どんな時にも

〜フィリピ書による説教(11)〜
エレミヤ書32章17〜19節
フィリピの信徒への手紙4章10〜23節
2008年7月13日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)贈り物への感謝

 これまで10回にわたってフィリピの信徒への手紙を読んできましたが、今日はいよいよ最後の部分であります。
 新共同訳聖書では、このところに「贈り物への感謝」という題が付けられていますが、パウロのこの手紙の本来的な目的はまさにそれを述べることにあったと言えようかと思います。18節に、「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています」とありますが、これは、当時の領収書に一般的に用いられていた表現で、「領収書をお渡しします。確かに全額受領しました」という意味だそうです。ですからそれに続けて、「そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています」という風に丁寧に感謝の気持ちを述べているのでしょう。
 それにしても、どうしてこの大事なことを最後に追伸のように、書き記したのでしょうか。実は、それを受け取ってすぐに「受け取りました」というお礼状を出したのだけれども、それでは十分ではなかったかも知れないという思いから、それを補う意味で、感謝の言葉を改めて記したという説もあります。それもありえますが、私は、恐らく信仰的な配慮から、お金のことについていきなり触れることを避けて、手紙の最後に書いたのではないかと思います。
 贈り物、とりわけお金に関することはなかなかデリケートです。贈り物というのは、本来、感謝の気持ち、あるいは慈善の気持ちでなされるものでありましょうが、その相手が自分の立場、利権を左右するような存在である場合には、そこにいろんな思惑が入ってきます。それは非常に今日的な問題ですが、この当時にも贈り物をして取り入るということがあったことでしょう。
 パウロの場合には、この時牢屋に捕らえられているのですから、フィリピの人にとって、そういう利権に絡むようなことはなかったでありましょう。しかしそれでもお金を贈る、モノを贈るというのはデリケートです。贈る側と受け取る側にどうしても心理的な上下関係や貸し借りの関係ができてしまう。今日の教会の場合もそうでしょう。お金があって援助する教会とお金がなくて援助を受ける教会が、上下関係のようになってしまうことがあります。

(2)神にささげ、神から受け取る

 しかしパウロのフィリピの人たちに対する姿勢は、決して卑屈ではありません。堂々としているところがあります。どうしてでしょうか。それはその両者の間に神様が介在していることを知っているからです。贈る側は相手の必要性を十分に理解しつつも、それを神様の必要性と理解し、神様への感謝と献身のしるしとしてささげるのです。
 献金というのもそうです。献金とは一体、どういうものか。どういう思いで献金をするのか。ささげられた物をどういう思いで受けるのか、あるいは用いるのか。
 ブラジルに住んでいた頃は、週に何回か必ず、「何か恵んでください」という人が訪ねて来ました。それでパンや衣類をあげると、「ありがとうございます」と言う人ももちろんいますが、言わない人もいます。何か堂々としている。そして「神様が支払ってくださるでしょう」というのです。「神様の祝福がありますように」と言ってくれますと、こっちが「ありがとうございます」と言うのです。おもしろいですね。

(3)主において喜びました

 「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう」(10節)。
 この言葉からして一般的なお礼状とは違います。直接感謝するのではなく、「主において喜びました」というのです。
 今までも思いはあってもそれができなかったということには、いろんな事情が考えられます。当時は銀行振り込みなどありませんので、誰か信頼できる人に託さなければならない。やっとエパフロディトを派遣することが決まったということもあるかも知れません。何よりもフィリピの人たち自身、自分たちの生活が大変で、やっとある程度の献金ができる生活状況になったということもあるでしょう。教会内の意見をまとめるのに時間がかかったということもあるかも知れません。さまざまな事情を乗り越えて、やっとそれが実現した。それを共に神様に感謝したいということです。
 これを読むと、心理的に上に立っている人であれば、「何と厚かましい」と思うかも知れませんし、パウロに「申し訳ない」という思いをもっている人であれば、叱られたように受け止めるかも知れません。裏を読もうとして「もっと要求しているのか」と思う人もあるかも知れません。そこでパウロは続けて、誤解のないようにという思いで、「物欲しさにこう言っているのではありません」(11節)と付け加えます。
 もちろんパウロは感謝の言葉を述べるのも忘れてはいません。フィリピの教会の人は、パウロの最初の宣教の時から、精神面、祈りの面だけではなく、物質面、資金面でもパウロの宣教を支えてきたのでした。

 「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした」(15節)。

 フィリピの教会だけが資金面、物質面でも支えてくれたということです。最初だけではなく、その後もそうでした。
 「またテサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました」(16節)。パウロの宣教活動は、まさにフィリピの教会の人たちの支え無しには実現しませんでした。しかしここまで感謝の言葉を書くと、もっと期待しているのかなと誤解されるかも知れないと思ったのでしょうか。17節でも11節同様、「贈り物を当てにして言うわけではありません」と言うのです。こういう言葉と言うのは、言えば言うほど、「いや、本当はあてにしているのかな」なんて勘ぐってしまうものですが、ここでは言葉どおりに受け止めておきましょう。
 私も教会に外部の方から献金をいただいた場合に、領収書にひと言、書き加えるのですが、何気なく「今後ともどうぞよろしく」なんて書いてしまって、あとで「まずかったかな」と思うことがあります。それであわてて、「特に深い意味はありません」なんて書き加えると、余計にまずくなって、結局、領収書を作り直していただくということもあります。

