花婿が奪われる時

〜ルカ福音書による説教(26)〜
哀歌4章20節
ルカによる福音書5章33〜39節
2009年3月22日   経堂緑岡教会 牧師  松本 敏之


(1)カーナヴァルから受難節へ

 受難節も4週目を迎えました。受難節は、伝統的にキリスト教会では、悔い改めと克己の季節とされてきました。特に西欧やラテンアメリカの教会では、「肉を食べない」という習慣があります。カーナヴァルというのは、日本語では「謝肉祭」と訳しますが、それは受難節に入る前に、思いっきり肉を食べて、お祭り騒ぎをしようというお祭りです。
 私もブラジルにいた頃、リオのカーナヴァルや、私の住んでいた町、オリンダのカーナヴァルなどへ行きました。カーナヴァルが始まりますと(受難節の前の金曜日から灰の水曜日の直前の火曜日まで)、すべてがストップしてしまいます。
 カトリック教会では、そういうことを思いっきり楽しむ習慣があるのですが、プロテスタント(特に福音派、ペンテコステ派)の教会では、カーナヴァルは好ましくないものという風潮があって、ちょうどその間に教会の修養会、リトリートなどを、3泊4日位でバーンと入れてしまうことがあります。そこがまとまった休みをとれる時で、研修所も比較的すいているという事情もありました。そういう時に、私もよく福音派の他の教会などの修養会の講師で招かれましたが、「カーナヴァルの方がいいなあ。せっかくブラジルにいるのに残念。1週間早く、受難節が来てしまったみたい」と思いました。
 しかしカーナヴァルで大騒ぎをしていた人々や町並みも、受難節に入ると、ぴたっと自粛ムードになります。季節感があります。日本では、クリスマスの前は町もすっかりクリスマス・ムードになりますが、受難節の場合は、町は何も変わりませんので、生活に密着した感じがありません。ブラジルでは、受難節になると、肉を控え、食事も質素にいたします。その控え方はさまざまで、一切の肉を食べないという人もいますが、「鶏肉はOK」という人が多いようです。「受難節は鶏の受難節、イースターになると牛の受難節」という冗談もあります。受難節によく食べるのは魚料理です。特にバカリャウという干しタラをよく食べます。しかしこれがまた高いのです。この季節は特に高い。牛肉などよりもよほど高いので、「質素に牛肉にしておこうか」などと考えてしまいます。今日は断食の話をしようと思っていたのに、何だかグルメの話になってしまいました。

(2)断食−克己のしるし

 さてこの季節(受難節)に、どうして肉を控えるのかと言うと、それはイエス・キリストの受難を心に刻む時であるからです。そのように主の受難を覚えながら、自分自身にも打ち克つ時、克己の時といたします。その仕方はさまざまなでしょう。「何かを我慢して、その分、献金をする」という仕方もあるでしょう。教会によっては、イースター献金と呼ばずに、克己献金と呼んでいるところも多くあります。
 私たちの教会(日本キリスト教団など)では、あまり断食の習慣はありませんが、ユダヤ教の信仰者たちと同じように、クリスチャンでも、ある教派では、断食ということを大事にしています。特に、この受難節を断食の季節としています。私たちも、この機会に断食について考えておくのは意味のあることであろうと思います。今日の箇所は、このように始まっています。
「人々はイエス・キリストに尋ねました。『ヨハネの弟子たちはたびたび断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかしあなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています』」(33節)。
 イエス・キリストの時代の断食というのは、特別な場合を除いて、一般的には日が昇っている間だけ、食事を取らないという限定的なものでありました。自分や他人の堕落した生活を憂え、罪を悲しんで、週に一度か二度定められた日に行われていました。ユダヤ教の場合には月曜日と木曜日でした(週に一度の場合は木曜日)。もちろん日中だけ断食するのでも、大変なことには違いがありません。まじめに信仰のことを考える人であれば、「少なくとも自分たちだけは」という思いで断食をし、宗教的な生活を守る努力をしたのでしょう。
 洗礼者ヨハネも、そういう人でした。彼自身、とても質素な生活をしながら、堕落した人々に対して、悔い改めて神様に立ち帰るよう、呼びかけました。
「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(ルカ3:3)。

(3)イエス・キリストは断食されたか

 このようなヨハネに対して、イエス・キリストも深い共感を覚えられました。基本的には、洗礼者ヨハネとイエス・キリストは、同じ方向を向いていました。
 しかしイエス・キリストは、洗礼者ヨハネのように、断食を大きな声で呼びかけたりすることはありませんでした。むしろ、他の人のように断食を重んじないことで有名であったようです。こういう言葉があります。
「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」(ルカ7:33)。
 この言葉は、イエス・キリストが飲み食いを楽しまれたお方だということを(人々のうわさを通して)間接的に示していると思います。
 ただ私たちは、ここでイエス・キリストが断食という行為そのものを否定されたわけではないということを確認しておかなければならないでしょう。イエス・キリストは別の箇所で「断食をするときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない」(マタイ6:16)と言われました。「断食というのは、本来、自分自身を神様に立ち帰らせるためのものであって、人に見せびらかせるものではない。断食をするならば隠れてやれ。いかにも『私は断食をしています』というような暗い顔をして見せるな」ということです。私たちは何かよいことをしている時には、人にもそれを認められたいという気持ちをどこかでもってしまうものです。断食も「あの人、断食しているの。立派ね」と思われた段階で、神様との関係は二次的なものとなっているということなのです。
 ですからイエス・キリストも他の人には気づかれないようにして、ひそかに断食をしておられたということは十分に考えられることでしょう。
 もうひとつ忘れてはならないのは、主イエスご自身、公の活動に入られる前に、荒れ野で40日40夜、悪魔から誘惑を受けられた時に断食をされていたということであります。
「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を"霊"によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」(ルカ4:2)。
 この時は、文字通り誰も見ていないところで断食をなさったのでした。主イエスは、決してこの世の罪や堕落に対して、無関心であったわけではありません。むしろ主イエスがこの世界に来られたということ自体が、この世の罪や堕落を決して放っておくことはできないという神様の思いの表れであり、それはイエス・キリストも同じでありました。そのことのために主イエスは、しばしば一人になって祈られましたし、先ほど申し上げたように、隠れたところで断食をなさっていたかも知れません。

