心を変えた神

〜創世記による説教(18)〜
創世記8章1〜22節
エフェソの信徒への手紙2章1〜7節
2009年3月8日    経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)物語の転換点

 これまで2回にわたってノアの箱舟の物語を読んでまいりました。今日は第3回目であります。1回目は、「心を痛める神」と題して、大洪水に先だって、神が大洪水を起こすことを決意なさったという部分を読みました。
 2回目は、「心に留める神」と題してお話しいたしました。6章8節に「しかし、ノアは主の好意を得た」とあります。ノアのことを、主は御心に留められた。神様はノアを選び、ノアに向かって言われます。「一そうの大きな船、箱舟を造りなさい」。ノアは黙々とこれに従いました。聖書に出てくるノアは一言もしゃべっていません。言葉を発するのはすべて神様です。ノアはただ神様の命令に従うだけです。そして大洪水が起こりました。
7章の最後、24節では、「水は150日の間、地上で勢いを失わなかった」とありましたが、本日の8章はこう始まります。
「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた」(1節)。
この言葉は、洪水物語全体の分岐点、転換点のような言葉です。ここから水が減っていくのです。
「また深淵の源と天の窓が閉じられたので、天からの雨は降りやみ、水は地上からひいて行った」(2節)。
前回も申し上げましたが、当時の世界観では、もともとこの世界は大水に覆われていました。それを神様が天地創造の第2日目に、「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」と仰せになり、水は天の上と大地の下に分けられたのでした。大洪水は、そのように分けられたはずの天上の大水と地下の大水がこの地上を襲った、ということでありました。しかしこの8章1節を起点として、再び天の窓が閉じられ、地下の水もひいて、天地創造の秩序を戻し始めるのです。
「150日の後には水が減って、第七の月の17日に、箱舟はアララト山の上に止まった。水はますます減って第10の月になり、第10の月の一日には山々の頂が現れた」(5節)。

(2)アララト山

 アララト山というのは、紀元前13世紀中頃(アッシリア時代)から紀元前5世紀(ペルシア時代)に至るメソポタミア碑文に出てくるウラルトゥのことであろうと言われます(列王記下19章37節、エレミヤ書51章27節参照)。紀元前9〜7世紀には、このウラルトゥ王国が栄え、アッシリア帝国の脅威となっていたということです。おそらく、このアララトが世界で最も高い地域と考えられていたので、最初に姿をあらわしたアララト山の上に、箱舟は止まったのでありましょう。
ちなみに2003年にカナダで製作された「アララトの聖母」という映画をご存知でしょうか。この映画は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、オスマン・トルコと、その後の時代のトルコによる何十万人という規模(あるいはそれ以上)のアルメニア人の大虐殺を取り上げています。トルコ政府はこのアルメニア人の大虐殺を否定していまが、規模の理解に差はあるものの、それは動かしがたい歴史上の事実です。それは、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺にも匹敵するほどの大虐殺であったようですが、あまり教えられていない現代史のひとつであります。アララト山というのは、アルメニアの人々にとって、民族を象徴する聖なる山なのです。

(3)烏と鳩を放つ

 さて、それまで漂流していた箱舟は地面に底をつけます。そして40日経ってから、ノアは烏を放ちました。烏は飛び立ちましたが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりしました。
 その後しばらくして、今度は鳩を放ちました。水の減り具合を調べるためであります。鳩は、1回目はとまるところが見つからず、すぐに帰ってきました。更に7日待ってから、再び鳩を放ちます。今度は夕方になって、くちばしにオリーブの葉をくわえて、帰って来ました。美しい場面です。更に7日待って、再び鳩を放ちます。鳩はもう帰ってきませんでした。水が乾き、大地が潤い始めたということを表しています。この鳩が、最初に箱舟から出ていった最初の生き物ということになるでしょう。
 さて烏と鳩でありますが、そこに何か意味があるのでしょうか。烏というのは、その後の祭儀規定によれば、食べてはならない「汚れた鳥」(レビ11:5)になるのですが、ここでは特にそういう意味合いはなさそうです。ただ烏に対しては、ノアの特別な感情はないようですが、鳩に対しては違います。ノアは鳩を放った後、帰ってくるのをずっと待っている様子が伺えます。そして鳩が帰ってきたのを、ノアは「手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻し」(9節)ました。愛情が感じられます。「鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた」という表現も、そうです。
 鳩が平和の象徴とされるのは、このところに由来するものです。神様との和解の象徴でもあります。かつて「ピース」という紺色の箱のタバコがありましたが、あれは鳩が下向きになっていて、口にオリーブをくわえたデザインでした。(※説教では、和田誠のデザインと申し上げましたが、レイモンド・ローウィの誤りでした。和田誠がデザインしたのは「ハイライト」でした。)

(4)出船命令

 いよいよ船を出る時が来ました。
「ノアが601歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いた。第二の月の27日になると、地はすっかり乾いた」(13〜14節)。
ノアは箱舟の覆いを取り外して外を眺めました。そしてついに神様から「箱舟から出よ」という命令がくだされます。もう大丈夫だということでありましょう。
 「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい」(16〜17節)。
 「船から出るように」と命じられるのも、「船に入りなさい」と命じられた神様であります。ノアはその神様の命令に黙々と従っていくのです。
「そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た」(18〜19節)。
 さてノアが箱舟から出てきて、最初に行ったことは、祭壇を築いて主を礼拝することでありました。ノアの神様に対する感謝の気持ちがよく表れていると思います。
「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた」(20節)。

