主の道を備えよ

〜ルカ福音書による説教(12)〜
イザヤ書40章3〜5節
ルカ福音書3章15〜20節
2008年1月27日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)主イエスの活動年代

 ルカによる福音書は、この第3章から、新しい部分入ります。
「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、アンナスとカイアファが大祭司であったとき」(1〜2節)
 ルカはもともと、「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので」(1:3)と書いておりましたが、1章5節、2章1〜2節に続いて、ここでも歴史的年代を述べて、明らかな一般の歴史の中に、神のなさった業、特別な福音の歴史を位置づけようとします。この記述は、実は新約聖書の中で、主イエスの活動年代を特定するのに、最も大切な箇所なのです。
 皇帝ティベリウスの即位は、AD14年でありますので、「第15年」ということは、単純に足し算をすると、AD29年になります。大体イエス・キリストの公生涯は、大体AD27〜29年の間に起こったと言われます。ピラトは、AD26年以来、ユダヤとサマリアの総督でありました。ここに記されているヘロデというのは、あのヘロデ大王の息子であります。洗礼者ヨハネが登場したのは、そういう時代であったというのです。まさにルカならではの記述であります。

(2)神のイニシアティブによって

 私たちは、イエス・キリストの福音が語られる前に、その道備えをした人がいたことを忘れてはならないでしょう。それが洗礼者ヨハネであります。
 ヨハネの活動は、「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」(2節)ことから始まりました。神様がイニシアティブをとられる。昔イスラエルの民がエジプトから解放された時も、そうでありました。モーセは及び腰でありましたが、神様がイニシアティブを取って召し出されました。これから語られるイエス・キリストの場合も、最初の一歩は神にあるのです。
 私たちの場合もそうであります。私たちは、このことをよく知る必要があるでしょう。それによって傲慢が打ち砕かれます。またそれと逆に、自分の弱さを実感し、自分の力のなさを知る時、神にこそイニシアティブがあると知ることは、「自分がしなければ、自分がしなければ」という思いから解放され、大きな慰めを与えられ、支えとなるのではないでしょうか。「神様が始められたこと、神様がなさることであれば、必ず実現する。私はそのお手伝いをするのだ」という風に謙虚にさせられると同時に、励まされるのです。
 ヨハネの活動は、「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えることでありました。この洗礼は、悔い改めのしるしであると同時に、救い主(メシア)を迎える準備でもありました。努力して自己中心的考えから離れること、自分のあやまちを素直に認めること、そうした真剣な態度を言い表すことであります。洗礼については、さらにいろんな意味があるのですが、それらについては、次回、改めてお話しいたします。

(3)イザヤの預言の成就

 福音書記者は、そういうヨハネの活動を、預言者イザヤの言葉の成就であるといたしました。これはルカだけではなく、マタイもマルコも同様であります。そのもともとの「イザヤの預言」というのが、本日お読みいただいたイザヤ書40章であります。

「呼びかける声がある。
主のために、荒れ野に道を備え
わたしたちの神のために、
荒れ野に広い道を通せ。
谷はすべて身を起こし、
山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、
狭い道は広い谷となれ。
主の栄光がこうして現れるのを
肉なる者は共に見る。
主の口がこう宣言される。」
(イザヤ40:3〜5)

 これは、紀元前6世紀、バビロンの国に捕らわれの身となっていたイスラエルの民に向かって語られた言葉です。イスラエルの民は、出エジプト以降も、何度も何度も神様に背き続け、自分たちに都合のいい神を造ったり、その偶像を拝んだりいたしました。そこから目を覚まさせるために、神様はバビロン捕囚を用いられたと言ってもいいでしょう。そしてその捕囚の期間がもうすぐ終わるという頃、再び民に向かって何をなすべきかが告げられたのです。
 イスラエルが荒れ野を通って再び祖国へ帰って行く準備。解放の日が近づいたのだから、その準備に取り掛かりなさい、というのです。

(4)「福音派」と「社会派」

 この言葉は、文字通りに帰り道を整えるということの他に、神様の望まれる社会について述べているのでしょう。旧約聖書の預言者たちは、公平で、正義と慈しみに満ちた社会を実現していくことに大きな関心がありました。イザヤ(ここでは第二イザヤ)もそうでありました。ちなみにルカの引用ではこのような言葉になっています。

「主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、
山と丘は低くされる。
曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、
人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」
(4〜6節)

「谷はすべて埋められ、山と丘は低くされる」というのは、「極端な貧しさや、富の集中がなくなり、公平な社会が実現される」ということでしょう。「曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになる」というのは、「不正がなくなり、正義が実現されていく」ということでしょう。つまり不公平がなくなり、正義が実現して初めて、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」というのです。神の救いには、公平と正義の実現が欠かせないということです。
 これは、とても大事なことです。私たちは、しばしばこの二つを全く別の次元のこととして考えていないでしょうか。
 事実、今日のキリスト教世界には、日本キリスト教団も含めて、「福音派」と「社会派」と呼ばれるような、ある種の不幸な分裂と対立があります。大雑把な言い方ですが、「霊の救い」や「キリストを信じれば、救われる」と言うことを強調する人たちは「福音派」と呼ばれます。他方、そういうことよりも、「神様の望まれる公正と正義に基づいた世界を実現する」ということを強調する人たちは「社会派」と呼ばれたりします。しかしこのことは、本来切り離されてはならないものなのです。