(4)古いものと新しいもの

 ただこの世の罪や堕落に対して、イエス・キリストはファリサイ派の人々や洗礼者ヨハネよりも、もっと根源的な仕方で、全く違った形で解決する道を開かれたのでした。それは、人が自分を清くして、自分の清さによって神に近づこうとする道ではなく、神ご自身の清さにあずかる道でありました。それはファリサイ派の人々やヨハネの弟子たちの想像もつかない道、彼らの「古い」考えをはるかに超えた「新しい」道でありました。それゆえに、彼らはつまずいたのです。
 主イエスはこう言われます。

「だれも、新しい服から取った布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない」(36〜38節)。

 イエス・キリストの示された道は、ちょうど「新しい布切れ」か「新しいぶどう酒」のようなものです。新しい布切れをそのまま古い服に継ぎを当てようとすれば、それは古い布地を引き裂いてしまいますし、新しいぶどう酒を古い革袋に入れようとすれば、その発酵力で革袋が破れてしまいます。
主イエスの示された道も、従来の考え方に対して、それほどのインパクトを持っていたと言えるでしょう。

(5)質的な新しさ

 ここで言う「古い」「新しい」というのは、単に「あの人の考え方はもう古い」とか、「彼の考えは時代の最先端を行っている」というようなことではありません。もしもそういうことであれば、それさえもいつか時代遅れになるでしょう。主イエスの教えは、質的に新しいのです。ですから主イエスの示された道は、いつの時代においても「新しい」し、いつの時代においても受け入れられないのです。現代の私たちにとってもそうです。相変わらずつまずきです。常識的に言えば、清くないものを私たちが神様に認めていただくには、自分を律して、清めていく以外にはないでしょう。それゆえに向こうから清くされる道を示された主イエスは、彼らの目に、非常識に映りました。私たちの目にもそう映ります。「そんなことは許されるはずがない。」しかしそれは非常識なのではなくて、「超」常識であったと言えないでしょうか。

(6)婚礼の食事

 最初の人々の問いかけに対して、主イエスは、こう答えられました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」(34節)。
 主イエスは、ご自分を花婿にたとえ、ご自分が共にいる食事を婚礼の食事にたとえられました。
婚礼の食事、結婚式の披露宴の食事というのは、普通の食事とは違います。一体何が違うのでしょうか。ご馳走の量でしょうか。ご馳走の質でしょうか。確かに婚礼の食事では、多くの場合大変なご馳走が出ますが、そうではない場合もあります。質素な会費制のパーティーというのもあるでしょう。それは相対的な違いです。婚礼の食事には、もっと根本的な違いがあります。それは花嫁と花婿がそこにいる、ということです。喜びの源がそこにある。ですから、たとえそこに出てくる食事が普段と変わりのないものであったとしても、その婚礼の食事は喜びに満ち溢れた食事なのです。それと同じように、イエス・キリストが私たちの間におられるということは、特別なことが何もなくて、当たり前のような生活をしていても、質的に全く違う喜びをもたらしてくれるものであるのです。

(7)十字架の時

 イエス・キリストは、こういう風に続けられました。
「しかし花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる」(35節)。
 この「花婿が奪い取られる時」というのは、まさにイエス・キリストの十字架の時であります。受難節に多くのクリスチャンが断食をするというのは、まさにこの言葉に基づいています。
 イエス・キリストはこの時、徴税人たちと一緒に、ただ楽天的に、苦しみも知らずにあるいは困難を忘れて、飲み食いされていたのではありませんでした。すでにこの時、十字架を見据えておられたのです。それは、私たちの罪に対して、死に対して、表面的に繕うことによってではなくて、徹底的にたたかわれる道でありました。
今日は哀歌を読んでいただきましたが、そこにこういう言葉がありました。

「主の油注がれた者、
わたしたちの命の息吹
 その人が彼らの罠に捕らえられた。
 異国民の中にあるときも、
その人の陰で生き抜こうと頼みにした、その人が」(哀歌4:20)。

 この言葉も、イエス・キリストの受難を預言した言葉として読むことができるでありましょう。
 しかしこの花婿は、この世界から奪い取られたままではありませんでした。イースターの日に罪と死の力に打ち勝ち、そしてペンテコステの日に、より確かな形で、いつも私たちと共にあることを実現してくださいました。このイエス・キリストと共に生きる中にこそ、新しさがあるのではないではないでしょうか。
 私たちは、今受難節を過ごしていますが、実を言いますと、受難節というのは日曜日を除く40日間であります。つまり日曜日は受難節に数えないのです。受難節にあっても、日曜日だけは主の復活を祝う日だということであります。新しい皮袋に新しいぶどう酒を注ぎ込むように、私たちもイエス・キリストと共に歩んでいきましょう。


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