豊かな大地をもつ世界

〜創世記による説教(4)〜
創世記1章9〜13節
マタイによる福音書6章28〜34節
2007年9月30日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)海でないところの陸地

 神は第二日目に「天」を造られた後、第三日目に「地」を造られたのです。さて「地」(the earth)とは何でしょうか。それは、私たちの住む場所のことです。ただし厳密に言えば、三つの次元のことを考える必要があるかと思います。
 まず第一番目は、「海でないところの陸地」ということです。これが最も創世記の記述に即したものでしょう。神様はどのようにして「地」を造られたのか。

「神は言われた。『天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。』
そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた」(9〜10節)。

 「水のところに対して、乾いたところ」。これが、狭い意味で、私たちの住む場所、私たち人間と陸生動物の住む場所です。もっとも動物も人間もまだ現れていませんが、やがて造られる動物や人間の生きる場所が三日目に造られたのです。しかし三日目の創造はまだ続きます。

「神は言われた。
『地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。』
そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である」(11〜13節)。

 神様は、陸地に続いて、そこに草花と樹木、つまり植物を芽生えさせられました。これを書いた当時の人々は、「植物」を大地の一部であると考えていました。
 ですから創造の仕方も、後に動物や人間を創造するように、直接にではなく、大地に向かって「芽生えさせよ」と命令し、大地が植物を生み出すという形になっています。逆に言えば、大地というのは、最初から植物などを育む力をもったものとして造られたと言えるでしょう。
 そしてこれらの植物、果実や野菜は、第六日目に、人間や動物に食物として与えられることになります(創世記1:29)。
 神様は命あるものに対して、いかに配慮に満ちた方であるかということを思います。

(2)海をも含む地上世界

 「地」ということの二つ目の次元は、空間的な意味において、「空」に対して「大地」ということです。この次元では、「海をも含む地上世界、地球」と言ってもいいでしょう。この地球に対する考察、私たちの生きる環境についての考察は、今日、非常に大切なこと、危急の課題となってきました。
 ユルゲン・モルトマンというドイツの現代の神学者は、1985年に『創造における神』と言ういわゆる書物を書きましたが、彼は、この本に「生態論的創造論」という副題を掲げています。「生態論」というよりも、かえって英語でエコロジーといった方がわかりやすいかも知れません。モルトマンは、「今日、神様の創造された世界について語るならば、エコロジーということを抜きにしては語れない」と考えたのです。
 エコロジーの「エコ」は、ギリシア語の「オイコス」から来ていますが、これは「家」という意味です。「ロジー」(ロゴス)というのは論理、学問というような意味ですから、「エコロジー」というのは、「家についての学問」、ということになるでしょうか。この場合、「家」というのは、経堂1丁目の家ということよりも、もっと大きな「地球」という家のことを考えています。
 ちなみに、この「オイコス」(家)を語源にした言葉に、「エコノミー」という言葉があります。「経済」とか「家計」という意味です。「ノミー」の語源はやはりギリシア語の「ノモス」という言葉です。「ノモス」というのは、教会ではとても大事な言葉で、「律法」「規範」という意味です。つまり、「エコノミー」というのは、「家の律法」ということで、経済、家計という意味になったのです。ですから「エコロジー」と「エコノミー」は関係があるのです。両方とも、家に関係している。地球という大きな家について考えるのがエコロジーであり、家が家として成り立つ律法、規範がエコノミーなのです。

(3)環境破壊へのクリスチャンの責任

 さて、モルトマンは、この本の中で、次のように言っております。現代という時代への警鐘です。

「現代の状況は、全科学技術文明によってもたらされる生態論的危機と、人間による自然の消耗によって決定されている。この危機は、人間にとってばかりでなく、かなり以前から他の生物と自然環境にとっても致命的である。この人間社会の基本的方向づけにおける徹底的転換に至らず、他の生物や自然とのかかわりにおいて、それに取って代わる生活実践がうまくいかないならば、この危機は全面的破局に終わる」(モルトマン『創造における神』p.46)。

