なんという喜び

〜ルカ福音書による説教(9)〜
イザヤ書52章7〜10節
ルカによる福音書2章8〜20節
2007年12月23日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)礼拝に集う喜び

 クリスマス、おめでとうございます。今年のアドベントとクリスマス、経堂緑岡教会では、「なんという恵み、なんという喜び」というテーマを掲げて歩んできました。この言葉は、詩編133編1節、そして『讃美歌21』の162番からとられたものです。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」。そのように歌うのです。
 本日の礼拝には、朝は雨模様でありましたが、大勢の人たちが集まられました。普段は礼拝に出にくい、ご年配の方やお仕事で忙しい方も、いろいろと都合をつけて来られています。共にイエス・キリストの誕生をお祝いするためであります。「なんという喜び」でありましょうか。いつも礼拝に来ておられる方は、特にそうお感じにならないかも知れませんが、病気をしたり、あるいは年を取ったりして、教会になかなか来にくくなった時に、改めてそれがなんと大きな恵みであり、なんと大きな喜びであるかを実感するのではないでしょうか。しばしばそのように伺います。
 私は昨年の12月24日、急病になりまして、朝の礼拝では説教したにもかかわらず、夜のキャンドルサービスに突然出られなくなりました。牧師になって20年、クリスマスイブの礼拝に出られなかったのは初めてでありました。教会の皆さんが礼拝後に牧師館の前で、「きよしこの夜」を歌ってくださり、改めて「なんという恵み、なんという喜び」であるかと思いました。
 先ほど、読みましたクリスマスの物語にもそのような恵みと喜びの場面があります。
 最初に羊飼いところへ天使が現われ、羊飼いたちがその知らせを携えて、マリアとヨセフに出会うのです。

(2)なぜ羊飼いのところへ

 それにしても、どうして最初に羊飼いのところへ救い主誕生が告げられたのでしょうか。二つのことが考えられます。
 一つは、羊飼いと言うのは、旧約聖書の時代から、神様にたとえられる特別な存在でありました。有名な詩編23編には、

「主は羊飼い、
わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。」

 とあります。だから羊飼いに光が当てられたのかも知れません。
しかし、正反対のようなことがあるのです。羊飼いというのは、実際には、みんなから軽蔑されるような仕事でありました。夜中にも働かなければならない。野宿している。動物たちと一緒に寝起きしている。今日の言葉で言えば、3Kと呼ばれるような仕事です。「きつい、汚い、危険。」夜中の仕事はきついものです。汚い身なりをしている。臭い。いつ獣が襲ってくるかも知れない。危険極まりない。誰もが避けたくなるような、つらい仕事です。
 そういう仕事をしていた彼らのところに、最初に救い主誕生の知らせがもたらされたというのは、本当に意義深いことであると思います。夜中に寒い中、がんばって仕事をしていたご褒美が与えられたのかも知れません。そこへ主の天使が近づき、喜びの知らせを告げるのです。
 「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(10節)。

(3)羊飼いからマリアとヨセフへ

 すべての言葉を聞き終えた時、羊飼いたちは、いても立ってもいられず、その救い主のもとへ走るのです。

「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」(15〜16節)。

 そして彼らは、喜びの出会いをしました。マリアとヨセフにとっても、羊飼いたちの来訪は大きな驚きであり、大きな喜びであったことでしょう。
 マリアとヨセフは、それぞれに直接、天使からお告げを受けていました。
 マリアが聞いた言葉は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(1:35)というものでした。マリアは、その言葉を信じて受け入れました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(1:38)。しかし「もしかすると、自分の思い込みかもしれない。」マリアは心のどこかで、そう思っていたかも知れません。客観的な証拠はないのですから。
 ヨセフはヨセフで、天使から「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(マタイ1:20)というお告げを受けていました。やっぱり何の保証もありません。「もしかすると、自分の思い込みかもしれない。」
 イエス・キリストが誕生した時も、二人の上には何も起こりませんでした。この夜、ヨセフとマリアのもとには、天使も天の大軍も来なかったのです。
 ですから、不思議なことに、この二人は、天使と天の大軍の話を羊飼いたちから聞くのです。しかしそのことは、マリアにとっても、ヨセフにとっても、かえって大きな恵みであり、大きな喜びであったに違いありません。なぜならば、二人は、全く意外なところから、つまり、二人と全く関係のない第三者、羊飼いたちの口から、今、自分たちの身の上に起きていることの深い意味について聞いたからです。
 「ヨセフさん、マリアさん、聞いてください。私たちは野宿しながら、羊の群れの番をしていました。そこへ突然、まわりが明るくなって、天使が現れて、こう言ったのです。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』もうびっくりして何も言えないでいると、今度はこの天使に天の大軍が加わって大合唱を始めたのです。『いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。』。それで大急ぎで、ここへ来たというわけです。そして今、この赤ちゃんを見て、天使が言ったとおりであることがわかりました。お会いできて、本当にうれしいです。」
 羊飼いたちは、ヨセフとマリアのもとを去った後、「その光景を見て」「この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」(17節)とありますから、当然のことながら、その前にヨセフとマリアにも、「天使が話してくれたこと」を、もっと詳しく話したに違いありません。