(4)必要なものは神が満たしてくださる

 パウロは、先ほどの「そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています」という言葉に続けて、「それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」(18節)と書きました。もちろん生活の必要を満たしてくれるものではあるのだけれども、第一義的には神への献げ物として受けとめている。旧約聖書の「献げ物」は焼き尽くす献げ物などですから、匂い、香りが出ます。神様はその香りをかいで満足してくださるということでした。
 ですから献金もそれは神様へのいけにえの献げ物として、その香りをかいで神様が喜んでくださるということなのです。そして神様は、その献げ物を、御自分の働きのために用いられる。パウロは伝道者として生涯をささげてきた人ですから、そのためには必要なものを神様が備えてくださると確信していました。ですから、彼はフィリピの人たちから生活費を受け取りながら、それを第一義的には神様に感謝をするのです。献げる方も神様に献げる。だからパウロはこういうのです。
 「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」(19節)。これはパウロ自身の経験と信仰に基づいた言葉であり、同時に他の人に対する励ましでもあります。

(5)どんな境遇にも適応できる

 パウロは、少し前のところで、こう言っていました。
「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています」(11〜12節)。
 これはすごい言葉ではないでしょうか。自分の全生活を神様に委ね切っている。パウロは実際に飢えと窮乏の生活を強いられたことが何度もありました。経済的危機だけではなく、迫害を受けて殺されそうになったこともありました。この時も獄中にあるわけですから、恐らくそれに近いものであったでしょう。逆にお金があれば、どうすればよいかも心得ていました。
 私たちの場合はいかがでしょうか。どちらかの場合は知っているかも知れません。しかしそれは、そのすべを心得ていることとは別であると思います。
 どうやったら貧しい中を生活できるかというのは、実際的に飢えをしのぐ道ということよりも(それもあると思いますが)、どうやったら貧乏であっても誇りを失わないで生きることができるかということではないかと思うのです。
 また豊かに暮らすすべというのは、いろんな遊び方、ぜいたくの仕方というようなことではなくて、どうやったら傲慢にならずに、その財産を神様の喜ばれる形で用いるすべを知っていると言うことではないでしょうか。
 私たちは、貧しくあっても豊かであっても、お金に一喜一憂するものです。いつのまにかその僕になってしまう。そうなりたくないから一生懸命お金を貯めるわけですが、貯めれば貯めるほど、それなしには生きられない人間になっていくことに気付かされます。そこから自由になるためには、それを超えたところで、しっかりとした主人を、自分の生活の中に持たなければなりません。主イエスも「あなたがたは神と富とに(兼ね)仕えることはできない」(マタイ6:24)と言われました。
 「満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」(12節)と続けます。どんな状況においても、その境遇から自由だ。それは、この前の言葉で言えば、「私たちの本国は天にある」(フィリピ3:20)ということです。この地上に自分の生きるよりどころを置いていない。だから自由なのです。イエス・キリストご自身も、この地上にありながら、天に属する者として生きられました。それであるがゆえに、「人の子には枕する所もない(ホームレスだ)」(マタイ8:20)と言いながら、逆に嵐の船の中で弟子たちが脅えている間にも、ひとり安眠しておられました(マタイ8:24)。この矛盾に見えるような姿の中にこそ、私たちがクリスチャンとして生きる姿があるのではないでしょうか。

(6)神によれば、すべてが可能

 パウロはそこで「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(13節)と言いました。これは力強いパウロの信仰告白であり、聖書全体を貫いて響いている言葉です。
 サラがみごもると告げられた時、主はこういう風に言われました。「なぜ年をとった自分に子どもが生まれるはずはないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか」(創世記18:13〜14)。
 先ほど読んでいただいたエレミヤ書にも、「あなたの御力の及ばないことは何ひとつありません」(エレミヤ32:17)というエレミヤの祈りがありました。
 マリアがみごもったことを告げられて、とまどっていた時に、天使ガブリエルは、エリサベトの例をとって、「不妊の女と言われていたのに、もう6ヶ月になっている。神にできないことは何一つない」(ルカ1:36〜37)と告げられました。
 あるいは、あの金持ちの青年が主イエスに従って行くことができずに、去っていくのを見ながら、弟子たちが「それでは、誰が救われるのだろうか」と言った時に、イエス・キリストは、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19:26)と言われました。
 これが聖書を貫いて、私たちに語りかけられている宣言であります。パウロは、これを自分の事柄として、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と言ったのです。パウロのフィリピの信徒への手紙の結論のような言葉ではないでしょうか。

(7)頌栄と挨拶

 パウロは神様へ栄光を帰し、フィリピの人たちにあいさつの言葉を加えて、この手紙を終えます。「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン」(20節)。
 最後の2節は、恐らくこのところだけ、パウロが自筆で書いたのであろうと言われます(これまでのところは、口述筆記)。

「キリスト・イエスに結ばれているすべての者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです」(21〜22節)。

 「皇帝の家の人」というのは皇帝の家族ということではなく、「皇帝の家で働いている人たち」です。その中の何人かは、フィリピから来た人たちであったと思われます。
 そして「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」(23節)という祝福の言葉でもって、この手紙を終えました。その祝福は、これを読んでいる私たちにも告げられていると言えるでしょう。私たちも、パウロのようにどんな時にも全能の神が共におられることを信じ、喜びを保ちつつ、どんな境遇にあってもそれにふさわしく生きる生き方をしたいと思います。


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