罪人を招くため

〜ルカ福音書による説教(25)〜
エゼキエル書18章30〜32節
ルカによる福音書5章27〜32節
2009年3月1日  
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)徴税人とは

 イエス・キリストは、さまざまな人たちを弟子として召されました。ルカによる福音書5章の冒頭では、漁師であるシモン・ペトロを弟子にされましたが、今度は徴税人であります。
 徴税人は、聖書では、いつも罪人と同列に出てきます。これは現代の私たちには、事情がわかりにくいことでしょう。今日、税務署に勤める人であれば、役人としてむしろ尊敬されるでありましょう。当時のユダヤは、ローマ帝国に支配されており、税金は、基本的にはローマ帝国に納めるためのものでありました。しかしその徴収を、現地のユダヤ人に委託していましたので、徴税人はローマの手先、ローマに魂を売り渡した者として嫌われ、軽蔑されていたのです。
 一方、徴税人たちの方でも、嫌われ、軽蔑される中で、お金を頼りとして生き、ローマの権力をバックに随分、不当なお金を巻き上げていたようです。別の徴税人ザアカイは、悔い改めた時に、「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(ルカ19:8)と宣言しましたが、それは裏返せば、徴税人が不当な利益を貪るのが当然であったということでありましょう。
 こうした徴税人のイメージというのは、今日で言えば、税務署の役人というよりは、やくざか暴力団に似ているかも知れません。税金もやくざの巻き上げる「ショバ代」と考えればぴんと来ます。町で店を出していると、その町がなわばりになっている暴力団が「ショバ代」を集めに来ます。自分の土地で、自分の店であるのに、暴力団にお金を渡す。これは「迷惑をかけない」料です。渡さないと何をされるかわからないから、しぶしぶ払っているのです。

(2)簡素な記述

 「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(27節)。
 これは非常に簡潔な書き方です。レビがイエス・キリストに従ったのには、彼なりの背景があったに違いありません。長い間、自分の仕事に嫌気がさしていたかも知れません。しかしルカ福音書は、そのような事情は何も書かないのです。味も素っ気もなく、さらりと1節で終わってしまいます。
考えてみれば、確かに大事なことは、イエス・キリストが徴税人レビを招いたという事実とレビがそれに応える決断をしたという事実であります。理由や背景は、二次的なことです。
 私も自分が洗礼を受けた時のことを振り返ってみれば、何か特別な出来事があったわけではありませんでした。大病をしたわけでも事故にあったわけでもありません。家族の病気とか死とか、あるいは神秘的な体験とかがあったわけでもありません。ただ小学校1年生の時からずっと教会学校に通っていて、高校生になった時に、姫路教会の牧師から、「松本君もそろそろ洗礼を受けたらどうかね」と言われて、「はい、じゃあそうします」という位のことでした。「夢の中でイエス様に出会った」というような神秘的な体験をお持ちの方もあるかも知れません。それはそれでうらやましい気もしますが、必ずしもなくてもいいと思います。教派によっては、「あなたは水のバプテスマは受けてはいるが、聖霊のバプテスマは受けていない」と言われそうですが、どういう経験をしているかは二次的なことです。大事なことは、主イエスの招きに従うという決断です。同じ経験をしていても、同じ招きを受けていても、主イエスに従う決断をする人としない人がいるわけですから。ルカはその本質のみをストレートに記したのでした。

(3)主イエスの招き方

 イエス・キリストがレビを招かれたのは、彼がお金を取り扱うのに有能であったからではありませんし、お金を取り立てる時にやくざのようなすごみがあったからでもないでしょう。ただイエス・キリストが彼に目を留められたからでありました。
 神は、そしてイエス・キリストは、知恵ある者、能力ある者、家柄のよい者を選ばれるわけではありません。どちらかといえば、むしろ逆で、無学な者、無力な者を選ばれるのです。使徒パウロもこう言っています。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力ある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選ばれました。また神は地位ある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(コリント一1:26〜30)。

 私たち人間は、その人にどれだけの価値があるかに目を留め、社会での有用さによって人に上下を付けがちでありますが、主イエスは、その人がどれだけ自分を必要としているかに目を留められるのです。

(4)主イエスのまなざし

 この記事は、マタイ福音書にもマルコ福音書にも並行記事がありますが、幾つかの違いがあります。まずマタイ福音書では、この徴税人の名前がマタイになっています。それはそれとして、このマルコ、マタイと、ルカの書き方が少し違う点に注目してみましょう。
 ひとつは、マタイとマルコでは、イエス・キリストが、レビ(マタイ)が収税所に座っているのを「見かけて」とありますが、ルカでは「見て」となっています。原語でも違う動詞が使われているのです。ルカの方は「じっと見る」という強いニュアンスのある動詞なのです。
 そこにはルカのこだわりがあるように思えます。ちらっと見ただけではない。足を止め、レビのこれまでの人生、そして今の彼の心の状態を見抜くように、じっと見詰めて「わたしに従ってきなさい」と言われたのではないでしょうか。「こんな目で私を見た人は今まで誰もいない。軽蔑の目でもないし、上から見下す目線でもない。自分をいやし、自分を本当に生かしてくれる目だ。」レビはそう思ったのではないかと、想像します。
 レビは、恐らくこれまでも直接、間接に、イエス・キリストの話を聞いていたでありましょう。しかしこの時、イエス・キリストにそういうまなざしで見つめられてはじめて、従う決心をすることができたのではないかと思います。
 ルカという人は、イエス・キリストのまなざしにこだわった人でした(ルカ18:24、22:61参照)。「ああ主のひとみ」という讃美歌(『讃美歌21』197番)も、そういうルカの書き方からヒントを得ているのでしょう。

