安息する世界

〜創世記による説教(8)〜
創世記2章1〜4節a
ヨハネの黙示録21章1〜7節
2007年11月4日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)安息のための創造

 これまで7回にわたって、天地創造物語を読んできました。今日はその結びの部分です。本日は、先に天に召された方々を記念する召天者記念礼拝でありますが、その礼拝において、神の安息についての御言葉を聴くことは、まことにふさわしいことであると思います。短いテキストですので、もう一度ゆっくりその言葉を味わってみましょう。

 「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。これが天地創造の由来である」(創世記2:1〜4a)。

 聖書の章節の区切り方として、「天地万物は完成された」という言葉が、第1章の終わりではなく、第2章の冒頭になっているのは興味深いことです。
 天地創造の業は実質的には六日で終わり、七日目には、神様は何もしておられません。この日、神様は六日目までの仕事を確認し、静かに平穏に、安息のうちにお過ごしになります。神様はすでに対話の相手をもっています。六日目に人間をお造りになり、その人間に「この世界を委ねる」とおっしゃいました。そしてその翌日、神様はその人間と共にいることを喜び、人間との交わりを楽しまれるのです。神様にとっても満足の一日、喜びの一日です。
 この七日目は、それまでの六日間と質的に異なっております。それまでの六日間と対峙しています。神様は、一体何のために、この世界をお造りになったか。それは、この安息を楽しむためではなかったでしょうか。少し極端なことを言えば、「それまでの六日間は、まさにこの安息の一日のためにある」と言ってもいいでしょう。この最後の安息の一日がそれまでの六日間を規定し、意味づけているのです。ですから、この最後の一日は付け足しであるどころか、天地創造において、最も大切な日であったということができようかと思います。そして七日目を経て、「これが天地創造の由来である」(4節a)と記されるのです。

(2)人間のための神の安息

 それにしても神が安息されるとは一体、どういうことでしょうか。天地創造という一世一代の大仕事で、さすがの神様もお疲れになったのでしょうか。私は、そんなことはないと思います。神様はどんなに精力的にお働きになっても、うみ疲れることがないでしょう。しかし私たち人間は疲れます。人間には休息が必要です。そうした人間のために、神様は、模範として、率先してお休みになったのではないでしょうか。上の者が休んで初めて、下の者も安心して休むことができるのです。
 モーセが神様からいただいた十戒には、安息日の律法がありますが、その根拠として、この天地創造が挙げられています。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれ、あなたの仕事をし、七日目は、あなたの安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト20:8〜11)。

 安息日には、「自分自身が休まなければならない」と同時に、「自分のところにいるすべての者を休ませなければならない」のです。奴隷も、寄留者も休ませなければならない。家畜まで休ませなければならない。この律法によって、弱い立場の者も初めて安心して休む権利が保障されるのです。

(3)休みをしっかり取る

 私がブラジルに行って驚いたこと、そして少し困ったことは、日曜日と祝日には、すべての店が休みになってしまうことでした。日本では考えられないことです。日曜祝日と言えば、日本では一番のかきいれ時です。それがデパートもショッピングセンターも一斉に休んでしまいます。お昼頃からレストランとファーストフードのコーナーだけ開いていました。恐らく「日曜・祝日は、店を開けてはならない」という法律があるのでしょう。誰かが開けるようになると、競争が激しくなって、時間帯もだんだん長くなっていきます。その結果、どうなるか。みんな残業、残業で、休みが取れなくなります。ブラジルの場合は、日本と違って、貧富の差が極端に激しいので、最低給料の人は最低給料のまま(約150ドル位)、どんどん働かされることになるでしょう。いやだと言えば、「幾らでも代わりはいるからクビだ」ということになります。
 私がブラジルを離れる頃(97年)から、ショッピングセンターは日曜祝日でも、半日だけ開くようになってきていました。我々消費者にとってはありがたかったですが、それで働く日が増えても給料は変わらないようでした。
 このことは、本質的には日本でも同じ問題があるでしょう。日本の方が重症かも知れません。毎日残業で仕事に追われ、仕事に追いたてられる日々。夜12時に過ぎに帰宅して、翌日6時には家に出る。競争、競争で休んでなんかいられない。休んでいると、こちらも不安になってくる。資本主義という社会構造は、人間をそういう方向へとどんどん追いやっていきます。今では年中無休、24時間営業の店もどこにでもあるようになりました。安息のない町です。何とかブレーキをかけたいと思っても、この社会はそうした意志とは裏腹に、競争という資本主義のシステムに飲み込まれていきます。
 介護保険制度にしても何にしても、すべてが効率のよさで測られていきます。採算のあわないことは切り捨てられていく。人間をどんどん非人間化していくように思えてなりません。私たちは、こうした根本的な社会のあり方に対して、疑問を投げかけていく必要があるのではないでしょうか。もっとも立ち止まって考える余裕もないのかも知れません。
 私はブラジルから帰ってきて改めて、日本人はもっと「休む」ということを学ばなければならないと思いました。休むということは、単に疲れを取って、英気を養う以上のことです。一旦、自分の歩みを止める。それは一見無駄なようですが、落ちついて自分を振り返る時であり、考え直す時であり、自分の仕事や生活を見つめ直し、確認する時です。必要に応じて軌道修正し、場合によっては、大胆に方向転換をする時でもあるでしょう。もちろん日曜日の朝、こうして教会の礼拝に来ておられる方は、平均的な日本人とは、一味違う日曜日の過ごし方を知っておられる方々でありましょう。

