広い心をもつ

〜フィリピ書による説教(10)〜
創世記39章16〜23節
フィリピの信徒への手紙4章1〜9節
2008年5月18日
経堂緑岡教会   牧師 松本 敏之


(1)「主によって」しっかり立つ

 フィリピの信徒への手紙も、いよいよ終わり近くなってきました。
「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」(1節)。
 これはパウロがこれまで述べてきたことの結びの言葉です。パウロのフィリピの教会の人々に対する愛情と誇りがよく表れていると思います。「慕っている」という言葉は、「恋い慕う」というような意味あいの言葉です。彼が種をまき、育てた教会の中でも特別な思い入れがあったのでしょう。
 「冠」というのは、飾りの中でも最も輝かしいものです。フィリピの教会とて、問題がなかったわけではありません。事実、この直後の言葉からすれば、二人の女性の間に何らかの問題が起きていたようです。それでもパウロは、フィリピの教会の人々は、自分の喜びであり、冠であるというのです。パウロの伝道者としてのあり方をよく示していると思います。伝道者にとって、自分が育ててきた人は冠であり、喜びであります。私もこの言葉を読みながら、改めて、私にとっては皆さんが冠であり、喜びであると思いました。
 パウロが結論のようにして語ったことは、「主によってしっかりと立ちなさい」ということでありました。「主によって」ということが大切です。パウロが「主」という時は、イエス・キリストのことです。
 私たちは「しっかりしなさい」と言われても、しっかりできないものではないでしょうか。しっかりしたくてもできないから悩むのであり、おろおろするのです。その時なすべきことは、「がんばらなきゃ」ということよりも、イエス・キリストを思い起こすことでしょう。そしてその主イエス・キリストにつながることです。私たちがしっかりできない時にも、イエス・キリストにつながることによって、それが可能になるのです。
 主イエスがガリラヤ湖で、弟子たちを船出させた時のこと、航海中に嵐がやってきました。主イエスが向こうから湖の上を歩いて近づいてこられます(マタイ14:22〜33)。弟子たちは「幽霊だ」と叫んでおろおろします。そこでイエス・キリストは「安心しなさい。わたしだ」と言われました。「わたしだ」というのは、「私が共にいる」ということです。イエス・キリストが近くにおられる(フィリピ4:5参照)ということが、「安心しなさい」ということの根拠であり、「しっかりしなさい」ということの支えです。
 主イエスだと知ったペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(マタイ14:28)と言いました。主イエスが「来なさい」と言われると、ペトロを歩き始めます。はじめのうちはうまく行くのですが、主イエスから目をそらし、強い風に気を取られると、沈みかけてしまいます。私たちが、自分で「しっかりしなきゃ」と思ってがんばっている姿は、これと似ているかも知れません。「主によって」しっかりと立つのです。主イエスから眼を離さない。しかしそのようにペトロがおぼれそうになった時にも、主イエスはさっと手を差し伸べて捕まえ、助けてくださいました。

(2)和解のすすめ

 「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」(2節)。
 このエボディア、シンティケというのは共に女性の名前です。どうもこの二人は教会の中で敵対関係にあったようです。しかもそれは恋のライバルとか、家族騒動とかいうような個人的な争い、いがみあいではなかった。教会の中の問題をめぐって対立している。それぞれに真剣なのです。これは今日の教会でもありそうな話です。
 教会の中で何かしらの対立が起きると、私たちはやはり、「主において同じ思いを抱く」という原点に立ちかえることが大事でしょう。対立していると、共に祈ることすら難しいものです。なかなか相手を受け入れることができません。私たちは、祈りにおいてすら自分を絶対化し、それまで相手の過ちを見過ごしにしてきたことを「悔い改め」、自分が絶対に譲歩しない決意を新たにするのです。教団、教区レベルでもそういうことがあるのですから、各個教会でも、あって当然かも知れません。
 イエス・キリストは、こんなことを言っておられます。

「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物をしなさい」(マタイ5:23〜24)。

 もちろんささげものも大事です。しかし人といがみあったまま、ささげものをしても、神様は喜ばれません、ということです。しかも自分が反感をもっているかどうかではなく、「誰か(兄弟)が自分に反感をもっているのを思い出したなら」というのです。これはきついですね。私は自分がかっとなることはあまりありませんが、それで余計、人を怒らせてしまうことがあります。それもダメだというのです。
 フィリピの教会においてもそういうことがあったのでしょう。わざわざ二人の婦人の名前を掲げて、パウロは和解を勧めます。「主において、同じ思いを抱きなさい。」「私たちは同じ方向を向いて、同じ目的のためにここにいるのだ。その目的とはイエス様の宣教だ。」そこへ立ち帰るのです。

(3)「真実の協力者」への頼み

 それでもこの二人の婦人の間では解決しそうにない、ということを見越しているのでしょうか。パウロはこう続けます。
 「なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください」(3節)。「真実の協力者」とは、パウロが働いていた時代にはいなかった、現在の教会のリーダーでしょう。二人だけでは解決できなくなった時に、パウロは信頼する人に仲介を頼んだのでした。
 「二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」(3節)。
 この訳では、命の書に名を記されているのは「クレメンスや他の協力者たち」となりそうですが、これは「この二人も、福音のためにわたしと共に戦い、クレメンスや他の協力者たちと共に命の書に名が記された人たちです」とも訳せます。「彼女たちも洗礼を受け、教会員名簿に名前を連ねています」ということになるでしょうか。

