天国市民として生きる

〜フィリピ書による説教(9)〜
列王記下2章8〜14節
フィリピの信徒への手紙3章17〜21節
2008年5月4日    牧師  松本 敏之


(1)キリストの昇天

 教会の暦によれば、先週の木曜日、5月1日が、キリストの昇天日でありました。昇天日というのは、イースターの40日後、と定められております。それは、イエス・キリストが復活後、さらに40日間地上に留まられて、その後、天に昇られたということに基づいています(使徒1:3)。
またその情景が、具体的にこのように記されています。
 「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」(使徒1:9〜10)。
 ところで、天とは一体どこにあるのでしょうか。聖書が書かれた当時の人々の世界観では、天は文字通りに空の上にあると考えられていました。空の上は、確かにこちらからは、到達できない世界でありました。
 しかし現代のわれわれは、空の上に天はないことを知っています。いくらロケットを飛ばして、地球の外へ出てみても、天に到達するわけではありません。それでは、天は古代の人々の空想の世界のことなのでしょうか。「天にまします我らの父よ」と祈ること自体がこの世界構造を見誤った、時代錯誤的なことなのでしょうか。
 私はそうではないと思います。天とは、神様のおられる場所です。それは目には見えない。私たちの物理的な空間には、どこにも存在しない。その意味では、宇宙の果てですら、天ではなく、地に属する世界です。
 創世記が、冒頭で「初めに、神は天地を創造された」というのは、それは単に空の上まで造られたということだけを言っているのではないでしょう。
 天がはるかなるあこがれの世界であることは、昔の人にとっても、今の私たちにとっても同じであります。そこでは、主イエス・キリストが父なる神の右に坐しておられるのです(使徒信条)。
 キリストの昇天と言う出来事は、イエス・キリストがその世界、天へ帰っていかれたということを、昔の人の表現でもって言い表しているのです。

(2)天の国籍

 さて、私たちはフィリピの信徒への手紙を続けて読んでいますが、今日、読んでいただいたところにこういう言葉があります。
 「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから、主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(20節)。
 すばらしい言葉、パウロの高らかな宣言です。前の口語訳聖書では、最初の部分はこうなっていました。「しかし、わたしたちの国籍は天にある」。これもなかなか印象深い言葉でありました。
 クリスチャンになるということは、天国に国籍を得るということだとお考えいただければいいでしょうか。イエス・キリストは天から来られたお方です。この地上で30年間、お暮らしになり、再び天へと帰っていかれました。しかし、このお方によって、あちらの世界とこちらの世界、天上世界と地上世界、彼岸と此岸が結びついた。道がついた。そのお方によって、私たちは天国の国籍、あるいは市民権を得ることができるようになったのです。ただし、それは、どうも地上での国籍との二重国籍というわけにはいかないようです。地上にいながら、天国の国籍に切り替えたということ、天国世界へ帰化したということではないでしょうか。

(3)二重国籍か、国籍変更か

 話は少し逸れますが、日本の政府は、二重国籍というのを認めないようですね。「二十歳を過ぎたら、どちらかを選びなさい」と言います。私の息子はブラジル生まれでありますので、国籍を二つ持っています。しかしながら、あの「二十歳を過ぎたらどちらかを選べ」というのは、どうも国のご都合主義の国策であるように思います。倫理的・道徳的な問題ではない。ブラジル政府はそんなこと言いません。ですから日本の政府に向かって、「日本の国籍を選びます」と言っておけば、ブラジルの国籍は捨てなくてすみます。
 考えてみますと、ペルーの元大統領であったフジモリ氏を日本政府がかばってペルー政府に引き渡さなかったことがありましたが、そのことの根拠は、彼が日本の国籍をもっているということでありましたから、「何だ。二重国籍でもいいのか。時代によって違うだけのことなのか」と思いました。
 それはそれといたしまして、フィリピ書の話に戻しますと、このフィリピ書のケースというのは、日本の政府の話に似ていると思います。つまり、天国での国籍を得たら、地上での国籍はなくなる。「なくなる」というと言い過ぎのようにも思えますが、どちらかを選ばなくてはならない。地上では、滞在ビザをもつ外国人のようにして生きる、ということです。「はい、今日は地上の国籍。はい、今日は天の国籍」というように器用に使い分けるわけにいかない。天国市民のパスポートを持ちながら、地上では滞在ビザで生きるというのが、クリスチャンの生き様ではないかと、思うのです。
 もちろん、この地上で生活をする限り、地上のその国の法律を守り、そのルールに従って生きるのです。それは日本に生きる外国人でも同じことです。日本に住む限り、日本の法律を守り、日本の社会のルールを守って生きなければなりません。
 要は、自分が生きている究極の根拠は、どこにあるのか。自分のアイデンティティーはどちらにあるのか、ということです。それを地上に置くのか、天に置くのか。
 クリスチャンになるということは、これまでは地上のものに根拠を置いていたけれども、これからは天に根拠を置いて生きるようになる、ということなのです。イエス・キリストは、ある時こう言われました。
 「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」(ヨハネ8:23)。
イエス・キリストは天に属するお方として、この世に来られた。ですから、この世の中では、「人の子には枕する所もない」(マタイ8:20)とおっしゃったように、いわば寄留者としてこの世界に生きられた。ずっと天国の国籍を持ち続けられた。あちらに属するお方として生き切った。私たちは、そのお方と出会って、そういうイエス様とつながることによって、私たちも、この世に属するのではなくて、天に属するものとされるのだ、ということが、イエス・キリストに従うものになるということではないでしょうか。

