天をあおぐ世界

〜創世記による説教(3)〜
創世記1章6〜8節
マタイによる福音書6章9〜13節
2007年7月8日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)古代の人の世界像

「天地創造」の話を続けております。第一日目の光の創造に続き、その翌日、第二日目に、神は「大空」を造り、それを「天」と呼ばれた、と記されています。「地」の部分の創造は、第三日目以降に語られますので、「地」よりもさきに、「天」が創造されたということです。これが、今日、私たちが心に留めるべき事柄です。

「神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ。』神は大空を造り、大空の下と大空の上の水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である」(創世記1:6〜8)。

 この「大空」という言葉(ヘブライ語で「ラーキーア」)は、ハンマーで打ち伸ばされたもの、延べ広げられたものを意味するそうです。ですから「蒼穹」とか「天蓋」という風に訳すこともあります。その方がこの言葉のニュアンスをよく伝えているかも知れません。
 古代の人々は、「大空」というのを、地をおおう固い半球状のもの、丸天井のように想像しておりました。そしてその丸天井の上には、巨大な貯水池のような部分があって、神様はそれを開閉することによって、雨や露、雪や雹を降らせたり、風を吹かせたり止めたりしているのだと考えておりました。太陽や月や星というのも、まさにプラネタリウムのように、丸天井にちりばめられていると考えていたのです。
 この箇所も、そうした世界像を前提にして読むと、よくわかると思います。つまり大空という固い丸天井を造って、水をその上と下に分けたということです。それが開閉式になっているというのですから、東京ドームのようなものを想像していたのでしょうか。

(2)天とはどこか、天とは何か

 今日の私たちは、世界が古代の人たちが想像したようなものではないということを知っております。それでは、ここに書かれている天地創造の記述は、世界がどのようになっているかを知らない古代人の記述、無知をさらけ出したような物語としてしか読めないのでしょうか。あるいは、せいぜい、ほほ笑ましい古代人の幼稚な世界観を表したものなのでしょうか。私は、そうではないと思います。確かに古代人の世界観、世界像を通してではありますが、私はここに深い神の言葉を読み取らなければならないと思います。
 聖書の中には、これ以降、終わりの「ヨハネの黙示録」に至るまで、何度も何度も「天」という言葉が現れてきます。ある人が調べたところによりますと、新約聖書だけでも284回も出てくるそうです。「天」という言葉は、聖書の中でも最も大事な言葉のひとつなのです。その「天」がどういう風に使われているかを見てみますと、それは必ずしも「空の上」、「雲の向こう」という意味ではありません。
 それは神様がおられる場所です。私たちが決して到達することができない場所であり、天使たちがその神様に仕えている場所です。神の御座がある場所であり、神はそこで天自身と地を支配しておられるのです。カール・バルトという神学者は、この「天」のことを「神の職務席」と呼びました。神様は、そこから天と地を支配するという職務を果たされるのです。
 確かに昔の人は、物理的、空間的にも上方、つまり雲の向こうにそういう世界があると考えていました。それはそれでよかったのだと思います。なぜなら、昔の人にとっては、雲の上の世界は決して到達することのできない領域であったからです。あの雲の上の、天という場所で、神様は天上世界と地上世界の両方を支配しておられると信じていました。
 私たち人類は、今日、雲の向こうまで行くことができるようになりました。月まででしたら、すでに何回も行きました。そして行こうと思えば、月のもっと向こうまでも行く技術を人類はすでに持っています。しかし、そのようにしてどんどん宇宙の果てにまで行ったとしても、そこで神様に出会えるわけではありません。
 それにもかかわらず、私たちは今もなお、神様は天におられて、私たちの世界を支配し、導いておられると信じているのです。そうでなければ、どうして私たちは「天にまします我らの父よ」と祈ることができるでしょうか。
 聖書が、「天」という時、それは私たちの住んでいるこの世界とは質的に違う世界のことを言っているのです。その意味では、この大空も宇宙もすべて、地に属する世界ということができるでしょう。私たちの住んでいる世界の延長線上にあり、いつかは到達できる世界であるからです。
天とは、私たちの側からは決して到達できない、知ることのできない秘儀の世界、私たちの目の届かない世界です。

(3)まず天の創造

 創世記のこの天地創造物語を記した人は、彼ら自身の世界像を用いながらではありますが、「私たちの目に見えない世界、私たちのこの地上世界とは質的に異なる世界が存在するのだ。そして神は、まず天という世界を創造し、その次にこの地上世界を造られたのだ」という信仰を言い表しているのです。私は、この順序は正しいと思います。
 天の世界は、私たちには秘儀として隠されていますから、よくわからないわけですが、私たちの、この世界に優先するのです。この世界に優先する世界を、神は造られた。だからこそ、私たちは、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのです。この祈りは、御心、すなわち神様の意志は、天においては一足早く実現しているということが前提になっています。天においてすでに実現している神の意志が、この地上においても実現しますように、と祈るのです。
 私たちの世界は、この「天」をあおぐ世界です。私たちの世界は天を持っているがゆえに、希望があるのです。逆に言えば、天を持たない世界には希望がありません。

