目標を目指して

〜フィリピ書による説教(8)〜
エゼキエル書18章30〜32節
フィリピの信徒への手紙3章9b〜16節
2008年4月13日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)試験、競争に囲まれた社会

 4月は、年度の初めにあって入学・就職のシーズンです。多くの方々が、この春、新しい学校へと進み、また新しい職場で仕事を得たり、転勤になったりされたことと思います。また同じ職場内でも部署の異動があったり、学生さんは一つ学年が進み、クラスの顔ぶれも変わったり、担任の先生が変わったりしたのではないでしょうか。
 そうした節目、節目には、しばしば試験があります。私たちはさまざまな試験に取り囲まれて生きています。中学入試、高校入試、大学入試、あるいは大学院、留学、そうした学校関係の試験から解放されても、就職試験、国家試験、司法試験、さまざまな資格の試験と続きます。それぞれに目標を定めて目標を目指してがんばっております。それはそれで意味のあることでしょうが、私たちは試験によって、しばしば人と比較され、競争に巻き込まれます。
 どちらが大きいか。どちらが優れているか。能力をはかる。人間のあり方、人生のあり方というのは、さまざまでありますが、試験や競争で人の優劣まで測りがちです。もちろん私たちはこの世界には、そうした競争では測れないものがあることは知っています。しかしそれでは「一体、どうしてそう言えるのか」と問われてもなかなか答えられない。どうしてもこの世の価値観の中で生き、私たちの全思考も、いつしかそこへ舞い戻ってしまう。「やっぱりこの世は競争ね。負け組にならず、勝ち組に入るために戦わなければならない。」ということで躍起になる。そうした中、「大事なことはそういうことではない」ということを根拠付けて教えてくれるのが聖書であり、そうしたこの世の価値観から解放してくれるのが聖書の福音であると思います。

(2)パウロも競争好きか?

 もっともパウロも競争ということを意識した人でした。今日のところでは、こう語っています。
 「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスにおいてお与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(13〜14節)。
 なんだ、信仰生活もやっぱり競争なのか。そういう風に、これを読まれる方もあるかも知れません。確かに彼自身、この世の基準で言えば、エリート中のエリート、他の人がうらやむようなたくさんのものを持っておりました。彼が努力して身につけたものもありました。しかしよく読むと、パウロの言おうとしていることは、この世の競争とはちょっと違うということがわかってくるのではないでしょうか。何よりもパウロはすでにゴールにいるところから語っているわけではありません。
 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです」(12節a)。そして、不思議な、そして大事な言葉を付け加えます。「自分がキリストに捕らえられているからです」(12節b)。
 「それを得たというわけではなく」の「それ」とは何でしょうか。恐らくその直前に書いてあることでしょう。

(3)パウロの目指すところ、「義」

 「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリスト・イエスへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(9節b〜11節)。

 「義」というのは、なかなかわかりにくい概念です。もっとわかりやすい日本語がないものかと思いますが、それにぴったり来る言葉がない。それは日本語だけではなく、英語でもドイツ語でもそうです。広く深い意味をもった言葉です。ですから、かえって分かりやすい言葉に置き換えてしまうよりも、「義」という言葉を使いながら、それをどういう含みをもった言葉であるかを考えていく方がいいかも知れません。
 それでもあえて言い換えるならば、「正しさ」とか「本来あるべき正しい関係」ということになるでしょうか。そこから「神との関係が回復すること」「神に正しいと認められること」と言ってもいいかも知れません。「救い」という意味あいもあります。「何とかして救いに達したい」ということです。パウロは、それはこちら側の努力では得られないことを悟ったのです。
 しかしパウロが悟ったことは、人間はいくら努力しても結局救いに到達することはできない、という否定的なことだけではありませんでした。完全に自分自身に頼ることをやめた時に、神の力が働き始める。そのことに触れたのです。自分が完全に滅んでしまう時、古き自分に死に時に、新しい命に与ることができることを悟ったのです。
 カルヴァンという人は面白いことを言っています。「私がもしも滅んでしまっていなければ、私は滅んでしまっていたであろう」。何だか禅問答のようですが、反対に言えば、「私はそこで滅んでしまったから、滅びずに済んだ」という信仰の告白です。
 そこで働き始める神様の力のことを、パウロはまた、同じ「義」という言葉で考える。もともと人間の正しさ、神の前に正しいことを行なって正しいと認めてもらうことであった「義」というのが、別のところから光が差してくるのです。それを「神の義」と言いました。人間の正しい行為ではない。「神の救いの行為」です。それを「義」と呼んだのです。
 普通に考える正しさではない。自分の方から神様との関係を取り繕う道ではない。神様の方から、信仰に基づいて、神様から与えられる義がある。そのことに、はっとパウロは気付いたのであります。

(4)信じたいと思うなら十分

 これは、どんなに人間の方が不完全であっても、神に受け入れられる道があるというパウロの大発見でありました。
 でもこれは不思議な悟りです。「自分はもうわかった」と思ったとたんにわからなくなってしまう。「自分は真理をつかんだ」と思ったとたんに自分の手からするりと抜け落ちてしまうような事柄なのです。
 だからパウロは、「わたしは既にそれを得たというわけではない」(12節)と言い、念のためにもう一度繰り返します。「兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません」(13節)。確実なこと、そして大事なことは、「自分がキリスト・イエスによって捕らえられている」ということであります。だから絶えず進行形なのです。「あやかりながら」「何とかして達したい」。キリストの十字架。キリストの命。キリストの復活。そこを離れては、私の義はない、とパウロは言いました。
何とかして、それを捕えようとする。わたしはそれを捕えてはいない。そちらを向いて生きているということです。
 洗礼を受ける前の方が、「洗礼を受けたいと思っている。でも信じきれない」とおっしゃることがあります。私は、「信じられなくても、信じたいと思っているなら、十分じゃないですか。あなたは既にキリストに捕らえられているのですから」ということを申し上げます。私たち自身が、キリストの手の内にある。そこで私たちのすることは、次のことです。

