新しい価値観

〜フィリピ書による説教(7)〜
箴言3章5〜6節
フィリピの信徒への手紙3章1〜9節a
2008年4月6日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)喜んで生きる

 新しい年度2008年度が始まりました。私たちは昨年4月から7月の間にフィリピの信徒への手紙の前半を読み、しばらく中断しておりましたが、今日から再び、このフィリピの信徒への手紙の後半、3章と4章を読んでいきたいと思っています。
 3章はこのように始まります。「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい」(1節a)。先ほど、「後半」と申し上げましたが、どうもパウロは、当初、この手紙をここで終えるつもりであったようです。「では」という言葉は、「最後に言う」というニュアンスがある言葉なのです。実際、前の口語訳聖書では、「最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい」と訳されていました。しかしここからパウロは、また新たな話を始めることになります。終わりそうで終わらない。皆さん、そういう説教はいやかも知れませんね。ベートーヴェンの交響曲も、終わるかなと思わせつつ、なかなか終わらない。このフィリピの信徒への手紙もそういう感じがいたします。何度も同じ主題が繰り返されるのです。「主において喜びなさい」。
 パウロ自身が「同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」(1節b)と記しています。このフィリピの信徒への手紙を貫いて、パウロが最も伝えたかったメッセージ、それが「主において喜びなさい」ということでありました。「信仰をもって生きる」というのはそういうことなのだと、改めて思わされます。
 皆さんは、いかがでしょうか。自分の人生、喜んで生きておられるでしょうか。私たちクリスチャンは、キリストの証人としてこの世の中に生かされております。最も基本的な証し、あるいは究極の証しというのは、「喜んで生きている」ということではないでしょうか。
 人は、まずクリスチャンを見て、キリスト教がどんな宗教であるかを判断します。「実によって木を知る」ということです。クリスチャンがいつも暗い顔をして、憂鬱そうにしていると、「あんな人にはなりたくないな」と思ってしまうかも知れません。もちろんクリスチャンであっても暗い気持ちにもなりますし、あまり笑わない人もあります。神学校の先生だってそうですから、ご安心ください。しかしながら表面的にはともかく、根源的なところで、自分の生を喜んで受け止めているかどうか。それが問われているのです。
 イエス・キリストは、私たちが自分の人生を肯定して生きることができるように、喜んで生きることができるように、この世に来てくださいました。またそのために十字架におかかりになったのであり、そのために復活してくださったのであります。ですから、「喜びなさい」という言葉は、喜べない状態であるのに、無理に「喜べ」「笑え」と強制されているのではない。それは無理な注文です。「あなたも喜んでいいのですよ」「喜ぶことができるのですよ」と、喜びのプレゼントがなされている。喜んでいい根拠、土台がイエス・キリストによって与えられているのです。
 この喜びは、特定の人にだけ与えられているのではなくて、すべての人に与えられています。なぜならその根拠が、この世の地位や財産ではなく、イエス・キリストであるからです。「主において」喜びなさい。クリスチャンになると、これまでとは違った新しい価値観が与えられるのです。

(2)神の御心に反する指導者

 パウロは、「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷に過ぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」(2節)と注意を促しています。ここで「犬ども」「よこしまな働き手たち」「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」と、三つの言い方がなされていますが、これらは別の人を指しているのではなく、同じタイプの人々のことでしょう。
 「犬」というのは、時に、その忠実さをほめられる動物でもありましたが、一般的には不浄の動物とされ、軽蔑の対象でありました。ユダヤ人たちはしばしば、割礼を受けていない異邦人を軽蔑して「犬」と呼びましたが、パウロは、それをひっくり返して、「いや律法主義者こそ犬だ」と、挑発的に呼んだのです。
 「よこしまな働き手」というのは、「働き手」という位ですから、伝道者ではあるのでしょう。しかしその言動が、やっかいなことに、福音に反することもあるのです。それは今日でもあるでしょう。(私も気をつけなければなりません。)
 この種の人たちというのは、自分を絶対化する人、自分の立っているところを絶対化する人。柔軟になれない。彼らは割礼を受けていましたが、パウロは実質の伴わない割礼は「切り傷に過ぎない」と言ったのでした。これらはすべて、彼らが聞いたら激怒するような言葉であったでしょう。

(3)クリスチャンとは

 パウロはその三つの言い方に対比させるように、別の三つの言葉で自分たちのアイデンティティーについて語ります。
 「わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」(3節)。
 パウロが「肉」という時は、この世のもの(お金、地位、名誉)を指しています。「自分自身」ということも含まれるでしょう。クリスチャンは、そうしたものに頼らず、ただイエス・キリストのみを生きる根拠とする。ですから、礼拝するのも自分がよくやっていることを見せるためではなく、「神の霊」によって礼拝するのです。またこの礼拝とは、限られた時間の儀式としての礼拝だけではなく、生き方そのものが問われているのでしょう。

(4)これまでのパウロ

 ここでパウロは「とはいえ、肉に頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。誰か他に肉に頼れると思う人があるなら、わたしはなおさらのことです」(4節)と言って、おもむろに自分について語り始めます。
 「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です」(5節a)。
 これらは、パウロが持っていた宗教的特権であり、「肉」を誇る人なら、最も価値を置くような「家柄」と「育ち」です。
 「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については、非の打ちどころのないものでした」(5節b〜6節)。
 先ほどの宗教的特権に対し、こちらは宗教的熱心さと言えるでしょう。生まれつきの特権だけではなく、彼自身、非常な努力をしてきたのです。
 「ファリサイ派」という厳格なことで有名な一流の教育を受け、誰よりも真剣に律法を守る努力をし、同時に「神の御心に背いたことをしている」と信じて、教会を熱心に迫害してきました。
 そういうことを最高の価値観としている人に向かって、「実はこの私、パウロもそれらをすべてもっていたし、やっていたのだ」というのです。これは、いかにも自分を自慢しているように聞こえかねません。しかし、パウロはこう断言します。

