宿のない人のもとで

〜ルカ福音書による説教(8)〜
ミカ書5章1〜4節
ルカによる福音書2章1〜7節
2007年12月16日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)住民登録と主イエスの出生

 アドベント第三主日(待降節第三主日)を迎え、講壇のキャンドルにも三つ火が点りました。私たちは今、ルカによる福音書を続けて読んでおります。前回は、1章45節までを読みましたが、1章46節から終わりの80節までは来年のアドベントに残しておくことにいたしました。今日はいよいよ、第2章のクリスマス物語へ入りたいと思います。
 「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行なわれた最初の住民登録である」(1〜2節)。
 アウグストゥスというのは、ローマ帝国の皇帝で、在位は紀元前27年から紀元後14年。この時代にローマ帝国の全領土の住民登録が行なわれたという他の記録はないようですが、ユダヤ地方の住民登録は、キリニウスという人がシリアの総督であった紀元後6年に実際に行なわれたようです。
 イエス・キリストの誕生がいつであったのか、さまざまな議論があります。本当は、この西暦そのものがイエス・キリストの誕生年を基準に定められたものですので(AD とは、Anno Domini、主の年の意)、1年であるはずですが、そう単純ではないようです。ユダヤの住民登録の年であれば、紀元後6年ということになりますが、どうもそうでもなさそうです。
 ヘロデ王の在位が紀元前37〜紀元前4年でありますので、イエス・キリストの誕生もその間であろうと言われます(ルカ1:5など参照)。現在では、イエス・キリストの実際の誕生年は、紀元前4年、または紀元前7年であろうと言われます。
 歴史的年代はともかくとして、ルカが記そうとしたのは、そうしたこの世の事件とイエス・キリストの誕生が切り離せないということでした。ヨセフとマリアは、その勅令のために、ガリラヤの町ナザレからいわばヨセフの本籍のあるベツレヘムへ住民登録に行かなければなりませんでした。当時のヨセフは、とてもダビデ家の子孫とは言えないほど貧しいものでありましたが、その家系であったというのです。いいなずけのマリアと一緒の旅でありました。マリアは身ごもっております。おなかの中にいたのは、もちろんイエス・キリストであります。

(2)とっておきの場所

 この二人が到着した時、彼らに泊まる場所はありませんでした。もしかすると、住民登録のために大勢の人がベツレヘムに押し寄せて、どこの宿屋もいっぱいであったのかも知れません。もともとはベツレヘム出身の家系ですので、ベツレヘムに親戚もきっといたことでしょう。それでも泊まる場所が見つけられないということは、もしかすると、結婚によらないマリアの妊娠を理由に、この二人がヨセフの親戚たちからも距離を置かれていたのかも知れません。とにかくベツレヘムの町には、彼らの泊まる場所はなかったのです。
 しかしそのことは、救い主の誕生を妨げるものではありませんでした。彼らにはとっておきの場所、救い主がお生まれになるのに、最もふさわしい場所が用意されていました。馬小屋(家畜小屋)であります。聖書には「馬小屋」という言葉はありませんが、「飼い葉おけに寝かせられた」とあります。
 「飼い葉桶」というのは、貧しさ、低さ、みじめさの象徴でありましょう。しかし逆に言えば、だからこそ、誰でもが近づくことができるのです。この後、羊飼いたちが救い主を訪ねてきますが、もしもこの救い主が王様の宮殿で生まれていたら、彼らは近づくことができませんでした。いや普通の宿屋で生まれていたとしても、あるいはヨセフの親戚のおうちで生まれていたとしても、近づくことができなかったでありましょう。貧しい、ノーガードの家畜小屋、セコムも何もない家畜小屋であったからこそ、近づくことができたのです。
 ルカがここで、皇帝アウグストゥスの名前を挙げているのは、イエス・キリストの誕生を歴史上の出来事として位置づけるためでしょうが、それは同時に、皇帝アウグストゥスとイエス・キリストを対比することになりました。
 アウグストゥスという皇帝は、この世界の支配者としては、歴史上まれに見る偉大な人物であったようです。実の名はオクタヴィアヌスで、「アウグストゥス」というのは、「荘厳なる者」という意味の称号でありました。ローマ史において名君の一人とされ、この時代は統治が行き届き、「アウグストゥスの平和」と呼ばれました。「全世界の救い主」とも称され、「神」とさえ言われた人です。そのような時代背景にあって、ルカは、このアウグストゥスではなく、ベツレヘムの飼い葉桶に生まれた乳飲み子こそが救い主であるということを告げるのです。