(5)キリストにあって過去を過去とする

 「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(13〜14節)。
 キリストが自分のために命を捧げてくださった。それは一体、何を意味するのでしょうか。私たちは、自分の持っている罪や暗い過去を、本当に過去のものとすることができるということではないでしょうか。それがどのようなものであれ、すでにイエス・キリストによって担われてしまった。だからそれをもう一度、現在の方へたぐり寄せる必要はないのです。私たちはキリストにあって初めて、自分の暗い過去を本当に過去とすることができる。後ろのものを忘れていいのです。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」生きる。私はそういうパウロの生き様は、本当にクリスチャンらしいものであると思います。

(6)「完全なる人生の三つの次元」

 昨年の秋に出版されたM・L・キングの説教集『真夜中に戸をたたく』の中に「完全なる人生の三つの次元」という説教があります。キング牧師は、「いかなる完全な人生にも三つの次元がある」と言います。それは人生の長さ、人生の幅、人生の高さということであります。

「人生の長さとは、我々自身の幸福に対する内的関心のことである。それは人を前方に押し出す、自分自身の目標と待望に至ろうとする内的関心のことである。そして人生の幅とは、他者の幸福に対する外的関心のことである。そして人生の高さとは、神に対する上方の関心のことである。われわれが完全なる人生を持とうとするなら、これら三つの次元を持たなければならない」(p.159)。

 興味深いことに、キングの生前に出版された『汝の敵を愛せよ』という説教集にも、別の機会になされたこれと同じ題の説教が収められています。そちらには今回の説教集にはない、面白いエピソードが語られています。それを少し紹介しましょう。

「ある賢明な老説教師が、ある大学の卒業式に臨席して説教をした。彼は説教が終わった後、卒業するクラスの学生たちと語り合うため構内をぶらついた。そして、ロバートという才気すぐれた年若い卒業生に話しかけた。ロバートにたいする彼の最初の質問は、『君の将来に対する計画は何かね』というものであった。『ぼくはすぐ法学部の大学院に行くつもりです』とロバートがいう。『それからどうするね、ロバート君』と説教師は尋ねた。ロバートは答えた。『はい、結婚して家庭生活を始める計画です。その上でぼくは弁護士を開業し安定した生活をたてます』。『ロバート君、それから?』と説教師は続けた。ロバートはやり返した。『率直に申し上げねばなりませんね。ぼくは弁護士業によって莫大な金を儲け、それをもって、多少早目に引退し、多くの時間を世界各地への旅行に使いたいと思っています ― そういうことが、ぼくのいつもしたいと考えていることなので』。しかし説教師は、さらにほとんどうるさいほどの追求を加えた、「それからどうなるのかね、ロバート君」。「はあ、これがぼくの計画の全部です」とロバートがいった。そこで説教師は、あわれみの気持ちと父親のような思いやりのこもった面持ちでいった、『君、君の計画はあまりにも小さすぎる。それはせいぜい75年か100年の範囲でしかない。君は、神を含むほど大きく、永遠を包含するほど遠大に人生の計画を立てなければいけない』」(M・L・キング『汝の敵を愛せよ』p.143)

 私たちはいかがでしょうか。人生の高さという次元を視野に入れ、神様を人生の軸に据えて歩みたいと思います。その時にこそ、逆に、安心してひたすら前を向いて、後ろを見ないで走りぬくことができるのではないでしょうか。

(7)神様はカーナビのようなお方

 パウロは、このように付け加えます。

「だからわたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」(15〜16節)。

 パウロは自分の考えを絶対化せず、別の考えがあることも認めています。私たちは、今何をなすべきか。大事な決断を迫られることがあります。どちらを選び取るか。責任的に、自分の道を選び取って行かなければなりません。選択を間違うこともあります。果たして、これでよかったのだろうかと、いつまでも考えることもあるかも知れません。もしかしたら、神様の意向と違うことを選んでしまうこともあるかも知れません。しかしそれでも、神様は見捨てられません。ついて来て軌道修正してくださるのです。
 神様はカーナビのようなお方かなと思います。カーナビというのは、最初、目標を設定しますと、「広い道にしますか、裏道にしますか」、「高速道路にしますか、一般道にしますか」と聞いてきます。そしてそれを選んで行くと、「こっちですよ、こっちですよ」と道案内してくれる。道を間違いますと、最初しばらくは元の道にもどそうとします。「戻りなさい。戻りなさい。」それを無視してどんどん進んで行くと、カーナビの方が戻すのをあきらめて、今度はそこからどうしたら目標地点に行けるか、新しい道を探って指示し始めるのです。面白いなあと思います。
 神様も、私たちが道を誤ったから、「もう知らない。あなたは、勝手に行きなさい」というのではなく、そこから「どうやったらいいか。最善の道をその都度、新しく教えてくださる方ではないでしょうか。」
 今日は、旧約聖書はエゼキエル書18章の言葉を読んでいただきました。その中に「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ」とあります。後ろのものを忘れ、前のものに向かって走るのです。
「『イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちはたち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」(エゼキエル18:30〜32)。
 この神様の思い、この神様の御心がイエス・キリストという新しい救いの道を作り出してくださったのではないでしょうか。


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