(4)祝福と聖別

 「第七の日を、神は祝福し、聖別された」(3節)。安息日が祝福されることによって、造られた世界全体が祝福されているということができるでしょう。世界全体が、神様の大きな御手の中に安全に置かれていることの宣言です。そしてこの安息日を他の日と区別して聖別されました。
 それゆえに、私たちも主の日を聖別して、七日ごとにそこへ立ちかえっていき、神様を礼拝するのです。そこにこそ私たちの本来的な姿があるのです。アウグスティヌスは言いました。

「神よ、あなたは私たちをあなたの方に向けてお造りになりました。ですから、私たちの心はあなたのうちに憩いを見いだす日まで、安きを得ません」(『告白』第1章)。

 私たちは、神によって、神に向けて、神に似せて造られたゆえに、そこに立ちかえる時にこそ、まことの平安が与えられるのです。それを七日ごとに意識的に確認するのが、主の日の礼拝であります。

(5)安息日と主の日

 さて聖書では安息日は七日目、すなわち土曜日であるのに、どうして私たちクリスチャンは日曜日に礼拝をするのでしょうか。
 それは、初代のクリスチャンたちが(紀元2世紀頃)、「自分たちはこれまでのユダヤ教とは違うのだ」と意識的に、礼拝の日を土曜日から日曜日に移していったようであります。それはなぜか。日曜日がイエス・キリストの復活の日であったからです。イエス・キリストの復活を祝うことこそ、キリスト教の礼拝の中心であり、そこにこそ私たちのまことの安息があるからです。次第に日曜日に礼拝をするということがクリスチャンの目印になっていきました。
 ただし聖書の中には、安息日を土曜日から日曜日に変える指示のような言葉はありませんので、日曜日に礼拝することついて、キリスト教世界においても異議を唱える人々もあります。セブンスデー・アドベンティスト(SDA)という教会(セブンスデーは七日目ということ)ですが、ユダヤ教と同じように、土曜日に礼拝をいたします。東京でも、荻窪に大きな教会があり、その隣に衛生病院という菜食主義の病院があります。セブンスデー・アドベンティストは、「キリスト教会の堕落は、旧約聖書の律法を勝手に廃棄したり、変更したりすることから始まった。新約聖書で明らかに破棄されていない旧約聖書の律法、教えは守るべきである」という批判をもっています。私たちと違うところもありますが、、立派なキリスト教の教派です。私もアメリカへ行く前、SDAの英語学校で英会話を習いました。

(6)イエスと安息日

 新約聖書の中にも安息日をめぐる出来事が幾つか記されています。先ほどの十戒の中の「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という戒めを重んじることから、しばしば主客転倒のようなことがありました。「神様との喜びの交わりの中に入れられて、安息を得る」ということよりも、「その日には何もしてはならない」ということが形式的に問われたのです。
 イエス・キリストを陥れようとした人々も、片手の萎えた人を前にして、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねました。イエス・キリストは「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」(マタイ12:11〜12)と言って、その人の病気を治してあげました。
 イエス・キリストは、安息日の形式主義ではなく、むしろそこで大切なことは何なのかと内容的にお受けとめになって、それを刷新されました。安息日を安息日たらしめるのは一体誰だ。安息日を規定されるのは一体誰だ。まことの安息日の主は一体誰だと、暗に問うておられるのです。
 キリスト教の理解からすれば、それは十字架と復活の主イエス・キリストであります。このお方こそ、私たちにまことの平安をお与えになることのできるお方です。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11:28〜29)。

(7)終わりの日の安息

 天地創造が七日目の安息をもって完成したということは、私たちの人生にとっても、私たちの歴史にとっても大きな意味があります。それはこの最初の七日間の出来事が私たちの歴史のひな型であり、同時に私たち一人一人の人生を指し示しているからです。
 私たちの歴史には終わりがあります。それが聖書の示す歴史観です。いつまでもぐるぐる回っているのではない。しかしその世の終わりにあるものは、破滅ではなく、永遠の神の国における安息であります。それゆえに、安息日は、主なる神様の天地創造を思い起こしてそれを記念するだけではなく、御国が来ることを、希望をもって思い起こす時でもあります。永遠の安息の国です。天地創造の七日目に、すでにおぼろげながら、終わりの日を指し示す希望が垣間見えているのです。安息日、それは私たちの夢、私たちの希望であります。
 歴史に終わりがあるのと同様に、私たちの人生にも終わりがあります。生まれてこの世にやってきて、死んでこの世を去っていく。誰一人として例外はありません。生きている間はなすべき多くのことに取り囲まれています。それに追われ、それをこなしていくだけで、いつしか生涯を終えてしまうような気さえします。人によっては全く休む間もなく走り続けて、力尽きて倒れるように死ぬ人もあるかも知れません。しかし私たちの人生はそれで終わるのではありません。それは六日間の出来事に過ぎないのです。その後に七日目が待っています。私たちの人生は安息をもって完成するのです。神と共に安らう、まことの安息が待っている。主のもとで、主と共に過ごす安らぎがあると、聖書は約束しています。
 イエス・キリストの復活は、その終わりの日の先触れです。そういう意味においても、イエス・キリストの復活を祝う週の初めの日、日曜日を主の日と定めて、この日に礼拝をするのは、まことにふさわしいことであると思います。
 また造り主なる神にとって安息日は七日目でありましたが、考えてみれば、六日目に造られた人間にとっては、その翌日、つまり最初に迎えた日がいきなり安息日であったことになります。この最初に迎えた日に、人間は主なる神と安息を共にしたのです。そういう意味においても、私たち人間が週の第一の日に、安息を祝うのは意味のあることではないでしょうか。そこで私たちも安息し、世界も安息するのです。
 召天者記念礼拝のこの日、私たちの地上の業もまた、この安息をもって終わることを思い起こしましょう。永遠の安息の時を思い起こし、感謝をもって私たちに与えられた地上の歩みを終わりまで、誠実になしていきたいと思います。


HOMEへ戻る