共に生きる世界

〜創世記による説教(7)〜
創世記1章26〜31節
マルコによる福音書12章13〜17節
2007年10月28日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)人間に対する神の特別な思い

 今日は、六日目の創造の後半の御言葉をご一緒に聞きましょう。神の創造のクライマックスがここにあります。人間の創造です。神は、人間をこれまでの他のものとは少し違う仕方で、お造りになります。これまでは、まず言葉があって、言葉通りのことが実現し、神がそれを見て良しとされるという、三つのステップによる創造でした。ところがここでは、神が自分自身に向かって問いかけることから始まります。
 「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』」(26節)。
 神が御自分のことを「我々」と複数形で呼んでおられることに戸惑われる方もきっとあるでしょう。これは、「天上の宮廷における神々の議会」という古代の神話的表現に基づいていると言われます。つまりヤハウェの神が天的存在(天使たち)と会議をしている、そういうイメージです(詩編82:1参照)。神があたかも誰かと相談するかのように、自分に向かって問いかけ、「よし、そうしよう」という決断する特別な思いが表れているのではないでしょうか。
 人間は、神様の特別な愛を受けて生まれてきた。聖書は、人間について語り始めるにあたって、まずそのことを私たちに告げるのです。人の目には、祝福を受けていないかに見える人があるかも知れません。しかし聖書は、「祝福を受けていない生というものは存在しない」と告げるのです。障害をもった人も然り、貧しい家庭に生まれた人も然りです。ですから逆に言えば、誰かが祝福を受けていないように見える状況の中にあるならば、そう思わせる状況(祝福を妨げているような状況)を一緒になって取り除いていくようにと、チャレンジされているのだと思います。

(2)神にかたどって

 「神は御自分にかたどって
人を創造された。
神にかたどって創造された」(27節)。

 このことは、逆に言えば、人間は何らかの形で、神のイメージを自分のうちにもっているということであります。昔から、それが一体何であるか、さまざまな議論がなされてきました。人間が二本足で立って直立方向すること。視線を上に向けていること。魂をもっていること。知性をもっていること。しかし私はそういう風に何が神のイメージであるかを具体的に言うことはあまり意味がないし、かえって危険であるとさえ思います。そうすれば、たとえば障害をもった人やマイノリティーの人は、神のイメージを損なっているという風に誤解されかねないからです。
 むしろ特定せず、「神が御自分に似せて人間を造られた」ということを思い起こしながら、いつも新しく、祈りのうちにその意味を問うていくことの方が有意義なのではないでしょうか。
 先日も紹介した神学者モルトマンは、こう言っております。

「神は土で造られた被造物である人間に、自分のかたちと栄光を刻み込み、そうすることによって、ご自分がこの被造物の歴史の中へ引き入れられている。神のこの決定の中に、一つの可能性への神の収縮があり、この収縮の中にすでに最初の自己卑下がある」(『創造における神』p.320)。

 本来、無限のお方である神様が、人間の中に自分の形を刻み込むという形で小さくなって、人間の世界へ自ら入ってきたということであります。これは、まさに「神が人となった」というクリスマスのメッセージの先触れと言えるでしょう。

(3)男と女

 もう一つここで大事なことは、「神にかたどって創造された」ということが、「男と女に創造された」と言い直されていることです。このことは、第一に、男も女も神のイメージを持っているということです。私たちは神様のことをイエス様にならって、「父」と呼びますので、神様のことをあたかも男性のように思いがちです。しかし、そうではありません。このところでは全く対等です。男の中にも女の中にも、神様は等しく御自分のイメージを刻み込んでおられるということ、こちら側から言えば、男も女もそれぞれに神様を指し示しているということであります。
 そして私たちが「男と女」として造られているということも大事であります。私たちは一人で生きているのではありません。自分だけでは完結しないものであり、他者を必要としている。交わりを必要としている存在です。結婚は、その交わりの核にあるものです。しかしそれは結婚しない人でも、子どもでも、すでに連れ合いに先立たれた人でも本質的には同じです。私たちは、男として、あるいは女として生きている。お互いを必要としながら、他者と共に生きる存在として造られているのです。
 この世界にもしも男しかいなければ、あるいは女しかいなければいかがでしょうか。私は随分味気ない世界であると思います。引き付けあい、助け合い、配慮しあいながら豊かな社会を築いているのです。