(5)洪水で、何が変わったのか

 さて改めて考えてみなければならないことがあります。それはこの洪水の後、果たして何かが変わったのだろうかということです。世界は少しでも良くなったでしょうか。人は少しでもよくなったでしょうか。洪水以前と、以降では何も変わっていないのではないでしょうか。人間も少しも良くなっていないのではないでしょうか。
 神ご自身が洪水の後で、なおも「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(21節)と言っておられます。人間には期待できない。人の心には悪い思いがある。人間は神の御心に深く抵抗するものだ。大洪水のような恐怖があっても、それは人間を変えない。それが洪水の後、神が出された第一の結論でありました。
 神様がもしもそれだけを結論づけられたのであれば、やはりこの世界を終わりにしてしまった方がよいということになったであろうと思います。しかし神様は、ここで私たちの想像を絶するとてつもなく重大な決意をなさるのです。今の「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」という言葉をはさんで次のように言われました。

「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは二度とすまい。
地の続くかぎり、種まきも刈り入れも
寒さも暑さも、夏も冬も
昼も夜も、やむことはない。」
(21〜22節)

 何という言葉でしょうか。これは、どんなに人間が神様に背いて、神様に逆らって生きようとも、神様の方では決して人間を裏切らないということです。人間の状態いかんにかかわらず、神はこの世界と共にあり、忍耐し、支え続けるということです。
 神様は壮大な計画を立て、天地を創造されました。そこには、よい世界であるように、という神の夢がありました。この世界には、神様の夢が込められているのです。その神の夢、壮大な計画は、人間の反抗、不信仰によって中断されてはならない。洪水は、人間の方には何の変化ももたらさなかったかも知れません。相変わらず悪いままなのです。しかし、神の中で、撤回されることのない重大な変化が起きた。それは「二度とこのようなことはすまい」という決意でありました。
 この言葉の直前には、こう記されています。「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた」(21節)。ノアが捧げた捧げものの香りをかぎながら、ご自分の心に向かって語りかけられた。いわば神様の独り言です。しかし神様の独り言は、人間のつぶやきとは違います。しかもその「心」というのは、あの洪水を起こす決意をなさった時に、痛みを覚えられたあの「心」です。またノアとその家族を「御心に留められた」あの「心」です。今ご自分のうちで、再びその「心」に語りかけられたのです。何を語りかけられたかと言うと、「このようなことは二度とすまい」ということです。神様は今や、限りない忍耐と寛容さをもって人間とかかわり続ける決心をされました。神様は一番初めから、ご自分が造られたものとかかわりを持ち続けて来られましたが、それが今やひとつの決意となって、はっきりと表れてきたのです。

(6)反対方向への出発

 神と人間の間には大きな裂け目があると言いました。不調和がある。釣り合いが取れない。歪んでいる。その歪んだ関係を正すために、神は世界をやり直す決意をもって洪水を起こされたのですが、それでも人間は変わらないことに気づいたのです。その裂け目を埋めるために、何をするか。とうとう神はそれと全く反対の方向へと出発し始めるのです。つまり世界を変えるのではなく、神ご自身が変わるという道であります。それは先ほど申し上げましたように、どんなに人間が自分に逆らい、裏切り、反抗し続けようと、これを見捨てない。共に居続けるという、とてつもない忍耐の道です。それが大洪水の結果、変わった唯一のことであります。人間が変わったのではない。世界が変わったのでもない。神が新たな決意をなさったのです。
 私は、その神様の決意の先に、イエス・キリストの十字架が見えてくるように思いました。今日はエフェソの信徒への手紙を読んでいただきました。
 「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(エフェソ2:1)。
「(わたしたちは)生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、−あなたがたの救われたのは恵みによるのです−キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(エフェソ2:3〜6)。
 あの神の決意は、この新約聖書の出来事へとつながっていくのではないでしょうか。
私たちキリスト教会の洗礼は洪水にたとえられます。水を通り抜けて、新たな命を得る。神様はその道を、イエス・キリストを通して示されたと、私は思うのです。

(7)教会から外の世界に出て行く

 さて最後に、今の私たちに照らしあわせて、もう一つのことを申し上げたいと思います。今日の世界も、大洪水、嵐のような世界です。そういう世界において、私たちの避けどころ、私たちの隠れ家であるという意味において、この箱舟は教会を象徴しているともいえます。シェルターです。嵐の中、私たちを守ってくれます。しかし私たちはいつまでもそのシェルターの中にいるのではありません。教会は一旦社会からひいて、自分を立て直す場所ですが、そこからこの世界に向かって出て行く場所でもあります。ノアとその家族と動物たちは一体何のために、箱舟に入ったのか。それはやがて出て行くためでありました。いつまでも閉じこもっているわけではありません。
「箱舟から世界へと出て行きなさい」と神様は命じておられる。私たちは、この神様の声を聞かなければならないでありましょう。教会は世界に目を向けなければならない。そこで何が起こっているかしっかりとそれを見つめ、自分のこととしてとらえ、神様のご用のために働く。神様は、ここで充電させる。力を蓄えさせ、派遣されるのです。日本は昨年来、大変な不況に陥り、職場を失い、住まいを失った人もたくさんあります。そのような嵐の中で、私たちが何をするようにと命じておられるか、その神様の声を聞いていきたい。それは祝福された派遣であると思います。


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