。
 聖書が私たちに告げるのは、それとは別次元のことです。それがいつであるにしろ、とにかくそれは始まりを持つものであり、それは神の意志によって始められたものであるということです。この世界の成り立ち、宇宙の成り立ちについても、科学が問うのは「いかに」ということであり、信仰の問いは、「なぜ」ということです。これからのことについても、聖書的な問いは、この世界がどうなっていくのかということよりも、どう導かれるのかということなのです。

(6)夕べがあり、朝があった

 さて、光を創造し、「良し」とされた後、「夕べがあり、朝があった。第一の日である」とあります。聖書の時間は、夕べで始まり、朝、昼で終わります。そういうサイクルです。私たちの自然感覚とは、異なるものであろうかと思います。私たちの自然感覚では、夜明けと共に新しい一日が始まり、夜更けに一日が終わるというのではないでしょうか。あるいは時計では、夜中の12時で日付が変わり、新しい一日が始まって、次の夜中で終わります。
 聖書では、一日は夕方から始まって、次の夕方で終わる。ユダヤ教では、今でも日没から新しい日になるとします。安息日も金曜日の日没から始まります。イエス様の遺体を十字架から降ろす時も、夕方までに何とかしなければならなかった。それは、夕方から安息日が始まってしまうからでした。
 しかし私は、夕べから朝へというこの流れは、聖書の世界観、歴史観をよく表していると思います。あるいは人の一生も、そのように捉えております。普通は、人の一生というのは、若いうちはだんだん上り坂ですが、年をとるに連れて下り坂になってくる。それでやがて死を迎えて終わり、というのが一般的ではないでしょうか。しかし聖書では、そうではありません。それは永遠の朝に通じているのです。

「かがやく とこしえの朝
いのちに めさむるとき
この世の うれいは去りて
あおぎみん 神のみ顔」
(『讃美歌21』211)

 私たちは神の始められた時間の中に生きています。そしてその時間はいつか終わります。一人一人の人生もそうですし、この世界もそうです。しかし再び闇が世界を覆って終わるのではありません。私たちの歴史、あるいは人生は光のうちに完成する。ある人はそのことを「もはや夜にならない日が来る」という言い方をしました。暗闇が完全に消えうせ、光が完全に支配する日が来るのです。

「しかし、ただひとつの日が来る。
その日は、主にのみ知られている。
そのときは昼もなければ、夜もなく
夕べになっても光がある。」
(ゼカリヤ 14:7)

これが聖書の世界です。
イエス・キリストは、そのことを証するために、この世へ来られたと言ってもよいでありましょう。主イエスは、こう言われます。

「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)。
「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」(ヨハネ12:46)。

 私たちのこの世界には、まだ闇がたくさん残っています。闇の方が濃いように見えます。しかしイエス・キリストのまわりは光が照っているのです。それは来るべき日の先取りのようなものです。やがて起こることが、そこでぽつぽつと始まっている。終わりの日、世界全体で起こることが、すでにイエス・キリストのまわりでは実現している。それがすでに始まったということを告げるために、イエス様は来られたのです。

(7)光の子として歩みなさい

 私たちは光を見る時(さまざまな光がありますが、太陽の光であれ、月の光であれ、あるいは電気の光であれ)、神様の創造の業を思い起こしたいと思います。また神様のご意志を思い起こしたいと思います。
 私たちの世界に光が存在する。それは神が最初に「光あれ」と言われたからです。そこに神の意志があったからです。そうでなければ光は存在しませんでした。私たちはこの光のもと、神の意志のもとで生きていることを感謝したいと思います。
 暗闇の中を歩んでいるように感じている方もあるかも知れません。真っ暗闇ではなくても、自分の人生、生活には翳りがあると、感じておられる方は、少なからずあるのではないしょうか。だんだんこの翳りの方が強くなって、やがて自分の人生を覆い尽くしてしまうのではないかと、不安になります。しかし勇気を出して、上を向いて、歩んでいきましょう。光が勝つのです。
 自分の病気や家族の病気に耐え切れない気持ちの方もあるかも知れません。生活が破綻してしまって、どうにもならないと思っておられる方もあるかも知れません。しかし勇気を出しましょう。やがて光が全体を覆い尽くす日が来るのです。

「闇の中でも主はわたしを見ておられる。
夜も光がわたしを照らし出す。
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。
夜も昼も共に光を放ち
闇も、光も、変わるところがない。」
(詩編139:11〜12)

力強い言葉であると思います。この光の導きを信じて、歩んでいきましょう。


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