 これは平たく言えば、「私たちはこれまで通りの生活を続けていれば、これから先の地球環境はかなり危ないですよ」ということです。このことは、別に神学者が言うまでもないことかも知れません。モルトマンは、神学者としてこう続けるのです。

「現代世界の生態論的危機は、現代の工業国から出てきている。工業国はキリスト教によって規定された文化圏で成立した。……キリスト教的創造信仰は、今日の世界危機(環境破壊)に対して、無実ではない」(同掲書p.46〜47)。

 つまりこういうことです。今日の環境破壊は、キリスト教文化圏から始まった。それは偶然ではない。「産めよ、増えよ、地に満ちて、地を従わせよ」(創1:28)という聖書の言葉によって、人間は自然環境を好き勝手に用いることを正当化してきた。
 しかし果たして聖書は、本当にそんなことを言っているのかということを考えてみなければならないのです。

(4)環境の問題は、正義の問題

 環境の問題は単に科学技術の問題ではなく、同時に正義の問題、倫理の問題でもあります。今、地球全体の気候変動が大きな問題になっています(地球の温暖化、オゾン層の減少、二酸化炭素の排出など)。
 先進工業国は、過去150年間にわたって大気汚染を続けてきました。先進工業国は、それによって多大な恩恵をこうむってきました。
 ところが、科学的予測によれば、海水レベルの上昇、台風の回数と強さの増加、広い大地への日照りの悪化などによって被る被害は、貧しい国々の方が圧倒的に多いのです。しかも発展途上国は、北の先進国に比べて、人口の移動や堤防の建設などによって、気候変動に対処するための財政的基盤をもっていません。つまり、北の国々が公害を金で解決するライフスタイルによって得をし、南の国は、北の国の「つけ」を払わされているということです。(デイヴィッド・ホールマン「気候変動の倫理的次元」、『福音と世界』1998年3月号参照)。
 このように考えてみますと、エコロジーの問題は、社会正義の問題と密接につながっていることがわかります。環境破壊をした当人と、その悪影響を受ける人が違うからです。これはまた空間的、地理的な影響ですが、時間的にもそうではないでしょうか。私たちの時代のつけが、次の時代の子どもへ重くのしかかってくるのです。これも極めて倫理的課題ということになるでありましょう。
 人間だけに限っても、そうしたずれが出てくるのですが、その被害を受ける対象を被造物全体あるいは被造世界全体という風に考えれば、これはもう大変な責任になっていきます。
 こういう話は説教になじまないと思われる方もおられることでしょう。実際、こうしたことが教会の講壇から語られるようになったのは、ごく最近のことであります。
 私自身、自分を振り返ってみれば、全くこんなことを語る資格のないような生活を送っています。語っている私自身にとっても、とても耳の痛いメッセージです。しかし、どこかでそういうことが聖書のメッセージとして、きちんと語られなければならない、と思いました。なぜこういうことが語られなければならないのでしょうか。それは、この大地が神様によって造られたものであり、大地は主のものであるからです。

「地とそこに満ちるもの
世界とそこに住むものは、主のもの。
主は大海の上に地の基を置き
潮の流れの上に世界を築かれた。」
(詩編24編1〜2節)

(5)彼岸に対して、此岸

 さて、「地」ということの三つ目の次元は、空間的意味ではなく、いわば象徴的な意味と言えるでしょうか。前回、「天」ということで、それは空間的に「上の方」ということを超えて、どこまで行っても到達できない場所、私たちに隠された場所であると申し上げました。それは神が住まわれる場所、キリストが父なる神の右に座す場所、御心がすでになっている場所、それが天です。この「天」に対する「地」ということを考える必要があるでしょう。「彼岸」に対して「此岸」です。この意味では、宇宙も「地」に属すると言ってもいいかも知れません。私たちの世界の延長線上にあるからです。

