被造物たちの世界

〜創世記による説教(6)〜
創世記1章20〜25節
ローマの信徒への手紙8章18〜25節
2007年10月21日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)海と空の生き物

 今日、私たちに与えられたテキストは、天地創造物語の第五日目の創造と六日目の創造の前半であります。五日目には魚たちと鳥たちが創造され、六日目に他の動物たちや爬虫類が造られます。最初の部分をもう一度、お読みいたします。
 「神は言われた。『生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。』
 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物それぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた」(20〜21節)。

 第四日目までの創造で、生物の生活空間としての世界の準備は整いました。いよいよここで生物の創造が開始されるのです。
 当時の世界観では、世界の中心は大地であり、水平方向と下の方向に無限に広がるのは大海、上の方向に無限に広がるのは大空でありました。まずその最果てにいたる大海と大空のそれぞれに生き物を造られた、ということであります。それは、陸の上に住む人間、いやそこにしか住むことができない人間にとって、まさに畏敬の念を呼び起こす存在であり、同時に恐怖の対象でもありました。
 「水に群がるもの」とは魚と、魚以外のすべての水棲動物でしょう。

(2)大きな怪物

 その次の「大きな怪物」とは、神話的な怪物をさしているようです。有名な怪物はヨブ記40章に出てきます。

「見よ、ベヘモットを。
お前を造ったわたしはこの獣をも造った。
これは牛のように草を食べる。
尾は杉のようにたわみ
腿の筋は固く絡み合っている。
骨は青銅の管
骨組みは鋼鉄の棒を組み合わせたようだ。
これこそ神の傑作。
造り主をおいて剣をそれに突きつける者はいない。」(ヨブ記40:15〜19)

 このベヘモットというのは、口語訳聖書では「河馬(かば)」となっていました。かばを見ながら、かばを超える海の怪物を思い浮かべたのでしょう。それにしても「かば」が神の傑作のイメージというのは、ユーモアがあるのではないでしょうか。
 もうひとつの海の怪物はレビヤタンです。
 「お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ
その舌を縄で捕らえて屈服させることができるか」(ヨブ記40:25)。

 このレビヤタンの方は、口語訳聖書では、「わに」でありました。やはりわにを見ながら、わにを超えた怪物を考えたのでしょう。神様は、「お前にそれがコントロールできるか」とヨブを問い詰め、「そのような海の怪物さえも、私が造ったのだ」と言われているのです。
 「大きな怪物」の創造は、人間の手に負えない生き物、あるいは人間の目に届かない世界の果てに住んでいる生き物でさえも、神によって造られた被造物であると告げています。海や空にある勢力がどんなに恐ろしく、野蛮に振舞おうとも、それらが主人であるのではない。神が主であられる、ということを言い表しているのです。
 マルチン・ルターは、この「(海の)大きな怪物」を「くじら」と訳しました。それはヨナの物語を思い起こさせるものではないでしょうか。ヨナは神様に「ニネベの町に行って、私の言葉を伝えなさい」と命じられた時に、それに背いてタルシシュ行きの船に乗り込んでしまいます。そこで神様は嵐を引き起こし、船を沈没寸前にまで持ち込み、船員をしてヨナを嵐の大海の中へ投げ込ませるのです。その時、ヨナの目の前に現れたのが、謎の「大魚」でありました。「大魚」と言っても、そんな魚は存在しませんから、多くの人は、これはくじらであったのだろうと想像するのです。いずれにしてもこの謎の大魚が人間の能力を超えるものであり、ヨナの生死を決定づける意味をもっていたということ、しかもそれは完全に神様に用いられる器として奉仕していることに注目したいと思います。

(3)鳥と魚

 そして次は鳥です。鳥の中にもコンドルや鷲や鷹のような猛禽類から小さな小鳥にいたるまで、さまざまな鳥があります。それらはすべて神様によって造られたものです。また翼をもつものということでは、伝説の竜なども含めているのかも知れません。ヨハネの黙示録12章などを読んでいますと、「竜」が出てきます。これは空の上の伝説の怪物です。
 鳥ということで思い起こすのは、主イエスの「空の鳥を見よ。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりもはるかに価値あるものではないか」(マタイ6:26)という言葉です。鳥は、神様から無償で養われていることを示すシンボルです。私たちも鳥を見ると、心の安らぎを覚えます。またそれを通して、神様の恵みを一層深く思い起こすのではないでしょうか。
 魚や鳥は、イエス・キリストに親しいものでありました。ご承知のように、主イエスの弟子たちのうちの4人、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは漁師でありました。イエス・キリストは、不思議な形で大漁を実現させ、神様の祝福をお見せになりました(ルカ5:4〜6等)。
 今日のテキストには、こう書いてあります。「神はそれらのものを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ』」(22節)。
 祝福と言う言葉は、ここで初めて現れてきます。これ以前のところでは、単に「良しとされた」と言われるだけなのですが、ここではもっと積極的に、「祝福して言われた」とあります。これらの鳥や魚自身が、祝福して造られたと同時に、その祝福を通して、私たち人間にも大きな祝福が及んでいるということを深く心にとめたいと思います。先ほどペトロの話にもあったように、大漁は祝福のしるしでありました。

(4)陸の生き物

 さて、六日目の創造についても触れておきましょう。

「神は言われた。『地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。』そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた」(24〜25節)。

 ここでは、「地の獣、家畜、這うもの(爬虫類)」が創造されています。これで人間を除くすべての生き物が出揃ったことになります。
 神様は、これらのものを創造しつつ、最後に人間を創造される。いささか人間中心的な見方をすれば、そのようにして人が住む世界を最終的に整えてくださったということもできるかも知れません。
 しかし今日の私たちに突きつけられている危急の問いは、私たち人間がこの被造世界、特に他の生き物とどのようにして共に生きていくかということであります。これまでは人間が好き放題にしてきたと言えますが、そのようなあり方は、問い直されなければならない時が来ているのです。