(4)カール・バルトの『ローマ書』

 先ほども名前をあげましたカール・バルトは、20世紀最大の神学者であると言われていますが、無名の田舎牧師であったカール・バルトを一躍有名にしたのが、『ローマ書』という本、ローマの信徒への手紙を細かく注解した書物でありました。1919年に初版が出て、あっという間にヨーロッパ中で評判になりました。それまで、つまり19世紀には聖書を注解するということになれば、歴史学的、文献学的に分析をすることやり方が主流でした。大雑把に言えば、それが学問的ということでありました。しかしそうした中からは、信仰につながることは出てこない。信仰のことなどを言うと、それは学問的ではないという風潮であった。ところが『ローマ書』は、それまでのものとトーンが全く違っていて、信仰が生き生きしている。しかもしっかりと学問的である。私も学生時代に興奮して、この本を読み、その魅力にとりつかれ、すっかりバルティアンになりました。
 案の定、第一版が出てから、賛辞と共に、いろんな批判が出ました。「お前の本は全然客観性を欠いた主観のかたまりではないか」という批判もありました。それに対して、バルトは『ローマ書』第二版の序文で、こう答えています。ちょっと難しいので、私なりに咀嚼して言えばこういうことです。

「人々は、私がこの本を書いた方法は、私の勝手な思考方式(システム)であろう、と言う。それは読解と言うより、むしろ主観的な読み込みではないか。そういう疑いは、全く私の企画全体に対して、人々が最も口にしやすい批評であろう。私は、これに対して次のように答えたい。もし私が『方式』(システム)なるものを持っているとすれば、それは『神は天にいまし、あなたは地上にいる』(コヘレト5章1節)ということだけだ。わたしにとって、この神とこの人間の関係、ないしはこの人間とこの神の関係が、聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である。」

(5)地上から天を見上げる

 これははっとさせられることであり、非常に大事なことを言っております。つまり人が神について語る時には、地上にいる人間が天を見上げるような仕方でしか語ることができない、そのことに徹底的にこだわった、ということです。
 例えば「神が人を創られた」ということを客観的に述べようとして、第三者のように述べるならば、その神は、すでに、私を創った神ではない、ということです。私を創った神について語ろうとすれば、それは地上にあって、天を見上げる仕方でしか語ることはできないのです。私たちは、地上から天を見上げる仕方で考えた時にのみ、本当に今も生きて働いておられる神様について考えることができるのです。「神は天にあり、あなたは地上にいる」(コヘレト5章1節)。この言葉の意味を深く悟ること、それが、私たちが生きる上で、最も基本的なことなのです。
 教会を建てるということもそうでありましょう。「神は天にあり、あなたは地上にいる。」牧師も信徒も、この同じ場所から神をあおぐところに立たなければ、教会は立たないのです。

(6)天から地への到来

 今から二千年前に、この天から、天と地にとって決定的な指令が下されました。父なる神のみもと、つまり天からイエス・キリストが地上に来て人間となられる、という指令です。私たちをその天へと招くためです。地上の世界の側からは決して天に到達できない。質的な断絶があり、しかも隠されているのです。ただ一方的に、天から地に向かってのみ、道をつけることができ、橋をかけることができるのです。イエス・キリストは、その道をつけるため、その橋をかけるために、天から降りてこられたのです。ルカ福音書は、その時のことをこう記しています。

 「その地方で羊飼いたちが野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。……』すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美していった。
『いと高きところには神に栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。』」
(ルカ2:8〜14)

 「いと高きところ」とは「天」です。そこにおられる神に栄光を帰している。そして、地上には平和を告げているのです。そのお方の天から地上への到来により、地に平和がもたらされるのです。天使たちは、この宣言の後、天に帰って行きました(ルカ2:15)。
 またイエス・キリストが洗礼を受けられた日のことを、聖書はこう記しています。

「イエスは洗礼を受けると、すぐに水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは神の霊が鳩のようにご自分の上に降ってくるのをご覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(マタイ3:16〜17)。

 主イエスの受洗によって天が開き、天と地がより近くなりました。
 そして十字架にかかられ、復活された後、再びこの天に昇っていかれました。マタイ福音書の終わりに、こういうイエス・キリストの言葉が記されています。
 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28:18)。こうして復活されたイエス・キリストは教会だけではなく、また地上だけではなく、「天と地」を、一切の権能をもって支配されるのです。

(7)天は永遠のふるさと

 私は、神様がこの地上世界を創造される前に、天の国を造られたということは何と幸いなことであろうかと思います。普通、天地創造というと、私たちは目に見えるこの世界のことしか考えないのではないでしょうか。しかしそうではないのです。神様は目に見えないもう一つの世界を、私たちの世界に優先する世界を造られた。そこは父なる神が直接支配する国です。イエス・キリストが父なる神の右に座す世界です。すでに御心が実現している世界です。
 そしてそれは、私たちにとっては永遠のふるさと、やがて私たちが帰っていく世界でもあります。
パウロは言いました。「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)。
 またイエス・キリストは、こう言われました。

「わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14:2〜3)。

 聖書が「天」という時には、まさにそういう国のことが考えられているのです。
 もっともこの天は、ただ単に私たちが死んでから行く世界、というだけではありません。今も神はそこにおられ、そこから私たちの、この見える世界を導き、支配しておられる。その天はこの地上に向けて開かれているのです。向こうからこちらへとつながっているのです。イエス・キリストによって、道がつけられました。
 神は、今日もそこから私たちを見守り、導いてくださる。必要な糧を与えてくださる。弱い者の味方をし、孤児を見捨てず、必要な裁きをなしてくださる。そのお方のおられる天を仰ぎ見て、「天にまします我らの父よ」と祈りつつ、私たちも新たにされたいと思います。最後に、イザヤ書45章8節の言葉をお読みいたします。

「天よ、露を滴らせよ。
雲よ、正義を注げ。
地が開いて、救いが実を結ぶように。
恵の御業が共に芽生えるように。
わたしは主、それを創造する。」

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