(4)セクシュアル・マイノリティー

 人間が男と女に造られているということから、セクシュアル・マイノリティーの人々について一言触れておく必要があるかと思います。ただし、これについて語り始めれば、いくら時間があっても足りませんので、今日は最小限のことにとどめておきます。セクシュアル・マイノリティーと言うのは、主に同性愛の人たちですが、その他に体の性と心の性が一致しない性同一障害と呼ばれる人たちもいます。
 最初に知っておかなければならないことは、それはその人たちが、好んで、そうしているのではないということです。先天的か後天的かはいろんな要素があると言われますが、いずれにしろ、気がついたらそうだったということです。そのことは医学を初めとするさまざまな分野の研究によって明らかになっていることです。
 キリスト教会では、これまで同性愛を聖書の教えに反する罪として断罪し、同性愛者を排除するか、あるいは異性愛者になることを強要してきました。ただ今日、教会も大きく変わりつつあるということを申し上げたいと思います。
 私自身、1989年にニューヨークに行って初めていろんなことを学びました。ウォール・ストリートにある聖公会の教会が同性愛の人々を迎えるパンフレットを用意していて、その表紙には「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)と大きく書いてありました。
 同性愛の人々は、自分でそれを選んだわけではありません。ほとんどの人は、一旦は自分が間違っていると思って、一生懸命異性を好きになろうとした経験をもっています。しかしそこで本当の自分を隠すことはできても変えることはできません。何度も自己分裂に陥りそうになった末に、同性愛者である自分を受け入れていくようになるのです。
 先ほど申し上げたように、どんな人であれ、すべての人は神様の祝福を受けて、この世へ送り出されてくるのです。それはセクシュアル・マイノリティーの人も同じです。もしも本当の自分を隠すことによってしか祝福が与えられないのだとすれば、聖書の根本的メッセージに反することではないでしょうか。
 本当の自分を隠さなければ差別される社会は、民主的な社会、成熟した社会ではありません。その人を本来の姿で受け入れられるように、社会の方が変わらなければならないのでしょう。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」という招きの言葉は、「そうした社会に向けて、あなたは召されているのだ」という意味が込められているのでしょう。私はその聖句を見た途端、目から鱗が落ちたというか、少なくとも頭の中では分かったと思いました。
 『世界がもし100人の村だったら』という本によれば、100人のうち、「90人が異性愛者で、10人が同性愛者」だそうです。予想以上の割合で驚かされるのではないでしょうか。仮にこれほど多くないとしても、100人の教会であれば、当然、同性愛の人も何人かいる、いない方が不自然であると言えるかも知れません。
 皆さんの中にも同性愛の方があるかも知れません。神様はありのままのあなたを受け入れて、祝福しておられるということを心に留めていただきたいと思います。

(5)祝福と委託

 さて、神様は、人間を造った後、彼らを祝福して言われます。
 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(28節)。
 さらに続けて言われます。

「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう」(29〜30節)。

 ここで神様は初めて二人称を用いて、直接、人間に向かって「あなたたち」と親しく語りかけられます。私たち人間は、果たして、そのような神様の期待に応える歩みをしてきたかということを問わざるを得ません。むしろ、人間は自分の分をわきまえず、あたかもこの世界における支配者のごとく振舞ってきたのではないでしょうか。地球規模の環境破壊においても、どの文化に属する人たちよりもクリスチャンの責任は大きいのです。
特にヨーロッパからアメリカに移住したクリスチャンたちは、先住民たちの文化文明を否定し、それを滅ぼし、そこに自分たちの文化を築いてきました。しかし先住民(インディオ)の文化の方がむしろ聖書の神様の御心に近かったのではないかと、今日、問い直されているのです。

(6)シアトル酋長からのメッセージ

 「シアトル酋長からのメッセージ」という文章があります。これは、現在のアメリカ合衆国のシアトルに住んでいた先住民が、1854年に、最後の土地を明け渡した時に語ったと伝えられる文章です。その一部を紹介しましょう。

「1854年のことである。
スカミッシュ族の酋長は、部族会議でこう語った……。
大統領から、我々の土地を買いたいとの申し入れがあった。ありがたいことだ。
なぜなら大統領には我々の同意など本当は必要ないのだから。
しかし我々にはわからない。
土地や空気や水は誰の物でもないのに、どうして売り買いができるのだろう。
土地は地球の一部であり、我々は地球の一部であり、地球は我々の一部なのだ。
この土地を流れる水は祖父の地であり、水のさざめきは祖父の声なのだ。
川は兄弟であり、我々の渇きを癒し、カヌーを運び、食べ物を与えてくれる。
土地の所有を望むように、白人は神さえも所有しているつもりかも知れないが、
それは不可能なこと。
神はすべてのものの神。そのいつくしみはすべてに等しく注がれている。……
我々は知っている。
我々の神はあなた方の神と同一である。」
(『地球村』代表 高木善之訳)

 私は、神様はこの酋長の口を通して、クリスチャンに向かっても語っておられるのだと思います。

(7)神のものは神に返しなさい

 今日読んでいただいた新約聖書の方は、イエス・キリストの納税問答として有名な箇所です。ある人々がイエス・キリストに議論を吹っかけるのです。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか。納めてはならないのでしょうか」(マルコ12:14)。この問いにはイエス・キリストを陥れるわなが仕掛けられていましたが、イエス・キリストは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という見事な答えをされました。
 しかし主イエスの言葉は単に議論に勝つためのものではありませんでした。デナリオン銀貨には皇帝の像が刻まれているので、皇帝に返す。本当に大事なことは、その先です。「神のものは神に返しなさい。」この世界はすべて神様のものです。ですから、私たちはこの世界を神様に返さなければならないのです。
 また神の像が刻まれているものとは、一体何でしょうか。それは私たち人間であります。神は、御自分に似せて人間をお造りになりました。つまり、私たち人間には神の像が刻み込まれているのです。男も女も神の像が刻み込まれている。同性愛者も異性愛者も神の像が刻み込まれている。障がいをもつ人も健常者も神の像が刻み込まれている。日本人も韓国人も、黒人も白人もインディオも、みんなそれぞれに神にかたどって造られているのです。
 私たちはそれゆえに神のものとして生きる時に、最も本来的な姿になれるのです。そしてそこでこそ、神様の意志を尊重しながら、神様の心を自分の心として生きることができる。この世界の主人としてではなく、管理を委ねられた者として謙虚に生きることができるのだと思います。
 最後の31節に、こう記されています。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(31節)。神様の創造のクライマックス。これが神様の造られた世界です。そのように良きものとして、この世界をお造りになり、「この世界を治めよ」と、私たちを信頼してくださった。この神様の委託に応えられるものでありたいと思います。そのためにもいつも、神様に立ちかえって行きたいと思います。


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