安らかに去らせてくださる

〜ルカ福音書による説教(10)〜
レビ記12章6〜8節
ルカによる福音書2章21〜38節
2007年12月30日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)年の終わりに

 2007年最後の日曜日を迎えました。今朝の朝刊には、真ん中のページに見開きで写真をちりばめて2007年の主なニュースがまとめられていました。中越での地震では、原発の安全神話が崩壊しました。能登半島でも地震が起きました。ミャンマーの軍事政権に対する抗議デモでは、日本人ジャーナリストが射殺されるという痛ましい悲劇を伴いました。ごく最近12月27日には、パキスタンにおいてブット元首相が暗殺されました。
 また今年を象徴する漢字は「偽」という字だそうですが、さまざまな偽装事件、また政治家や役人の嘘などが目立った年でもありました。「日本軍が沖縄の住民に集団自決を強制した」という記述が教科書から削除されたということから、検定意見撤回を求めて、11万人の人々が沖縄県民大会に集まったというニュースも目を引きました。地球温暖化の問題も深刻であり、また日本の政治状況も不安定であります。もちろん明るいニュースもなかったわけではありませんが、全体として、世界はさまざまな重い課題を抱えたままの年越しになったという気がしています。
 しかしそうした中も、私たちは新しい年へと進んで行くことになります。むしろそうした状況でこそ、しっかりと見つめるべきものを見つめ、目当てを見失わずに歩んで行きたいと思います。そのようにする時に「今、何をなすべきか」「今、何ができるのか」を冷静に判断し、悲観的にならないで前向きに取り組んで行けるのではないでしょうか。

(2)シメオンの賛歌

 今日、私たちに与えられた御言葉は、まさにそのような信仰者の姿勢が示されていると思います。29〜32節は、シメオンの賛歌と呼ばれる歌であります。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目で
あなたの救いを見たからです。
これは
万民のために整えてくださった救いで、
異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉れです。」
(29〜32節) 

 この「シメオンの賛歌」は、ヌンク・ディミティス(「今こそ去らせてくださる」の意)と呼ばれるひとつの賛美歌となっており、この後で歌う180番もその一つであります。教会暦を重んじる教会においては、しばしば大晦日に、このヌンク・ディミティスを歌うそうです。確かにこの言葉は、一年を終わる時にふさわしいものでしょう。私たちもこの年の瀬の礼拝に際して、このシメオンの賛歌の心を私たちの心としたいと思います。

(3)主に献げられた貧しい方

 さて、今日のテキストを読んでいますと、改めてイエス・キリストがユダヤ教の伝統の中で生まれ、お育ちになったということを思わされます。
 まず生まれて八日目に割礼を受けられたということから始まります。そしてその日に、予め聖霊によって示されていたとおり「イエス」と名付けられました。「イエス」とは、「ヤハウェは救い」という意味でありますが、この名前そのものがユダヤの伝統を示しています。それは、ヘブライ語のヨシュアと言う名前をギリシア語にしたものであり、ユダヤ人の間ではごく一般的な名前でありました。あの強盗バラバも「バラバ・イエス」という名前でありました(マタイ27:17参照)。
 さて、その次の「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき」というのは、レビ記12章2〜6節に基づくものです。
 またイエス・キリストは両親に抱かれてエルサレムの神殿に連れて来られましたが、それは「主に献げ(られ)るため」(22節)でありました。「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」とあります(23節、民数記8:17参照)。
 ルカはそのように、イエス・キリストがユダヤ教の伝統の中でお生まれになったということを記しているわけですが、同時に、ユダヤ教の伝統をはるかに超えたことを考えていたと思います。それは、この幼子がマリアとヨセフにとっての長子であると同時に、全人類の長子(初子)として、主に献げられたということです。
 ここで「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるため」(24節)と記されていますが、実はこれは貧しい人の献げ物でありました。豊かな人々は、最初の子どもを神殿に連れて行った時には、小羊を献げ物として献げました。ところがそれに手の届かない貧しい人は、この「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽」でもかまわない、とされていたのです(レビ記12章6〜8節参照)。
 このことはイエス・キリストが飼い葉桶で眠っておられたことに通じます。イエス・キリストは、「人」となられただけではなく、「貧しい人」となられたのでした。王様の宮殿でお生まれになったのではなく、馬小屋でお生まれになった。お金持ちの家庭にお生まれになったのではなく、小羊を献げることのできないような貧しい家庭にお生まれになったのでした。
 そのイエス・キリストが私たちの長子として、主なる神に献げられようとしているのです。イエス・キリストは、私たちの代表として、主なる神と私たちの間に立ち、私たちをその主なる神と結びつけるために生きられ、そして死なれた。そのことが、すでにここで浮かび上がってくるようです。

