契約を立てた神

〜創世記による説教(19)〜
創世記9章1〜17節
ローマの信徒への手紙11章33〜36節
2009年3月29日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)洪水後の人間に対する祝福

 ノアが箱舟から出てきて、すべてに先だって最初に行ったことは、祭壇を築いて主を礼拝することでありました。何をおいても先に礼拝をする。そこから始めるというのは私たちも学ぶべきことであると思います。その後、神様がそのノアに対して言われたことが9章に記されています。
 ここには三つのことが記されています。まず一つ目は、祝福の継続ということです。
「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手に委ねられる」(1〜2節)
 すでに創世記1章28節のところで、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と言う祝福の言葉がありましたが、そのことは洪水によって、中断させられてしまったようでありました。それまで増えてきた人間や動物たちを、神様はぬぐい取られたのですから。しかし創世紀1章で語られた神様のご意志は、洪水以降も変わっていませんでした。どんどん増えていくことを、神様は望んでおられるのです。

(2)肉食の許可

 「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない」(3節)。
 二つ目に語られたことは、肉食の許可ということであります。創世記1章28節の続きにはこう記されていました。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。」
 洪水以前の人間に許可された食物は野菜と木の実でしたが、ここで肉食が許されるようになりました。ただしそれでも、血は命であるから食べてはならないと言うのです。このことは一つには、当時の衛生上の問題があったであろうと思われますが、大事なことは、命は本来、神様の領域のものであることを覚えよということでしょう。
 ちなみにエホバの証人という宗教は、「血を食べてはならない」ということを「輸血禁止」ということと結びつけるのですが、それはかなり強引な解釈であると思います。いずれにしろ、血は命の尊厳を象徴しており、命は神様に属するものだということなのでしょう。
 本当は、動物といえども勝手に殺してはならないのであるが、これを食べて生きるために特別に許可するということです。それゆえに食べる時にも、命への畏敬と感謝の念をもたなければなりません。動物たちも肉食動物は、他の動物を食べて生きていますが、自分が生きるのに必要な分以上は殺しません。命の連鎖というものをわきまえています。必要以上に殺すのは人間だけです。命への畏敬は、かえって人間が一番低いのかも知れません。

(3)なぜ人を殺してはならないか

 三つ目はその命に関連しています。

「また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間同士の血については、人間から人間の命の賠償として要求する。人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」(5節)。

 人間は決して殺されてはならない。人間の命は特別だということであります。これは、先ほどのすべての命への畏敬ということを超えています。
「殺してはならない」という戒めは十戒の中にもありますが、世界中のほとんどの法律や宗教が「人を殺してはならない」と言っております。しかしその理由を明確にしているものは、案外少ないのではないでしょうか。ですからひとたび戦争が始まると、「なぜ殺してはならない」かがあいまいになり、「敵は殺してもよい」となってしまう。いやそれどころか、「多く殺した方が英雄」ということにさえなってしまいます。しかし聖書は違います。「人を殺してはならない。」なぜか。聖書は、こう答えます。「人は神にかたどって造られたからだ。」すべての人は神様のかたちを宿しています。一人一人の中に神様が宿っています。一人一人が生きていることには、神様の「生きよ」という意志が込められています。どんな人であっても、神様に似せてつくられたものです。男であっても女であっても、神様の姿を映し出しています。神様の約束を受けたもの、神様との契約のパートナーです。だから殺してはならないのです。戦争であろうと何であろうと、人を殺すことはその人を造られた神様の意志を踏みにじることであり、その人と真実な関係を持ち続けようとする神様の尊厳を汚し、その神様の意志を冒涜することです。だから殺してはならないのです。これほど明確な理由は他にないのではないでしょうか。
 この言葉には、「人の命は決して侵されてはならない。人は神のものだからである」という、いわば人権思想のルーツがあるとも言えるでしょう。宗教改革者のカルヴァンは、この箇所を指して「(人間の)誰かの人格がないがしろにされる時、神は自分自身がないがしろにされていると思われる」と言っております。

(4)ノアとの契約

 そして神様はノアと契約を立てると言われました。契約という概念は、聖書の中で最も大事な概念のひとつです。ちなみに今日、「契約」とか「派遣」とか言うと、契約社員、派遣社員ということを思い浮かべますが、考えてみますと、「契約」も「派遣」も非常に大事な神学的な概念です。われわれ牧師というのは、まさに神様からの派遣労働者だと言えるでしょう。

「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と契約を立てる。……わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」(9:9〜11)。

 普通、契約というと、契約をした双方に守るべきことがあって、どちらかがそれを破ると契約不履行ということで、契約が破綻してしまいます。契約が成立する条件があるのです。ところが神様と人間の契約ならばいかがでしょうか。神様の方はいつも真実です。しかし人間は神様の真実に対して、真実であり続けることができるでしょうか。もしも人間同士の契約と同じように、双方の条件によって成り立つものであるとすれば、それはすぐに破綻してしまうでしょう。洪水物語の最初に示されたことは、まさにそういうことでありました。
 神様と人間が正しい関係、真実な関係を持ち続けるためには、常に神様の方で大きな代償を払う覚悟がなければならない。このとき神様は、その代償を払ってでも、人間と契約を結び、人間と真実な関係を持ち続けるという決意をなさったのです。

