ヨハネからイエスへ

〜ルカ福音書による説教(13)〜
レビ記19章9〜18節
ルカによる福音書3章15〜20節
2008年2月3日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)ヨハネへの人々の期待

 ルカによる福音書は、イエス・キリストの活動について述べ始めるにあたって、それに切り離すことができないこととして、またそれに先立つこととして、洗礼者ヨハネの活動について述べています。
 洗礼者ヨハネとは一体、どういう人であったのでしょうか。他の人々からは、どのように思われていたのでしょうか。本日のテキストでは、このように記されています。
 「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」(15節)。
 イスラエルの長い歴史の中では、強いメシア待望がありました。国はダビデ、ソロモンの時代を頂点として、その後は衰退の一途をたどりました。バビロン捕囚からは解放された後の歴史も、決して上向きにはなりませんでした。そうした中、「いつか自分たちの国にもあのダビデのような王が再びあらわれて自分たちの国を建て直してくれる」という待望を持っていたのです。クリスマス物語の終わり近くに登場したシメオンもそうでした。
 「正しい人で信仰心があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」(2:25)。
 そのような人々の期待が、今一気にヨハネの方に集まって来たのです。ヨハネの言葉がそれだけ人々の心を揺り動かしたということでありましょう。もっとも彼の言葉は、決して人を心地よくさせるものではありませんでした。厳しい言葉です。それも並みの厳しさではありません。私たちを心底不安にさせるような言葉です。
 「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。……斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(7〜9節)。
 ヨハネは、あたかもそこに神がいるかのように語ることができました。それを聞いた人は誰でも、「このままではいけない」という思いを持ったのです。それは、厳しい言葉ではありましたが、それを聞いた人々は、「本当だ。ヨハネの言うとおりだ」と思ったのです。

(2)ヨハネは本物の信仰者

 もしもこれがこと大統領選挙のようなものであれば、ヨハネは一気に当選していたかも知れません。しかし彼の目的は人々の信望ではありませんでした。もしも、彼が神を見ていない人間であれば、どうであったでしょうか。そのように人々の注目を浴び、自分が高められることそのものが目的になってしまい、悔い改めを語ることそのものが、人々の注目を集める道具になってしまっていたかも知れません。もしもこの時、ヨハネが人々の期待に応えて、「そうだ。私こそがこのイスラエルを救うメシアだ」と言っていれば、人々は喜んで受け入れたのではないかと思います。偽預言者というのはそのようにして造り上げられていくものだろうと思います。
 しかしヨハネは違っていました。むしろヨハネは、人々に向かって、「私はメシアではない」ということをはっきりと語ることができました。神をきちんと見据えていたからであります。
 彼はそれを説明するのに、三つのことを語りました。
 その一つは、「わたしの後で、来る方は、わたしよりも優れた方であり、自分はその方の履物のひもを解く値打ちもない」ということでした。
 主人が帰宅したときに履物のひもを解いたり、外出の時に履物を持っていって、そのひもをしめたりするのは、奴隷の仕事でありました。ヨハネは自分の後に来る方に比べれば、自分はそのような僕、奴隷にも劣る者でしかないということをはっきりと表明するのです。

(3)聖霊と火による洗礼

 二つ目のことは、「自分は水で洗礼を授けるが、その方は聖霊と火で洗礼をお授けになる」ということでありました。
 ヨハネは水で洗礼を授けました。水は洗うもの、清めるものであります。彼はそれを悔い改めのしるしとして、言い換えれば、救い主メシアを迎えるための準備の業として行ないました。
 しかし来るべき方は、「聖霊と火」で洗礼を授けられるというのです。「聖霊と火」というのは、「風と火」と訳すこともできるものです。そして「風と火」は共に聖霊の象徴であり、神の力強い臨在の象徴です。
 来るべき方の洗礼は、人間の側の悔い改めのしるしということを超えているということでしょう。イエス・キリストの名によって行なわれるキリスト教の洗礼も、これに通じるものがあるでしょう。
 私たちはクリスチャンになる時に、洗礼を受けます。それは、一つにはヨハネの洗礼と同じように、私たちの決意、悔い改めのしるしであります。「わたしはイエス・キリストを主として受け入れます。」「救い主として信じます。」「これからはこのお方に従います」という決意のしるしです。ですから、洗礼式においても誓約があって、そのことが問われるのです。
 しかし、イエス・キリストの洗礼、キリスト教会の洗礼は、それだけに留まらないことを含んでいます。それは、「神様がその人にしるしを付けられる」ということです。「この人は私のものだ。」イエス・キリストご自身が、そういう風に言って、私たちにしるしを付けてくださる。イエス・キリストというブランドがその人に刻み込まれるのです。
 教会では(特に、元来のメソジスト教会やローマ・カトリック、ルーテル教会では)、小児洗礼(幼児洗礼)というのが行なわれます。子どもでありますから、それは本人の悔い改めのしるしとは言えません。(もっとも親の決意のしるしではあります。)バプテスト教会では、そのことから小児洗礼というのを行いません。
 この小児洗礼の例からもわかるように、洗礼には単に人間の側の悔い改めのしるしというレベルを超えている一面があるのです。これをキリスト教(神学)用語では、「恵みの先行」と言います。恵みが先に立つのです。ですから、やがて大きくなりますと、その先行した恵みに応える信仰告白をしなければなりません。
 (この前、「小児洗礼というのは何歳くらいまでですか」と言われて、「小学校2年生位までですね。〈しょうに〉洗礼という位ですから」と答えたら、「先生、まじめな話をしているんです」と言われました。まあ一概に何歳位までかは言えません。)
 この恵みのしるし、神様がしるしを付けられるということは、ヨハネからは言えないし、できないことでありました。もしもヨハネがそれを自分の権威で語り、行なっていたとすれば、それは越権行為であり、人々に恵みの安売りをしたことになったでありましょう。ただ神の子であるイエス・キリストのみ、神の権威をこの地上で顕されたイエス・キリストのみがなしえ、語りえたことです。そして私たちキリスト教会では、このイエス・キリストの名前によって洗礼を授けるのです。ヨハネは賢くもその手前で留まったのです。