(5)「究極のもの」「究極以前のもの」

 ボンヘッファーは、この二つの事柄を「究極のもの」と「究極以前のもの」と呼びました(『現代キリスト教倫理』)。
 「究極のもの」とは、神様と私たちに関すること、「究極以前のもの」とは、この世界に関することだと言うことができようかと思います。ボンヘッファーは、「究極以前のもの」として、人権の問題や、差別や抑圧をなくすというようなことを考えていました。彼が最も緊急の課題として考えていたのは、当時のユダヤ人の人権の問題でありました。「究極のもの」と「究極以前のもの」というのは、別の事柄ですが、深くつながっています。
 ボンヘッファーは、「神の究極の言葉の宣教と共に、究極以前のもののためにも配慮することが、どうしても必要になってくる」(『現代キリスト教倫理』p.124)と言いました。なぜなら、この世界には、「キリストの恵みの到来を妨げる人間の不自由、貧困、無知の深淵が存在する」からです。福音宣教のために、それらを取り除いていかなければならない。彼はその仕事を「道備え」と呼びます。

「(道を備えるという)この課題は、キリスト・イエスが来たり給うことを知っている者すべてに無限の責任を負わせる。飢えている者はパンを、家なき者は住む家を、権利を奪われている者は正当な権利を、孤独な者は交わりを、規律に欠けている者は秩序を、奴隷は自由を必要としている。飢えている者を飢えたままにしておくことは、神と隣人とに対する冒涜である。なぜなら、まさに神は最も深い困窮にある時にこそ、いと近くにおられる方だからである……。飢えている者にパンを与えることは、恵みの到来の道備えである」(同、p.127)。

 つまり「神様なんかいない」としか思えない状況にある人に、「神様は共にいてくださる」ということを伝えようとすれば、それがわかるような状況を作り出していかなければならないということです。

「ここで起こっているのは、究極以前のことである。飢えている者にパンを与えるということは、それだけではなお、彼に対して神の恵みと義認とを宣べ伝えることを意味するものではないし、パンを受けるということは、なお信仰に立つということを意味しはない。しかし、究極のものを知り、究極のもののゆえにこれらのことをなす者にとっては、この究極以前のことは、究極のものとの関わりの中にあるのである」(同、p.128)

 私は、教会が「究極のもの」だけを語り、社会正義の実現や不公平を無くしていくことやあるいは人権というようなことに関心を持たないならば、どこかが間違っていると思います。またそれと逆に、教会が「究極以前のもの」ばかりに熱中して、「究極のもの」を見失うならば、やはりそれも間違っていると思います。
「究極のもの」と「究極以前のもの」、神様のこととこの世界のこと、信仰の問題と人権や正義といった社会の問題、これらの両方をきちんと見据えて、教会の中で位置づけていかなければならないでしょう。
 洗礼者ヨハネという人は、ボンヘッファー流の言葉で言えば、「究極のもののために、究極以前の働きをした人」ということができるのではないでしょうか。福音の道備えをしたのです。彼は、自分の働きの意味とその限界をよくわきまえていました。ですから彼はあとで、「わたしよりも優れた方が来られる」(16節)と語ることができました。

(6)ヨハネの具体的な勧め

 洗礼者ヨハネは、群集に向かってこう言いました。

「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(7〜9節)。

 ユダヤ人たちは、神様は諸国民を一定の基準で裁かれるけれども、自分たちは特別だ、神様の裁きから免れる、と考えていたようです。ヨハネはそうした民族的な特権はナンセンスであると主張したのです。
 「斧が木を切り落とす」というのは、神様の裁きを示す旧約聖書的な表現です(イザヤ書10:33〜34など参照)。神様の裁きは、すぐそこまで迫ってきているということを伝えようとしました。
 ヨハネは、「悔い改め」ということで、具体的に何を語ったのでしょうか。それはとても単純で、わかりやすいことでした。
 「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやりなさい。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(11節)。
 徴税人にはこう言いました。「規定以上のものを取り立てるな」(13節)。
兵士には、こう言いました。「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」(14節)。
 非常に単純で、明快な答えです。

(7)キリストに従いつつ、道備え

 もちろんこのすすめを律法主義的に受けとめるのはよくないでしょう。心からの悔い改めをもって、そうしたことの中に、身を置いていくのです。社会の公平と正義を実現すること、それが神様に立ち帰って行くということであり、救い主到来の道備えをするということなのです。
 これは現代の社会においても同じでありましょう。ボンヘッファーにはボンヘッファーの生きていた背景がありました。ユダヤ人がすべてのものを剥奪されて殺されていく状況の中で、それを無視して福音を語り続けることはできないとして、彼はそこに身を置いていったのであります。
 今日の私たち社会にも、その独自の課題があります。身近なところでもそうした証しをしていかなければならないでしょうし、豊かな日本の社会においても、実は最低限の生きる権利を奪われて生きている人がたくさんいることを忘れてはならないでしょう。地球規模における課題もあるでしょう。そうした中、究極の言葉である福音が語られるために、その道備えの働きをすることが、私たちにも求められているのではないでしょうか。
 洗礼者ヨハネは、イエス・キリストに先立って働きましたが、私たちはイエス・キリストの歩まれた道の上を、イエス・キリストのあとに従って歩んでおります。
 しかし同時に、イエス・キリストが再び、この世界に帰ってこられて、神の国を完成されるという、終わりの日を待ち望んで生きています。その道備えをする責任があり、その使命が与えられているのではないでしょうか。
 つまり私たちは、洗礼者ヨハネよりも幸いなことに、イエス・キリストのあとに続きながら、再び来られる備えをするのです。前からも後ろからも、イエス・キリストにサンドイッチされるようにして、その業に就くことができる。そのような働きを、私たちも、私たちの教会もなしていきましょう。


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