(5)アブラハム契約、シナイ契約

 ちなみに旧約聖書では、ノア契約の後、アブラハム契約、シナイ契約というのが出てきます。ノア契約というのは、ノアの側に一切の条件がありません。神様の方がひとりで決心なさって、「わたしはノアとの間に契約を立てる」と、一方的に宣言されたものでした。
 アブラハム契約というのは、アブラハムの信仰、というのが前提条件になっています。
「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)。
 その信仰を前提にして、「わたしはあなたの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう」(17:2)、「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も」(17:9)と続きます。ただし、これも「ただ信じるだけ」ですから、ノア契約に近いものであるでしょう。
 それに対して、シナイ契約というのは、神様がシナイ山においてモーセを通して立てられた契約です。神様は十戒を初めとする律法を与えて、「これを守りなさい。そうすれば、幸いを得る」と言われたのでした。条件付きです。

「これは、あなたたちの神、主があなたたちに教えよと命じられた戒めと法であり、あなたたちが渡って行って得る土地で行うべきもの。……イエスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える」(申命記6:1〜3)。

 旧約聖書をずっとたどっていきますと、最初は無条件であったノアとの契約が、アブラハムとの間においては信仰が前提となり、モーセとの間においては、律法を守るということが条件となっていくのです。しかしそれでは、人間は神様の前に立ち得ないということになってしまいます。
 エレミヤ書は、「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない」(エレミヤ31:31)と言って、はるかに「新約」を指し示しています(同33節)。
 新約聖書では、ノア契約からアブラハム契約へ、アブラハム契約からシナイ契約へ、というプロセスを、何か逆にたどっていくように思います。「人は律法を守れば、義とされる。」「律法を守れないならば、どうすればいいのか。」「信仰によって、義とされる。」「でもその信仰すらなければ、どうなるのか。」「いや人は恵みによってのみ義とされるのである。」
そのように聖書の指し示すところは、最初のノア契約へと帰って行くようです。最後の最後のところで、私たちを生かすものは何か。それは律法を守ることでもなければ、私たちの信仰ですらない。ただ神様の一方的な恵みである。それだけが、私たちを、根底的にくつがえることなく支えている。だからこそ私たちは、安心して生き、安心して主に従う決心をすることができるのではないでしょうか。
「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」(8:21)。神様は生半可な気持ちで、この言葉を発せられたのではありませんでした。この言葉がすでにイエス・キリストの十字架を指し示しているのです。

(6)虹−置かれた弓

 神様はご自分が人間と契約を立てられたしるしに、空に虹をおかれました。
「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める」(13〜15節)。
 何と美しい言葉、何と美しい情景でしょうか。虹というのは、西欧の言葉では、「弓」という言葉が含まれています。英語の「レインボウ」というのは、「雨」と「弓」からできています。ポルトガル語では「アルコイリス」というのですが、「色とりどりの弓」という意味です。いずれにしろ弓が置かれている状態を意味しています。
 ヘブライ語で「虹」というのは、「闘いの弓」という意味です。昔のユダヤの人々は、虹というのは、神がその闘いの弓を手に取らずに手放しておられる状態だ、と理解しました。その弓がもう引かれないということです。神は、世界に対して、弓を放棄したということを宣言されたのです。だからこそ、これは恵みのしるしであります。
 ノア契約のもうひとつの特徴は、それが人間だけではなく、全被造物を視野に入れているということです。
「(わたしは)あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる」(10節)。
 神様ご自身がひとりで決意してなされた契約であればこそ、そういうことも成立するのでしょう。これは、エコロジーのことが大きな課題となっている現代において、大事なことを指し示していると思います。この世界は、私たち人間だけのものではないのですから。
 神様は今、その虹を見たときに、自分で立てた契約をその都度思い起こす、と言われました。私たちも同時に、その虹を見る時に、神様が私たちとの間に立ててくださった契約を思い起こすことが許されているのではないでしょうか。

(7)人の決意に先立つ神の決意

 今日は、もうひとつローマの信徒への手紙の言葉を読んでいただきました。

 「ああ、神の富と知恵のなんと深いことか。だれが、神の定めを極め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
『いったいだれが主の心を
知っていたであろうか。
だれが主の相談相手であっただろうか。
だれがまず主に与えて、
その報いを受けるであろうか。』
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神にありますように、アーメン。」
(ローマ11:33〜36)

 パウロは、自分の考えをはるかに超えたところに、神様の壮大な意志をかいま見、それでも極めつくすことのできない神の計画を思い、神様に栄光を帰しました。ノアに対する契約を思う時に、私もそのような思いにさせられます。
 私たちが何かをする時に、私たちに先立って、神様ご自身がもっと大きな決意をもって、この世界に臨み、私たち人間に臨んでくださったということを心に深く刻みましょう。そのようにしてこそ、私たちの決意というものも内側からしっかりと支えられるのではないでしょうか。天に虹が広がる時に、私たちも神様の決意を思い起こしたいと思います。


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