(4)人生の終わりに

 さてその幼子イエスに一人の人物が出会いました。シメオンであります。このシメオンが一体何歳位であったのかは記されていませんが、昔から老人であろうと理解されてきました。シメオンは、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死ぬことがない」とのお告げを聖霊から受けていたというのです(26節)。あるいはシメオン自身も、「今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」(29節)と言っています。
 シメオンの話に続いて出てくるもう一人の人物、アンナという女性は、はっきり84歳であったと記されています。現代の日本では84歳というのは、まだ老人の入口あたりかも知れませんが、この当時としては、かなり長生きであったでしょう。
 クリスマスというのは、子どもがサンタクロースからプレゼントをもらったり、日本では若者が恋人と過ごしたり、どちらかというと、若者や子どもたちのお祭りだという印象が強いかも知れませんが、主イエスの誕生を心から待ち望み、それが実現した時に誰よりも先に感謝したのは、シメオンとアンナという二人の老人でありました。クリスマスは楽しいだけの無邪気な祭りではありません。人生の終わり、私たちが死ぬべき存在であるということを見据えながら、なお喜んで歌うことができるのです。
 昨日、私たちの教会の教会員であります川端洵さんが天に召され、昨夜ご自宅で前夜式を兼ねた葬儀を執り行ってきました。17歳の時に、お父さまの川端勤六さんの影響のもとで洗礼を受けて歩んでこられた人生であります。72歳という今の日本の状況では、比較的若い年齢でありますけれども、もう10年以上、寝たり起きたりの生活であったという風に伺いました。
 お葬式の時には「きよしこの夜」を歌いました。先日の飯塚禮二さんの葬儀でもこれを歌いました。葬儀のときに、クリスマスの讃美歌はあまりふさわしくないように思えますが、よく歌詞を味わってみますと、むしろそういう時にこそイエス・キリストが救い主としてこの世に来られたことの意味がよくわかり、心にしみる思いがいたしました。クリスマスは、まさにそういう重い現実、暗い現実を隠すのではなくて、それを十分に見据えながら、それでもなお希望があるということを告げるのです。

(5)万民の救い

 このシメオンが一体どういう人であったのか、どんな仕事をしていたのかというようなことはよくわかりません。ただ「この人は信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」(25節)と記されています。
 しかし彼はイスラエルだけのために祈っていたのではないでしょう。賛歌の中で「これは万民のために整えてくださった救い」(30節)と言っています。さらに「異邦人を照らす啓示の光」(31節)とも言っています。イスラエルだけを照らすのではない。シメオンの祈りには、万民の救い、異邦人の救いも入っていたのです。言い換えれば、それを抜きにして、イスラエルの慰めもありえないということを悟っていたのかも知れません。
 私たちも、たとえば日本のために祈るならば、同時に世界のために祈らなければならないでしょう。世界の救い抜きに、日本の救いはありえないからです。それは切り離すことのできない形でつながっているのです。

(6)終末論的視点

 彼はここで「わたしはこの目であなたの救いを見た」(30節)と言います。これは不思議な言葉です。
 彼は実際には、幼子イエス・キリストを見ただけです。その幼子がやがて成長し、救いの御業をなすようになるわけですが、それはまだまだ先のことです。それにもかかわらず、彼は「救いを見た」というのです。これはシメオンの信仰の幻と言ってもいいでしょう。彼にとって「救い主を見る」ということは、「救いを見る」ということと同じことでありました。この幼子を見ながら、そこに神様がかかわっておられるならば、将来に何が起こるかということを、いわば透視することができたのです。彼の目の前にあるイスラエルの現実は、恐らくまだ同じような状態が続いていたに違いありません。「しかし神様はこのイスラエルをお見捨てになっていない。その証拠として救い主をお遣わしになった。」それが彼にとっては「救いを見た」ということでありました。
 ヨエル書にこういう言葉があります。

「その後、
わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し、
老人は夢を見、若者は幻を見る。」
(ヨエル3:1)

 この「夢を見る」「幻を見る」というのは、ひとつの言い換えでしょう。夢の中にも、将来のヴィジョン(幻)をはっきりと見るのです。
 こういうのを、終末論的視点と言います。将来、歴史の終わりに何があるかを先に知る。そしてそこから、今の私たちの現実を振り返り見る視点です。私たちは通常は、今いるところからしかものを見ることができないものです。しかし、聖霊が注がれ、神様の約束を知っていることによって、もうひとつの視点が与えられるのです。
 ヘブライ人への手紙11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と記されています。この時のシメオンも、信仰の目でもって「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認」して、「救いを見た」と言ったのでありましょう。
 シメオンはさらに、「(これは)異邦人を照らす啓示の光」と言っています。「啓示の光」というのは、神様から出ている光です。神様が私たちに向かって、ご自分の方から顕された光です。これは先程の終末論的視点というのと関係があります。この光、啓示の光によって、私たちは自分の目の前にある現実を、違った仕方で見ることができるようになる。それが啓示の光です。神が共におられる。シメオンが「救いを見た」というのも、まさにこの「啓示の光」によって見たのだと言えるでしょう。

(7)信仰は、いつも新しい驚き

 「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた」(33節)とあります。マリアもヨセフもそれぞれに天使の言葉を聞いて、自分たちの腕に抱かれている幼子が、一体誰であるか、どういう存在であるかを、それなりに知っていたはずです。それにもかかわらず、シメオンの歌を聞いて、驚いたのです。知っているはずのことに驚く。信仰とはそういうものであろうと思います。いつも驚きをもたらす。神がこの世界にかかわられる時、一体何が起きるかということを、聖書を通して知っているはずです。あるいは説教を通して知っているはずです。それでも驚かされるのです。「神のおっしゃったこと、聖書に書いてあることは本当であった。」神が生きて働いておられる現実に触れる時、私たちは自分が揺り動かされる経験をいたします。いつも新しい。既成事実になってしまわない。何らかの原則になってしまわないのです。
 今年は、皆さんにとってはどんな年であったでしょうか。さまざまな事件がありました。イラクの問題にしても、北朝鮮の問題にしても、大変な宿題を負ったまま新しい年を迎えようとしています。皆さんお一人お一人の現実も、厳しいことがあったかも知れません。さまざまな課題、悩みを抱えたまま新しい年へ進みゆこうとしておられる方も多いでしょう。
 しかしそうした厳しい現実の中で、将来から、歴史の終わりから、私たちの人生の終わりから、今の現実を振り返り見る視点を与えられるのです。そしてそれをすでに得た者として、喜びの歌を歌うことができる。そうした思いを新たにし、中心をしっかりと見据え、その上で心安らかに、主のご用のために働く者となりたいと思います。


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