(5)価値観の逆転

 「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」(7節)。
ここに信仰の逆説、価値観の転換、新しい価値観に生き始めたパウロの信仰告白があります。なぜ、それを損失と見なすようになったのか。それはそういったこの世の、みんなが羨ましがるようなものを持っていれば、持っている程、キリストに頼らなくても、自分は生きていけると思いがちだからであります。ですからそれは持ってない方がかえって、キリストに近づきやすい。だから損失だというのです。

「そればかりか、私のキリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。キリストのうちに認められるためです」(8節)。

 いかがでしょうか。クリスチャンになるとは、こういうことなのかと思わされます。これは、パウロのように一度、本気で律法を守ることに自分の人生を賭け、それによって義を得ようとしたことのある人でなければ、言えない言葉です。パウロは徹底的にそれをやった経験があるからこそ、この道では救われることができないと悟ったのでしょう。中途半端な人間だと、「自分はまだまだ努力が足りないのかな」と思うだけです。
 それでもパウロの言葉は、まだ何か、暗に自慢しているように聞こえかねないところがありますが、それは彼独特の言いまわしなのでしょう。パウロの主眼は、「いやそれがかえってキリストに生きる妨げになるのだ」ということなのです。

(6)飯塚禮二兄のこと

 教会員の飯塚禮二さんが、昨年12月10日に天に召されました。
飯塚さんは、2000年8月に『アスベストの焦げるにおい』という題の自伝を著しておられます。私は、飯塚さんの葬儀にあたり、それを読ませていただき、改めて飯塚さんがいかに生きられたかということを感慨深く、受け止めさせていただきました。
 飯塚さんは神経内科の専門医であり、同時に立派な精神医学者でありました。その分野では日本の第一人者であったと伺っています。ところがその飯塚さん自身が御自分の専門であるパーキンソン病という病気にかかられたのです。パーキンソン病は、今の医学では治らないとされています。そのことを誰よりもよく知っておられたのは飯塚さんご自身です。
 普通の患者であれば、お医者さんに向かって「先生、何とかならないのですか。」「何とかしてください」と訴えかけるでしょう。しかし飯塚さんはその問いを誰に向かっても問うことはできない。彼はそれを自分の中で問い、神様に向かって問われたことと思います。そしてそれなりに、答えを見出しておられたのではないかと想像します。
 お嬢様のめぐみさんが、「父は、自分がどうしてこんな病気になってしまったのかというようなことは、一切言いませんでした。それは、本当に不思議な位です。そのことは、私にとっても、母にとっても大きな慰めでした。」と語っておられたことが、とても印象的でした。
 飯塚禮二さんは、さきの自伝の最後のところで、こう述べておられます。

「人の一生は人により異なる。またその意味についても各自それぞれの価値観にもとづいて意味づけをしている。したがってどういう一生が最も望ましかったか、または自分の一生は果たして自分の期待に沿っていたか、あるいは現実と期待はどうかけ離れていたかなどは、あくまで人さまざまとしかいえない。
 この小冊子は私が今、想い出すままに経験したこと、思いがけず嬉しかったこと、予想外の結果に終って失望、落胆したことなどを、現在の私の立場から、略年代順にふりかえって書き綴ったものである。
 今70才をすぎて経験を受け止める深刻さの度合いもずい分変わったが、ここに書かれているのは、いわば人生の勝負がほぼついてしまったと自分で思う状態での感想である。
 私の一生は、常に身体の状況と相互に密接に関係し合う精神状態を中心に、その時々の外的条件のからみによって規定されているように思える。スーパーエゴの座には乳児期から教えられていたキリスト教の価値観がつよく見えかくれしているようである。普通の意味でいえば損とか得とかが逆転した価値観を示していることも多い。」(128頁)。

 私は、この最後の言葉にはっとさせられました。「普通の意味で言えば、損と得とが逆転した価値観を示していることも多い。」
晩年に受けられた大きな試練の中にあっても、普通なら、「なぜそういうことが起きるのか」と損をしたと思えるようなことも、「いやこれも神様の恵みの一つだ」と、信仰の逆説とでもいうべきものを持っておられた。だからこそ、最後まで、そのように前向きに生き抜くことがおできになったのかと思います。

(7)自分に頼らず、主に信頼して

 信仰の逆説。「わたしは弱い時にこそ強い」(二コリント12:10)。パウロはそのように言いました。イエス・キリストは「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」(マタイ9:12、口語訳)とおっしゃいました。そうした中、弱さの中にこそ、神様の力が働く。そのところに生きる根拠を置く。それがクリスチャンの生き方ではないでしょうか。
今日は旧約聖書は箴言の言葉を読んでいただきました。

「心を尽くして主に信頼し、
自分の分別には頼らず、
常に主を覚えてあなたの道を歩け。
そうすれば、主はあなたの道を
まっすぐにしてくださる。」
(箴言3:5〜6)

 そのように私たちも、自分に頼まず、イエス・キリストにより頼んで、この新しい年度を歩んでいきたいと思います。「教会に生きる」という標語が与えられました。この標語のもと、教会生活においても、社会生活、学校生活においても、教会を私たちの住処として、帰るべきふるさととしながら、1週間ごとに自分の持ち場に派遣されてまいりましょう。


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