(5)被造物たちのうめきと救い

 私たちは、今、大地の大きな叫びを聞いております。最近、特に大きな自然災害があちこちで起きていますが、その多くはむしろ人災と言うべきものでしょう。地震にしても、そこには人間の科学技術を過信したおごりによるビル建築などのために、被害が大きくなっています。また数年前の核燃料工場の事故などは、まさに人間を中心に考えた世界のひずみが噴き出したものと言えるでしょう。そして昨年、原子力発電所の直下で想定以上の地震が、とうとう実際に起きてしまいました。
 そこで被害を受けるのは人間だけではありません。他の被造物にまで及ぶということ、そこには声にならない被造物たちのうめき、叫びがあることを忘れてはならないでしょう。戦争が起きる時にも、そこで殺される人がいると同時に、無残に犠牲になる動物がいるということを思い起こさなければならないでしょう。原爆というのはその最たるものです。そしてその動物たちが受けた被害は、やがて私たちも人間にも返ってくる。その直接的、間接的影響を、何十年にもわたって受け続けるのです。
 あるヨーロッパの画家が、馬の首をつけた十字架のキリスト像の絵を描いているそうです。そしてその絵がキリストを侮辱していると物議をかもしたと聞きました。私はその絵を見ておりませんが、イエス・キリストは動物の受難をも背負って、十字架にかかられているということをあらわしているのではないかと思いました。
 被造物たち、動物たちの救いについて、聖書は何と言っているでしょうか。それを示す聖書の箇所は、そう多くないのですが、招詞で読んでいただいた詩編36編は、そのうちの大事な一つでありましょう。

「主よ、あなたの慈しみは天に
あなたの真実は大空に満ちている。
恵みの御業は神の山々のよう
あなたの裁きは大いなる深淵。
主よ、あなたは人をも獣をも救われる。」
(詩編8:6〜7)

 またローマの信徒への手紙8章には、こう記されています。

「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物たちがすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている事を、わたしたちは知っています」(ローマ8:21〜22)。

(6)動物と共なる礼拝

 この世界が一つの神の家であることを思い起こす時、今や人間同胞だけのことにとどめることはできません。被造物全体、鳥も魚も獣も共に生きる仲間として、視野に入れて行かなければならないでしょう。
 最近、アメリカでは、動物と共なる礼拝、動物の祝福礼拝というのが行われるようになってきています。その多くは、アッシジのフランチェスコの記念日に行われるということです。アッシジのフランチェスコとは中世の修道士ですが、自然を愛し、自然と共に貧しく生き、特に鳥たちにも説教をしたということでよく知られています。アッシジのフランチェスコを描いた絵にはいつも鳥たちがまわりにいます。今日では、エコロジーの聖人と呼ばれています。
 ニューヨークのコロンビア大学のすぐそばに、聖公会の聖ヨハネ大聖堂という世界最大のゴシック建築の教会があります。礼拝堂には、1万人が収容でき、はフットボール競技場が二つ入るそうです。この教会は、その大きさだけではなく、誰も思いつかないような斬新なことをしばしば行うことでも有名です(もちろん神学的にも裏づけがあります)。
 聖ヨハネ大聖堂の、動物たちと共なる礼拝、動物の祝福礼拝は、教会員が犬や猫を連れてくるそうですが、ある年には、その他、何と本物のらくだや猿、しまいには象まで連れてこられたそうです。当然、大騒ぎの楽しい礼拝であったことは想像できますが、同時にそれはとても美しく、意義深い礼拝であったということです。
 まさに動物たちとの再連帯、再共生を考える時が来ているということなのかと思いました。

(7)共に生きる世界に向けて

イザヤ書にこういう言葉があります。

「狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」 (イザヤ書11章6〜8節)

 ここでは、子どもと動物、それも肉食の凶暴な動物や毒蛇とが共に平和に過ごしている姿が、やがて来るべき世界のイメージとして描かれています。
 私は「逆もまた真なり」と思いました。今では、人間が動物たちを脅かし、動物たちの方が人間に対して怯えているのではないでしょうか。しかし来るべき日には、その人間と動物が一つになって神様を仰いでいる。これこそ神の国のイメージです。そのところでは、私たち人間自身の悔い改めが問われています。神様の御心はどこにあるのか。神様は、他の被造物たちのことを何と言っているのか。人間はそれを好き勝手に扱っていいのか。
 1997年に世界教会協議会(WCC)出版部から『動物と共に生きる』(チャールズ・バーチ、ルーカス・フィッシャー共著)という書物が出版されました(日本語版は2004年に出版。岸本和世訳)。動物と共に生きるということについて、初めて本格的に神学的考察をした書物でありましょう。ルーカス・フィッシャーが、先ほどのローマ書8章について述べた言葉に、耳を傾けたいと思います。

「パウロは、ローマの信徒への手紙8章で、被造物が『神の子の出現を待ち望んでいる』と語り、神の子の贖いは被造物全体の贖いと密接に関係していることを当然のこととして語るのである。贖われた人間共同体こそ、被造物の贖いにとってカギなのである。なぜ、パウロは贖いを待つ被造物を他の形で描こうとしなかったのだろうか。人間が真に自由になるとき、すべての被造物は解放され自由に呼吸することができるのである。新しい世界が生まれるのである」(『動物と共に生きる』p.47)。

そのような新しい世界をめざして歩んでいきましょう。


HOMEへ戻る