(4)広い心を示す

 ここからまた次の話に移っていきます。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」(4〜7節)。
 これは独立した言葉としても有名です。直接、私たちの心に響いてきます。これを愛唱聖句にしておられる方もあるでしょう。フィリピの信徒への手紙のキーワードである「喜びなさい」という言葉がここで再び現れ、しかも「重ねて言います。喜びなさい」と、ややくどいと思われる程に繰り返します。
 パウロは、それに加えて、「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」と言いました。イエス・キリストと共にいる時に、私たちは広い心、広やかな心が与えられます。人に対してもその広い心をもって接しなさいというのです。その根拠は、「主はすぐ近くにおられます」ということです。
 私たちは、カリカリしたり、絶望したりすると、つい主イエスがすぐそばにおられるということを忘れがちです。気がつかないところで、あるいは自分のすぐ背中のところで、支えていてくださることを思い起こしたいと思うのです。

(5)エジプトのヨセフ

 「広い心」ということで、私は旧約聖書、創世記に登場するヨセフのことを思い起こしました。ヨセフという名前は、「主は増し加えられる」という意味をもっていますが、彼の名前は、「寛容さ」(generosity)ということと共に語られる名前です。ヨセフは、非常に苦労をした人です。彼はヤコブの12人兄弟の下から2番目の子どもでありましたが、他の兄弟の嫉妬を買い、ある日エジプトへ行く商人に奴隷として売られてしまいます。エジプトではポティファルという人の家で働くことになります。だんだんと信用を得て、やがてその家のことをすべて任せられるようになりました。そのポティファル家での話が、今日お読みいただいた創世記39章であります。この39章を最初から読んでみますと、「主がヨセフと共におられたので」という言葉が4回も出てきます。「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ」(2節。3、21、23節も参照)。
 この「主が共におられる」というのは、実際には何を意味したのでしょうか。
 「ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた」(6節)とあります。美男子で体つきも魅力的。今の言葉で言えば、イケメンです。これが祝福のしるしであるように見えます。しかし彼にとっては、むしろこの魅力ゆえに、ポティファルの妻に追いかけられ、それを振り払うと、逆恨みされて、陥れられるのです。私たちは美人、美男子をうらやましいと思うかも知れませんが、ヨセフのように、それが必ずしも幸福に導くとは限りません。美人であるがゆえに、悪い男にだまされて身を持ち崩してしまうということもあるかも知れません。「主がヨセフと共におられた」しるしは、そのことではありませんでした。
  ヨセフのたどった道を見てみますと、神様はあたかも、だんだんとヨセフを見放したかに見える道のりでありました。祖国から引き離され、奴隷の身分に落ちぶれ、そしてこの39章の終わりでは、今や牢屋に閉じ込められようとしている。しかしまさに神様がヨセフを見放してしまったとしか思えないような状況こそ、「主がヨセフと共におられる」場所でありました。
 艱難、災難、ショック、欠乏、それは神様が私たちと共におられない、ということのしるしではありません。神様は愛する人に試練を与えます。それを乗り越えさせて、御心に適う器へと育てていかれます。この時も、牢獄でさえも誘惑から守られる場所として用い、そしてそのような場所においてさえも、主が共におられる場所であることをヨセフに確信させられたのでした。
 その後、ヨセフは不思議な夢解きの才能からエジプトの王様に見出され、用いられて、エジプトの宰相になっていきます。そこでまた不思議な導きにより、お兄さんと再会を果たし、そして父親を含む家族がエジプトへ逃れ出るという、大きな神様の計画の大事な器として用いられるのです。そうしたすべてのことを通して、私たちは、「主がヨセフと共におられた」ということを知るのです。ヨセフはその中で信仰を育てられ、鍛えられ、練られた品性(練達)が形作られていきました。ヨセフは、まさに、「主がすぐ近くにおられる」ことを信じ、その「広い心がすべての人に知られるように」生きた人でした。

(6)思い煩うな

 その後、パウロはこう語ります。
「どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(6節)。
 「思い煩うのはやめなさい」と言われても、そう簡単にはいきません。ですからこれも「主において思い煩うのはやめなさい」と読むべきでありましょう。主イエスご自身が「明日のことを思い悩むな。明日は明日自身が思い悩むな」(マタイ6:34)「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(同33節)と言われました。
 また私たちは神様の前においてまで、自分を取り繕う必要はないと思います。本当に欲しいもの、本当に求めているもの。わがままと思われるかも知れないということでもいいと思います。それを正直に神様に打ち明けたらいいと思うのです。パウロはこう続けます。
 「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(7節)。
 ここでも、「キリスト・イエスによって」という言葉を添えます。私たちが悟りの境地に入るというのではありません。イエス・キリストが私たちを守ってくれる。そのようにして人知を超える神の平和が与えられる、という風に告げるのです。

(7)八つの徳目

 8節には、徳目が六つ並べられて、その後、さらに二つ付け加えられています。
 「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なこと、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」(8節)。
 これらは当時一般的にも掲げられていた徳目ですので、一つ一つにどういう意味があるかということは語る必要はないと思います。私たちが求めている、すばらしい品性でありましょう。
 「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」(9節)。
 パウロがそう言っているだけではなく、主イエス御自身もそういう風に、私たちにいつも平和の根拠を、言葉を変えつつ示してくださったのではないでしょうか。今日の説教題は、「広い心をもつ」としましたが、直接そうしようと思ってできるものでもないかも知れません。主イエスにつながり、主にあって和解する。それが広い心をもつ秘訣ではないでしょうか。


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