(3)移動を余儀なくされる

 住民登録は、人頭税などの課税のために行なわれ、また、その支配(この場合は、ローマの支配)への忠誠を事実上、誓わされるような性格のものでありました。ですから単に煩わしいということだけではなく、非常に屈辱的なものでありました。
 使徒言行録の5章37節に、「ガリラヤのユダの反乱」という事件が記されていますが、それはまさに支配者への反抗心をよく表していると思います。
 そうしたことは、今日の世界にも通じます。コソボで起こっていること、クルドで起こっていること、チェチェンで起こっていることもそうでありましょう。
 そのような権力者の思惑で、移動を余儀なくされるということも、今日に通じます。為政者の命令で、「お前はここから出て行け」「お前はあちらに住め」と言われる。インド、パキスタンの国境が定められた時もそうでした。「ヒンドゥー教徒はこっち。イスラム教徒はあっち。」パレスチナの住民もそうです。そしてそこにイスラエルによって壁が築かれていく。旧ユーゴスラビアにおいては、それまで一緒に住んでいたアルバニア系の住民とセルビア系の住民が分けられていった。本来、分けられないものが分けられ、移動を余儀なくされるのです。
 紛争、戦争によって起きる難民もそうであります。アフリカのルワンダで起きたこと、私たちの教会にも来ておられるアルセンヌさんの国、コンゴ民主共和国で起きたこともそうであります。
これは厳しいことでありますが、2000年前も、そうした人々のただ中にあって、救い主はお生まれになったということを深く思うのです。そこで神様のドラマが始まっている。アルセンヌさんが日本にいることの中にも、見えない神様の導きがあったとのだと思います。

(4)ブラジルの国内移住労働者

 私はブラジルに長く住んでいましたが、ブラジルではクリスマスを、家族・親戚と共に、楽しくゆっくりと過ごします。故郷を離れて生活している人たちも、12月24日の夜は万難を排して、親元に集まってきます。しかしこうした時にも、家のない人、家族のない人、家族の元に帰りたくとも帰ることができない人が大勢いました。そういう人たちは、かえって寂しい思いをするものであります。サンパウロの大勢の路上生活の人たちも、そういう思いをしていたことでありましょう。 彼らの多くは、他の町、他の州から仕事を求めてサンパウロへやってきた人々であります。中でも、私がその後で働くことになった北東部からの移住者が多くありました。
 ある人はサンパウロに行けば何とかなるだろうということで、やって来たけれども、そう甘くは無かった。ある人は、サンパウロへ来る時は、仕事があったのかも知れませんが、そのうちに失業し、結局、路上生活者になってしまった。帰りたくとも帰れなくなってしまった者もいるし、「帰ってもどうせ仕事はないから」とサンパウロの路上に住み続ける人たちもいます。