(4)最初の礼拝

 マリアとヨセフはナザレから、このベツレヘムの家畜小屋に、神様に導かれてやってきました。羊飼いたちは近くの野原から、やはり神様から導かれて、この家畜小屋にやってきました。そして今一つの場所に集められてキリストを囲んでいるのです。ここに最初の礼拝が成立しています。
 今、私たちのこの礼拝においても、それと同じことが起きているということを心に留めましょう。私たちは、それぞれ不思議な導きによって、ここに呼び集められました。毎週来ておられる方は、特に何も意識せずにここへ来られたかも知れません。クリスマス位は教会へ行こうと思ってこられた方もあるでしょう。学校の宿題で来た人もいるかも知れません。それぞれ動機はさまざまです。しかしながらそれぞれの事情を通して、神様が皆さんをここに招かれたのです。そして今ここで一緒に救い主の誕生をお祝いしているのです。不思議なことだとお思いになりませんか。「なんという恵み、なんという喜び」でありましょう。

(5)羊飼いたちの応答

 さて救い主誕生の知らせを聞いた人たちは、三者三様の応答をしています。
 天使から直接、救い主誕生の知らせを聞いた羊飼いはすぐに応答しました。ベツレヘムにかけつけて、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。そして天使の言葉が、確かに出来事として事実となっていることを見届け、「神をあがめ、賛美した」(20節)のです。さらに彼らは、見聞きしたことを「人々に知らせ」(17節)ました。天使の言葉を聞いた時、聞くだけに終らず、聴き従う者となり、しかもそれを伝道する者に変えられました。
 今日、読んでいただいたイザヤ書52章にはこう書いてありました。

「いかに美しいことか。
山々を行き巡り
良い知らせを告げ知らせる者の足は。
彼は平和を告げ
恵みの良い知らせを伝え
救いを告げ
あなたの神は王となられた、と
シオンに向かって呼ばわる。」
(イザヤ書52:7)

 羊飼いたちは、まさにこのイザヤ書が預言している通りの者になったのです。彼らは、その後、もとの羊飼いの生活へ戻って行ったことでしょう。恐らくその前の日と同じ仕事に就いたことでありましょう。しかし彼らのうちでは、事柄が全く新しくなっておりました。これまでと同じものを観ながら、それが全く違って見えるようになりました。「大きな喜び」をいただいたからです。しかもヨセフとマリアと共なる礼拝を経験し、それを救いの原体験としました。その時、それまでのつらい仕事が、喜びをもってできるようになったのではないかと思います。
 私は、洗礼を受けてクリスチャンとなる、キリストに従う決心をするというのは、まさにそういうことではないかと思います。洗礼を受けた後も、そう生活が変わるわけではありません。前の日と同じ仕事をしなければならない。子育てをしなければならない。会社に行かなければならない。もしかすると、その洗礼の感動も薄れていくかも知れません。しかしながら、それまでとは違った者になるのです。

(6)それを聞いた人々の反応

 一方、羊飼いたちから、救い主誕生の知らせを聞いた人々は、皆、羊飼いたちの話を不思議に思いました(18節)。「不思議に思う」にはいろんなニュアンスがあるでしょうが、とにかく「そんなことは信じられない」と思ったのでしょう。ましてや、それを伝えたのは羊飼いたちです。信用もありません。律法学者がそう言ったのであれば、違ったかも知れません。「羊飼いたちの言うことなんて信じられるものか。」気に留めなかったのでしょう。それから彼らがどうしたかは書いてありませんが、恐らく多くの人はそれっきりで、忘れてしまったのではないでしょうか。
 それは今日の世界においても同じではないでしょうか。クリスマスの喜びの知らせを聞く。しかしそれを聞くだけで、信じるわけでも従うわけでもなく、過去のものとなって過ぎ去っていくのです。

(7)マリアは心に納めて思い巡らした

 しかしマリアは違っていました。もちろん自分の身に起こったことですから、当然といえば、当然かも知れませんが、彼女は、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」のです(19節)。「心に納めて」と訳された言葉は、「大切にとっておく」「宝物のように蓄える」というような意味であります。それっきりのこととしてやり過ごさない。羊飼いたちが何を言ったか、それは不思議でよくわからないけれども、一字一句、忘れないように「思い巡らして」いる。それが彼女の中でだんだんと熟していったのではないでしょうか。彼女は神の語りかけを、そのままでは受け入れられない時でも、それを捨て去らず、大切にとっておき、事ある毎に、それがどういう意味を持っているのかを考え続けたのです。これもひとつの信仰的な姿勢でありましょう。すぐに行動に移せる人もありますけれども、じっくりと考える人もあります。そうした中で、より大きな行動へと準備の時が整っていくということもあると思います。
 旧約聖書の中で、サムエルという預言者が出てきます。子どもの時、どこからともなく自分を呼ぶ声を聞きました。自分を引き取った祭司エリが呼んでいるのかと思って尋ねると、エリは「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いています』と言いなさい」(サムエル記上3:9、10)と教えました。そしてサムエルは、その通りにします。聞く姿勢を学んだのです。このマリアにも、サムエルを髣髴とさせるものがあると思います。

(8)告げ知らせを本気で聴く

 「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(11節)。
私たちはこの告げ知らせをどう聞き、それにどう応答するのでしょうか。
 クリスマスを祝いながらも、その言葉を本気で信じることなく、やり過ごしてしまう人も多いでしょう。
 そうではなく、それを本気で聞いて、「そうだ。救い主が来られたのだ。私も気持ちを新たにし、生活も新たにしよう」という思いをもって聴き従う者となりたいと思います。
 あるいはマリアのように、それをしっかりと心に留めて、「今の私にはまだそのままでは受け入れられないけれども、きっと何か意味があるに違いない」と思い巡らし、明日に向かって備えをすることも意味があるでしょう。それも信仰的な姿勢であります。本気でこの福音を聞きつつ、新しい年へと進み行きたいと思います。


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