(4)パウロの復活理解

 パウロは、続けてこのように語りました。「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(20節b)。
「わたしたちの本国は天にある」というのが空間的表現であるとすれば、こちらは時間的な表現です。いつかそういう日が来る。クリスチャンにとって、終わりの日と言うのは救いの完成の日、喜びの日であります。ここには、パウロのキリスト理解が示されています。
 「キリストは万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光の体と同じ形に変えてくださるのです」(21節)。
 わたしたちの目には、この世界が悪魔の支配下にあるように見えることも多々あります。しかしそれはいっとき何かの理由でそのようにさせておられるのであって、かの日にはイエス・キリストがすべてを明らかにしてくださるのだと思います。
 また私たちはそれぞれ自分の肉体をもっています。復活すると言われても、その時はこの体はどうなるのか。科学と矛盾するのではないか。それは誰しも考えることでありましょう。私も気にはなります。そしてよくわかりません。「復活と言われたって、この体はどうなるの。」しかし、現代の私たちだけではなく、当時の人々も同じ疑問を持っていたのです。パウロはこの箇所とよく似たことを、第一コリント15章で、もっと詳しく展開しています。
  「しかし、死者はどんな風に復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかも知れません」(一コリント15:35)。
 それに対してパウロは、「愚かな人だ」と言い切ります。そして「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか」と始めて、延々と説明します。ただしそこで書いていることをよく読めば、結局、言っていることは、「そんなのわかるわけないだろう」ということなのです。突き放したようですが、私はなるほどと思います。非常に面白い。
 なぜなら、わたしたちの想像をはるかに超えた世界だから、私たちが今もっている概念や語彙でとても説明することはできないからです。それはそうであろうと思います。どういう風になるのか。それは、神様が最もよいと思われる形で、象徴的な言い方で、今は朽ちる体だけれども、栄光の体に変えてくださる。私たちはここで、その約束への信仰に踏みとどまらざるを得ませんし、それで十分ともいえるのではないでしょうか。

(5)律法主義者か、快楽主義者か

 パウロは、この「わたしたちの本国は天にある」という宣言を告げる前に、それと対照的な人々のことを語っています。

「何度も言ってきましたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」(19節)。

 「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」とは一体実際にどういう人のことなのか。実は、全く逆に見える二つの解釈があるのです。
 一つは、パウロがすでに3章2節のところで言ってきた、いわゆる律法主義者です。律法を守ることによって、自分の救いを達成しようとするような人たちを指している。
 もう一つは、この世のものに究極の価値観を置く、いわゆる快楽主義者です。もうあの世のことは考えないで、この世を楽しんで生きよう、という人たちです。
 しかし考えてみれば、この二つは逆のようで、ある共通点があります。それは、どちらもこの世で完結しているということです。この世の事柄に最終的に価値観を置いているということです。自分で守るべきものを守り、ストイックに生きることによって、自分を高めようとするか、あるいは逆に、この世を十分に楽しめばいいんだ、ということになるか。どちらも天を見上げてはいないのです。
 「彼らの行き着くところは滅びです」というのは、裁きを告げるというよりは、「そのような生き方をしていますと、滅びざるを得ませんよ」ということではないでしょうか。天を見上げていないからです。

(6)パウロの何に倣うのか

 パウロは「兄弟たち、わたしに倣う者となりなさい」(17節)と言いました。パウロの一体何を学ぶのでしょうか。パウロはすでにゴールに到達して、「早くここまでおいで」と言っているのでしょうか。そうではありません。パウロ自身が、「わたしがすでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません」(12節)と言っていました。
 私たちは、どこまで到達するかということよりも、どのように生きるか、どちらを向いて生きているかということをパウロに倣うのです(13〜14節参照)。

(7)天にあげられた預言者エリヤ

 「天に昇る」ということで思い起こすのは、旧約の預言者エリヤの最期であります。彼は死ぬことなく、生きたまま天にあげられたと言われます。そのことを記している列王記下の2章は、「主が嵐を起こしてエリヤを天にあげられたときのことである」と始まります。エリヤは、何度も弟子のエリシャを去らせようとするのですが、エリシャは、「いいえ、あなたを離れません」と言ってついてきます。エリヤの終わりの日が近いことを知っていたのです。
 ギルガル、ベテル、エリコを経て、いよいよヨルダン川へ到着しました。エリヤは自分の外套を脱ぐと、それを丸めて、ぴしゃりと水を打つのです。そうするとかつてモーセがして見せたように、水が左右に分かれました。二人は、その間の乾いたところを通って、川を渡るのです。
 二人は、これから別れの時がやってくるということを暗黙のうちに了解しています。エリヤの方から切り出しました。「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい」(列王記下2:9)。エリシャは、全く遠慮なく、「あなたの霊の二つ分をわたしに受け継がせてください」と言うのです。
 エリヤは、「あなたは難しい願いをする」と言いながら、それを神さまに委ねました。エリヤが天に昇って行く時、エリヤの外套が天から落ちてきます。エリシャがそれを拾って、それで水を打つと、水は左右に分かれました。エリシャは、エリヤの霊を引き継ぐことができたのです。
 さて私たちはいかがでしょうか。イエス・キリストは天にあげられました。私たちの中にもエリシャのように、「イエス・キリストの霊の二つ分をください」と願う人があるかも知れません。それもいいでしょう。それに答えられるかどうかは神様の御手に委ねられています。しかし神様はペンテコステという形で、その霊を私たちのところへ送ってくださったのではないでしょうか。私たちは、イエス・キリストの霊を、この地上で生きながら受け継ぐことによって、天国市民として生き、終わりの日を待ち望みながら生きることが許されるのであります。


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