宇宙の中の世界

〜創世記による説教(5)〜
創世記1章14〜19節
エフェソの信徒への手紙3章14〜21節
2007年10月7日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)四日目の創造

 今日、私たちに与えられたテキストは、天地創造の第四日目の物語です。創世記によれば、神が四日目に造られたものは何であったか。それは、天体、あるいは宇宙、と言うことができようかと思います。

 「神は言われた。『天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。』
 そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である」(創世記1:14〜21)。

「二つの大きな光る物」とありますが、これは太陽と月のことでしょう。なぜこういう書き方をしているのかと言うと、これが書かれた当時、太陽や月という言葉自体が、異教的な神の名前であったからだと思われます。太陽といえども、月といえども、神ではなく、この地球を照らす役割をもった神の被造物の一つに過ぎないという信仰が現れているのです。
 根源的な意味における光は、すでに第一日目に造られていますので、この第四日目の太陽や月の創造というのは、この世界を具体的に秩序付けるものとしての光ということになろうかと思います。

(2)とてつもなく広い宇宙

 私たちは、この第四日目の創造物語を読みながら、これまで以上に当時の世界観・宇宙観と、今日の世界観・宇宙観の違いを大きく感じるのではないでしょうか。これを書いた当時の人は、私たちの住んでいる世界が、地球と言う一つの丸い星であることを知りませんでした。天体というものを、ただ上方にあるものと認識していました。しかし今日私たちは、それがただ上方だけではなく、四方八方に無限に広がる、宇宙と言う空間であることを知っています。
 何億光年という距離を測る単位がありますが、それは光の速さで進むと、何億年かかるかという距離だそうです。何億光年という距離の星を私たちが見ているということは、その星が何億年か前に放った光が、今ようやく地球の私たちに届いているということであります。私たちは今日の科学を通して、そのようなことをいわば知識として知っているわけです。
 それでもなお、この天地創造の物語は有効なのでしょうか。現代の科学の計算によれば、地球や太陽系の年齢は、約40〜50億年前にできたことになるそうです。その外側の銀河系、また宇宙全体となれば、全く想像がつきません。創世記1章の著者は、「神は七日で世界を創造した」と記しています。そのような言葉を今日においても、私たちは神の言葉として読むことができるのでしょうか。
 ただ、宇宙の構造など、世界のさまざまなことが分かってくるにつれて、無神論に傾いていく人がいる一方で、逆にますます、神の存在を確信するようになる人も多いのも事実です。いや、深い見識をもった人こそ、そういう傾向が強いように思われます。

(3)『宇宙からの帰還』

 立花隆の『宇宙からの帰還』(中公文庫)という本があります。宇宙へ行ったことのある宇宙飛行士にいろいろとインタビューし、取材したものをまとめた本です。ユーリ・ガガーリンというソ連の宇宙飛行士は、「地球は青かった」と言う言葉で有名ですが、彼は同時にこういうことも言っています。「天には神はいなかった。あたりを一所懸命ぐるぐる見まわしてみたが、やはり神は見当たらなかった」(p.67)。
 これは、当時のソ連という共産主義国の無神論という立場から、信仰をもって生きている人間を皮肉ったような言葉であろうと思います。しかし私たち、今日の信仰者は、宇宙のどこかで、神様が見える形でおられるようなことは考えていません。ですから、宇宙のどこかに神様が鎮座しておられたら、その方がかえっておかしいということになるでしょう。
 しかしこの『宇宙からの帰還』という本は、それと全く反対の宇宙飛行士のことも記しています。それはアポロ15号で1971年に月へ行ったジム・アーウィンという宇宙飛行士ですが、この人は月に行って、神がそばにおられるということを強く感じて、回心をし、帰ってきてから牧師になってしまったという人です。このアーウィン飛行士は、次のように述べています。

 「地球の美しさは、そこに、そこだけに生命があることから来るのだろう。自分がここに生きている。はるかかなたに地球がポツンと生きている。他にはどこにも生命がない。自分の生命と地球の生命が細い一本の糸でつながれていて、それはいつ切れてしまうか知れない。どちらも弱い存在だ。かくも無力で弱い存在が宇宙の中で生きているということ。これこそ神の恩寵だということが何の説明もなしに実感できるのだ。神の恩寵なしには我々の存在そのものがありえないということが疑問の余地なくわかるのだ。」(同p.134)。
 「これほど見事な、美しい、完璧なものを神以外に作ることはできない。結局、科学は宗教に対立するものではない。科学は、神の手がいかに働いているかを少しずつ見つけだしていく過程なのだ」(同p.149)。

 私は、科学のことはよく分かりませんけれども、「なるほど」と思うのです。人間は世界について知れば知るほど、宇宙について知れば知るほど、神の創造のみわざの奥深さを認識するのではないでしょうか。

(4)季節と年月の創造

 さて、この第四日目の創造には、もうひとつの意味があります。天体がこのように創造されたということは、それに伴って、季節がつくられた、また月の一巡りをもって一月が定められ、太陽の一巡りをもって一年が定められたということです。
 旧約聖書、詩編の詩人たちは、大自然の中で、それを創られた主をほめたたえました。そして美しい季節を創られた主をほめたたえました。

「あなたは、太陽と光を放つ物を備えられました。
昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです。
あなたは、地の境をことごとく定められました。
夏と冬を造られたのもあなたです」(詩編74:16〜17)。