(4)裁く権威を持った方

 三つ目は、その方は裁きを行なう方であるということです。
 「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(17節)。
 「箕」というのは平らな板でできたシャベルのようなものです。それを用いて麦を空中に放り上げる。重い実は地面に落ちてきますが、実の入っていないものやもみ殻は風に吹き飛ばされていく。ちょうどもみ殻と実をより分けられるように、悪いものと良いものをより分けられるであろう。こういうたとえを用いてヨハネは裁きをリアルに描き出しました。
 もっとも、ここで行なわれることの第一の目的は小麦を救うことであって、もみ殻を焼くことではないということを思い起こす必要があるでしょう。それをヨハネは人間の側で語りうる最も誠実な言葉を語り、メシアが来る道備えをし、最も謙虚に、その方こそが本当に裁く権威をもった方であることを指し示したのです。

(5)隣人への思いやり

 先週読んだところでありますが、彼は人々に「下着を二枚持っている者は、一枚も持っていない者に分けてやりなさい。食べ物を持っていない者も同じようにせよ」(11節)と言いました。徴税人には「規定以上のものは取り立てるな」(13節)と、兵士たちには「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」(14節)と言いました。
 これらの言葉の背景にあるのは、先ほど読んでいただきましたレビ記19章にあるような律法であります。
 「あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者の前を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」(レビ記19:13〜14)。
 そのような具体的な隣人への思いやりを通して、神を畏れるのです。主イエスは、律法の最も大事なこととして、神を愛することと隣人を愛することを掲げられましたが(マルコ12:29、31他)、こうした戒めの中に、隣人を愛することと神様を愛することがひとつになっていると思わされるのです。悔い改めとは、まさにその神様のもとに立ち帰ることに他なりません。

(6)領主ヘロデをも恐れず

 ヨハネは悔い改めを説きながら、人が人の道を外れてはならないと語りました。どんな人に対しても、それがたとえ領主であろうとも、変わることはありませんでした。間違ったことをしている相手には、厳しい言葉を語りました。そのことが最後に記されているのです。
 「ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアのことについて、また、自分の行なったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた」(19〜20節)。
 このヘロデは、1節のところで申し上げたとおり、あのヘロデ王(マタイ2:1)の息子で、ヘロデ・アンティパスという人です。ヘロディアというのは、アリストブロスの娘で、ヘロデの異母兄弟ヘロデ・フィリポに嫁いでいた人であります。ある時、このヘロデ・アンティパスは、ヘロデ・フィリポのところに滞在し、その妻ヘロディアと一緒になってしまいます。ヨハネは、この不倫、姦淫を戒めて、公然と批判したのです。そのために彼はついに捕らえられて、牢に入れられることになりました。
 この事件は、実際にはもう少し後に起こることなのですが、ルカはヨハネの活動を時間的順序で追っていくのではなくて、むしろその生涯の意味、ヨハネが一体どういう人であり、何をした人であったかということを示すために、ここでまとめて記しているのです。マタイやマルコは、もっと後のところで書いております。

(7)実際のメシアはどうであったか

 さてヨハネは、そのように来るべきメシアについて語りましたが、実際にその方がどういう方であったかというのは、必ずしもヨハネが思い描いたとおりではなかったと、私は思うのです。
 やがて洗礼者ヨハネは、「来るべき方はあなたでしょうか」と自分の弟子を通してイエス・キリストに質問させます(ルカ7:19)。その言葉には、「少しこの方は、私が思い描いていた方とは違うところがあるぞ」という気持ちがあらわれているのではないでしょうか。ヨハネのうちにも迷いがあったということです。
 確かにその方は人を裁く権威をもったお方であり、実際に裁く方でもありました。ところが新約聖書が告げているのは、その本当に人を裁く権威をもったお方が、何と私たちと同じ裁かれる側に身を置いてくださったということです。これは、ヨハネの想像を超えたことでありました。このことについては、イエス・キリストの受洗ということで改めてお話したいと思います。

(8)喜びに満たされて退く

 ヨハネは、イエス・キリストを指して「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:30)と言いました。この言葉は一見悲哀に聞こえますが、実は喜びと安心に満ちていました。彼は、自分を花婿の介添え人にたとえて、「花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だからわたしは喜びで満たされている」(同3:29)と言うことができたのです。
 このヨハネは預言者の一人であり、同時に、イエス・キリストを指し示した伝道者の一人であったと言えるでしょう。ですから、このヨハネが語ったことは、私たち今日の伝道者にもあてはまります。イエス・キリストを指し示しながら、「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」と喜んで言うことができる。そこで指し示されるのは自分の栄光ではなくて、イエス・キリストの栄光なのです。そのことをよくわきまえる時に、私たちも、今何をなすべきか、またどこに行くべきかが示されるのではないでしょうか。ヨハネの生涯を通して、私たちも大事なことを学び取っていきましょう。


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