(6)神が良しとされた世界

 この第三日目の創造においても、「神はこれを見て、良しとされた」という言葉が出てきます。私は、この神様の肯定は、第一日目、第二日目にも増して、第三日目においては、より深い意味をもっていると思います。光がよいものであり、天の国がよいところであることは、いわば当たり前のこととして理解できるからです。それに比べれば、この地上は、問題に満ちあふれた世界なのではないでしょうか。
 しかし神様は、私たち人間を含む、生きとし生けるものが住むこの地上世界を、神が満足なさる「よい世界」としてお造りになったのです。そして人や動物たちのために、青草と果物をあらかじめ用意されました。創造主なる神の配慮に満ちていると思います。神様は、この世界を愛しておられるということを、聖書は告げているのです。
 ヨナが神様の命令によってニネベの町へ行き、「心から悔い改めなければ、あと40日で、この町は滅びる」と伝えると、町中の人が心から悔い改めました。神様は思い直して、ニネベを滅ぼすことを思いとどまられました。かえってヨナの方が何だか面白くなくて、怒るのです。そこで神様は「とうごまが一日で枯れる」という出来事を通して、神様は、愛する町(世界)をそう簡単に見捨てることはできないのだというメッセージを送られるのです。
 「神様がこの地上世界を愛しておられる」という最も大きな証として、やがてイエス・キリストが天からこの地上世界へ送られます。そして、イエス・キリストもその地上での生涯を通して、父なる神がこの地上世界を愛しておられることを、命をかけて伝えてくださいました。
 今日は、そうした神様の愛と配慮をよく伝えている箇所として、マタイによる福音書6章28節以下を読んでいただきました。
 「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6:28)。
そしてこう付け加えられました。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」(30節)。
 この豊かな自然、豊かな大地は、神様の配慮に満ちあふれたものだ。その神の愛は私たちにも注がれている。そうです。私たちは、このお方のもとで、この地上世界に生きているのです。

(7)神の配慮を学ぶ

 人間はこれまでも(19世紀以前)、地球に対して、好き勝手なことをやってきました。しかし人間のもっていた力は、大自然の豊かさからすれば、ほんの些細な、幼稚な力に過ぎませんでした。言い換えれば、人間がどんなに暴れまわろうとも、地球環境を脅かす程のものではありませんでした。自然はそれを包み込み、自分で治癒できたのです。この地球も私たちの肉体同様、ある程度、自然の治癒能力をもっています。
 ところが20世紀になり、事情は変わりました。原子力を初めとし、人間が地球から搾取する力は、これまでと比べ物にならない程、巨大なものとなり、地球の生態系を脅かすまでのものになってしまいました。しかし人類はそれ程の力をもってしまったにもかかわらず、それをコントロールし、自己規制する能力は成長していないのです。(モルトマン『創造における神』p.55)。
 私たち人間は、この大地に対してあたかも主人であるかのごとく、勝手気ままに振舞ってきましたが、本当の主人である神は、そういう態度ではなく、大いなる配慮を持って、私たちが生きる地上世界を造り、育んでくださいました。私たちはむしろ、そのことをこそ真似をし、学ばなければならないのではないでしょうか。その神の愛と配慮が、私たちにも向けられていること感謝しながら、私たち自身も、愛と配慮を持って、この地上世界の環境を大切にしていきたいと思うのです。
 神は「見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない」(イザヤ65:17)と言われます。それが一体どういうものか、私たちにはわかりません。客観的に、この地球を見れば、悲劇的な将来しか見えてこないものですが、それは一つの警告でありましょう。私は私たちが神のもとに立ちかえり、謙虚な歩みをするならば、神は、この約束どおり、すばらしい出来事を実現してくださる、と信じます。「私は新しい天と新しい地を創造する。」そうした神の御旨が実現するよう、待ちつつ急ぎつつ(Uペトロ3:12)、私たちに託された地上での使命を全うしていきたいと思います。


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