 私は、宣教師としてブラジルで7年間、働きましたが、外国に住んでみて思うことのひとつは、国によって気候が全く違うということです。
 ブラジルは南半球ですから、日本とは季節が反対です。6月から7月が冬で、それなりに寒く、12月から2月頃、クリスマスからカーナヴァルまでが真夏です。サンパウロあたりは温帯ですので、日本ほどくっきりはしていませんが、それなりに四季があります。面白いことに、ブラジルの日系社会でも俳句を詠む人がいます。俳句と言うのは、季節と密接につながっており、必ず季語というのを入れます。しかし「ところ変われば品変わる。」「気候変われば、季語変わる。」例えば、「クリスマス」というのは夏の季語です。それぞれの地域の人は、それぞれの気候の中で、季節の移り変わりを敏感に察知し、それを味わい、その美しさを享受しているのです。そしてそれぞれの場所で、神様をほめたたえるのです。
 私のブラジルでの二つ目の任地であったレシフェ/オリンダというところは南緯8度の熱帯地方でしたので、春夏秋冬というような季節はありません。一年中半袖です。非常に暑い季節と、ちょっとましな季節の繰り返しです(英語で言えば、very hot とless hot)。それでも微妙な季節の変化があります。
 地域によっては四季がなく、雨季と乾季のところもあります。ブラジルの西の方、ボリビアやパラグアイとの国境近くには、パンタナールという日本の総面積よりも大きな大湿原があります。雨季には一帯が湖のようになり、乾季になると、草花が育って、動物たちの楽園のようになります。
 春夏秋冬という四季はなくとも、季節のサイクルはどこも1年で1サイクルです。季節があるのは、地球が太陽のまわりを回っているからであり、地球が微妙に傾いているからです。そして地球がこのような丸い形であり、宇宙の中に、今あるような位置関係で存在しているからなのです。暑い地域があり、寒い地域があり、四季のある温帯があります。北半球と南半球では季節が反対です。西と東では、昼と夜が反対です。本当に不思議であり、しかも本当によくできていると、つくづく感心するのです。

(5)人の子は何ものなのか

 詩編の詩人たちは、現代の私たちのように、地球がどうなっているかは知りませんでした。しかしそれぞれの生きた場所で、自然の神秘、偉大さをよく知り、それを創られた神様をほめたたえました。
 現代に生きる私たちは、古代の人々よりも世界が多様であることを知っております。この地球上には、さまざまな気候、風土があることを知っています。先ほどは、「科学は、神の手がいかに働いているかを少しずつ見つけだしていく過程なのだ」という言葉を紹介しましたが、科学に限らず、宇宙の仕組みを知り、この地球を知ることは、神様の創造のみわざがいかに素晴らしいものであるかを少しずつ見出していく過程なのだ、と言うことができるのではないでしょうか。
 もう一つ、心に留めたい詩編があります。先ほど招詞で読んでいただいた詩編の第8編であります。

「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは」(詩編8:4〜5)。

 この詩は、圧倒されるような素晴らしい天体を仰ぎ見つつ、それを造られた神の偉大さを歌っています。しかしそれだけでは終わりません。
「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。」
 いかがでしょうか。このコントラストにこそ、大きな意味があります。この天体に比べれば、私たち人間は本当にちっぽけな存在です。その天体を造られた神様であれば、その天体よりもさらに偉大なお方でしょう。ところがまさに、その神が人間を心に留めてくださる。その人間とは、一体、何ものなのか、と問うているのです。詩編の詩人は不思議でならないのです。

(6)人間、神の愛の特別な対象

 人間とは、一体何ものなのか。新約聖書によれば、天地を創られた神、宇宙を創られた神は、その人間のためにひとり子を犠牲にされました。しかもそのひとり子とは、コロサイの信徒への手紙(1章16節)によれば、父なる神と一緒に、天地創造にかかわったお方であります。人間とは、一体何ものなのでしょう。あなたもその人間の一人であり、私もその一人であります。
 科学の進歩により、この宇宙はとてつもなく大きく広く、私たちの住む地球は、全宇宙の中では、本当に小さな点のようなものに過ぎないことが分かってきました。
 それでもなお、私たちは、神がこの天地を創られたといえるのか。私は、「はい。そうです」と答えたいと思います。それでもなお、神様は人間を特別な存在としてつくられたと言えるのか。私は、「はい。そうです」と答えたいと思います。小さな点のような地球の中の、さらに小さな点のような人間。まさに塵のような存在である人間のために、神のひとり子は来られたと、信じるのです。
 私は、この塵のような人間のために、神がそのひとり子を捧げられたのであれば、その人間のために、この世界をそのように創られたということも信じることができるのです。そしてそのように、「神が顧みられる人間とは、一体何ものなのか」と、詩編の詩人と共に、驚きをもって問わずにはいられません。

(7)キリストの愛の大きさ

 私たちは、宇宙のとてつもない広大さに思いを馳せる時に、この地球を中心とした天地創造物語など、幼稚であり、ばかばかしいと言って、信仰を捨てるのではなく、そのとてつもない宇宙を創られた方が、小さな、小さな人間、小さなあなたにも、小さな私にも、信じがたいような配慮をしてくださっていることに、恐れとおののきをもって感謝したいと思います。
 果てしない宇宙を造ることのできるお方の愛が、イエス・キリストを通して果てしなく小さなこの私にも注がれているとすれば、そのキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さこそ、計り知れないものではないでしょうか。
 最後に、先ほど読んでいただいたエフェソの信徒への手紙を、もう一度読んで、その恵みを深く味わいたいと思います。

「またあなたがたすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
 わたしたちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(エフェソ3:18〜20)。

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