(5)路上生活者のための活動

 ブラジル・メソジスト教会は、サンパウロに「路上生活者のためのコミュニティー」という施設をもっていました。1992年、メソジスト教会とサンパウロ市役所の合意によって始められ、路上生活の人たちに、彼らが暖かく受け入れられる場所を提供し、個人的な問題、社会的な問題を解決する道を探り、社会的権利と人間としての尊厳を回復することを目的としています。
 毎日朝9時〜夕方5時まで、約180人がここにやってきます。彼らはここでシャワーを浴び、ひげを剃り、時に散髪もします。簡単な昼食をとり、医療相談をします。また家がないということは住所がないということですので、コミュニティーが住所を提供して、故郷の家族と連絡が取れるようにしていました。
 このコミュニティーでは、毎年盛大にクリスマスを祝います。私はサンパウロ時代、時折このコミュニティーを訪ね、お手伝いをし、いろんなことを学ばせていただいたきましたが、特にクリスマスは思い出深いものです。
 12月23日には、盛大な愛餐会があり、七面鳥他、いろんなご馳走が用意されます。私の働いていたサンパウロ福音教会からも大鍋を提供し、何人かの婦人達も準備や給仕の手伝いに行きました。この日は、路上生活の人たちも列になって食事を受け取るのではなく、きちんとテーブルにつき、奉仕者により給仕されます。それは、彼らの一人一人が人格を持った者として、受け入れられていることを示すためでありました。
 24日は、クリスマス礼拝です。礼拝の中で、路上生活の人たちが、普段歌っているギター伴奏の賛美歌を用いて、オリジナルのクリスマス・カンタータを上演しました。印象的であったのは、彼らが自分たちの物語とヨセフとマリアの物語を重ねあわせて演じていたことでありました。
 自分たちは貧しさのため故郷を離れ、サンパウロへやって来た。夢を抱いて来たけれども、夢はすぐに破れてしまった。誰も彼らを暖かく迎えてくれる人はなく、路上に住むことを余儀なくされた。ヨセフとマリアも田舎からベツレヘムの町へ出て来た時、馬小屋にしか、いられる場所はなかった。しかしそうしたただ中で、イエス・キリストはお生まれになり、クリスマスは始まっていると歌うのです。
 実際、その年(94年)のクリスマスには、路上生活者の間に生まれた3人の赤ちゃんの幼児洗礼式が行われて、まさに、貧しい馬小屋でイエス・キリストがお生まれになったその様子を目の当たりに見るような思いがいたしました。

(6)カマラ大司教の言葉

 私が2回目に赴任いたしました北東部のレシフェ、オリンダにおいても、同じような状況がありました。レシフェ、オリンダには、ブラジルの軍政時代に全国司教会議の議長を務めたドン・エルデル・カマラという有名な大司教がいました。このカマラ大司教が、ヨセフとマリアのベツレヘム到着の物語を指して、こう語っています。

「たとえばわたしたちのところのような、世界のある場所においては、ほとんど毎日このような情景を、身をもって体験することができます。『土地のドラマ』を通して、実際にそこに生きているからです。大企業が奥地の方で何エーカーもの土地を買い上げます。するとそこに何年も何年も住んでいた家族は、そこを去らざるを得ません。そして例えばレシフェのような都市にやってきて、住むところを探します。しばしば妻は妊娠しています。最後にはみすぼらしい小屋を建てるのです。(小屋以下だと言ってもいいでしょう。)そこはいつも沼の近くで誰も住みたくないところです。そしてそこでキリストは生まれます。そこには牛もろばもいませんが、豚がいます。豚と、時々にわとりが。これが飼い葉桶、生き生きと実在する飼い葉桶です。
 当然のことながら、クリスマスには、私はいろんな教会でミサを祝いますけれども、こうした生き生きとした飼い葉桶のどこかでミサを立てるのが好きです。どうしてキリストの歴史的生誕地、ベツレヘムへ巡礼に行く必要があるでしょうか。この日のあらゆる瞬間に、ここで実際に、キリストがお生まれになっているのを見られるのですから。その子はジョアン、フランシスコ、アントニオ、セバスチャン、セヴェリーノと呼ばれます。でもキリストなのです。」(THROUGH THE GOSPEL WITH DOM HELDER CAMARA, ORBIS,NEW YORK 1986, P.14))

(7)神様の計画

 印象深い、そして現実味のある言葉であると思います。そのように権力者のせいで、移動を余儀なくされるのですが、そこには、何かしら神様の計画があるのです。
 この皇帝アウグストゥスも、キリニウスも、知らずして、その神様の計画、神様の偉大なドラマのために奉仕している。権力者も知らずして、神様の道具になっているのです。それは救い主がまさに、そういう場所でお生まれになる必要があったからです。そして先ほどミカ書に聞きましたように、救い主がベツレヘムで生まれる必要があったからです。
 カマラ大司教が語っているように、今日もそうした世界中のあちこちで、クリスマスの物語が実際に起きているということを思い起こしましょう。そしてさまざまな困難を取り除いていく努力をすると共に、いかにそのようなことがあろうとも、救い主はお生まれになっているということ、「この世が闇に閉ざされても、客間はあふれ余地なくても」「キリストは明日、おいでになる」(『讃美歌21』244番)。そのことを信じ、お祝いしましょう。


※(5)〜(7)の説教は、2008年のアドベントの頃になされます。


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