(5)主イエスのための宴会

「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。この「何もかも捨てて」というのも、ルカだけが書いている言葉です。徴税人レビの心がよく表れています。そして「自分の家で、イエスのために盛大な宴会を催し」(29節)ました。この宴会には、ひとつの特徴がありました。それは、いろんな人が招かれていたということです。レビが自分のために開く宴会ですと、彼が呼ぶ人は限られていたことでしょう。徴税人仲間で、盛大な、だれもがうらやみ、同時に憎むような宴会を開いたかも知れません。また彼がいろんな人を招いたとしても、みんなが断ったことでしょう。しかし今日は、イエス・キリストのための宴会です。招待者を決めるのもイエス・キリストです。
 彼は今、自分の主人であるイエス・キリストのために自分の家を開放すると共に、他の人々のためにも家の扉を大きく開きました。その心を大きく開きました。そして彼の財産をこの主イエスと共にあった食卓のために使うことを惜しまなかったのです。

(6)美竹教会に起こっていること

2月初めに、渋谷の美竹教会の上田光正牧師から手紙をいただきました。昨年後半の世界的な大不況のあおりを受け、派遣切りにあい、住まいを失った人たちが大勢、渋谷の美竹公園で生活をしている。そのうち14人の人たちが「ジーザス仲よしきょうだいの会」という会を組織し、毎週日曜日の美竹教会の礼拝に出席しつつ支援を求めているとのこと。教会では、この人たちを求道者として受け入れ、共に歩んでいるが、東京教区西南支区の諸教会にも支援協力してもらえないかとのことでした。
 私は今、支区の常任委員社会担当(いわゆる社会委員長)なので、早速支区内諸教会にも呼びかけました。反応はさまざまでした。すぐに支援協力してくださった教会もありますが、「美竹教会がやる分には何も言うことはないけれども支区としてかかわるのはどうか」という批判もありました。
 美竹教会の反応もさまざまであったことと想像します。約40人位の礼拝に、公園で寝泊りしている方が14人も来られるということは、受け入れる側にもそれなりの覚悟がいることでしょう。しかし美竹教会では、それを承知の上で、これを主イエスの招いたお客さんとして受け止めておられるのです。「偉い」と思いました。
 動揺しながらも、それを神様からのチャレンジとして受け止める時に、教会の側の意識も変わっていくのだろうと思います。そして具体的な出会い、具体的なかかわりを通して、教会はいきいきとし、神の臨在をリアルに経験するのではないでしょうか。またそうしたイエス・キリストの招きを真剣に受け止めて、それに応えることによって、教会やその周辺にいる者も恵みに招かれるのだと思います。

(7)「正しい人」も招かれている

 さてファリサイ派の人々と律法学者たちは、イエス・キリストの弟子たちにつぶやいて言いました。「なぜ、あなたがたは徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」(30節)。
 ファリサイ派の人々、律法学者と言うと、元来はとてもまじめな人たちです。ここでの彼らの批判も、当時の社会においては、むしろ常識に即するものでありました。信心深く、貧しさに耐えた人々です。しかし彼らの信仰は深いところで、「自分はあの連中とは違うのだ」ということを、いつも確認することによって支えられていました。
 彼らは「どなたでもどうぞ」という恵みの招きにつまずきました。先ほどの美竹教会に公園住まいの人がやって来たという出来事と少し通じるものがあるように思います。彼らは、主イエスと弟子たちが徴税人レビの家で、他の徴税人や「罪人」たちと食事をするのを見て、とんでもないことだと思いました。
 そのようなファリサイ派の人々に向かって、主イエスは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(31〜32節)と言われました。
 これはもちろんファリサイ派の人々や律法学者たちを批判された言葉ではありますが、主イエスは彼らを拒否されたのではないと思います。確かに彼らは「正しい人」を自認していました。道を踏み外さないように注意し、汚れた人々や罪人と交わらず、定期的に「いけにえ」をささげて、自分の罪を自分で修復しつつ、神様との関係を保っていると信じていました。そのようにして、「徴税人や罪人」を見下げていました。しかし実は、そこにこそ彼らが自分でも気づかない「罪」があったのです。その意味で、このファリサイ派の人々も決して「罪人」でないわけではありません。だからこそ、彼らも知らずして、逆説的ではありますが、主イエスから招かれていたのです。彼らも決して「健康な人」ではなく、「病人」であり、医者を必要としていたからです。主イエスは、そのようなファリサイ派の人々の罪のためにも、十字架にかかり、死なれたということを忘れてはならないでしょう。
 今日はエゼキエル書18章の言葉をお読みいただきました。

「『お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ』と主なる神は言われる」(エゼキエル18:31〜32)。

 この神様のご意志がイエス・キリストをこの世へと送り出すこととなったのです。この神様のご意志がイエス・キリストの十字架の出来事を生まれさせることになったのでした。
 ファリサイ派の人々のことを考える時に、私にはいつも、私たちクリスチャンの姿とダブって見えてきます。私たちもいつも彼らと似たようなことを考え、似たようなことをやっています。「破れを見せたくない」という思いの中に、すでに破れが始まっており、それでいて人を裁いてしまう中に、自分の傲慢さを見ます。牧師であっても、いや牧師であるがゆえにこそ、特にそのような面を持っていると、いつも恥ずかしく思います。
 主イエスは、傲慢な人間の罪のためにも、十字架で死んでくださいました。そのことに本当に気づくときに、私たちもまた、確かに罪人として招かれているということがわかるのではないでしょうか。
先週の水曜日から、受難節に入りました。罪人を招かれる主イエスの恵みに感謝して、この季節を過ごしてまいりましょう。


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