心に留める神

〜創世記による説教(17)〜
創世記7章1〜24節
ヘブライ人への手紙11章6〜7節
2009年2月8日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)一つの方向のメッセージ

 ノアの箱舟の物語を読んでおります。前回は、6章全体を読みましたが、説教では、主に6章1節から8節の洪水物語の本論が始まる以前の部分について語りましたので、今日は、6章9節以降の部分も視野に入れてお話しいたします。
 創世記という書物が、幾つかの別の時代に書かれたものをもとにして、後の時代の人々が編集したものであることは、すでに何度か申し上げました。この洪水物語はどうかと言えば、最も古い資料(J)に、少し後の時代の資料(E)、さらに後の時代の資料(P)が加えられて、修正、編集、合成がなされたものと言われます。ですからこれまでのものよりも入り組んでいますし、重複や矛盾が随分あります。たとえば、読んでいてお気づきになった方もあるかも知れませんが、6章19節では「すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて」(J)と書かれているのに、7章2節では「あなたは清い動物を七つがいずつ取り、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい」(P)と記されています。また洪水の日の長さも、7章12節では「雨が40日40夜、地上に降り続いた」と書かれていますが(J)、7章24節では「一五〇日の間、地上で勢いを失わなかった」(P)とあります。
 このように洪水物語は幾つかの伝承の合成、イスラエルの初期の神学的伝承と後期のものとの合成であることは、学者の間では、誰もが認めていることであります。これまではそれらを区分けして解釈することが多かったのですが、最近ではむしろそうした区分けはせずに、すでに合成されたものとして取り扱おうとする関心が高まっております。資料分析を否定せず、文体の相違やニュアンスを参考にしながらも、テキスト全体に聞くことが大事だということでしょう。古い要素も新しい要素も共に同じ方向のメッセージを語っているからです。

(2)バビロニア神話との関係

 もうひとつ触れておいた方がよいと思われることは、洪水物語というのは、創世記のオリジナルではないということです。このような大洪水の物語は、旧約聖書だけではなく、バビロニアの神話にも出てまいります。それは1872年に発見されたギルガメシュ叙事詩の一部にあるもので、紀元前3000年位にも遡る古いものです。それに比べれば、聖書はずっと新しいのです。一番古いものでも、せいぜい紀元前1000年位でしょうか。ですから2000年位の間、語り継がれてきたものを、聖書の著者も借用し、参考にして書いているということを私たちも認めなければならないでありましょう。洪水発生の告示、箱舟、家族と動物の乗船、山頂への着陸、鳥を飛ばしたこと、洪水後の犠牲、虹など、ずいぶん似ているのです。
しかし聖書はそういう材料を使いながら、トーンとして全く違った物語になっていることも見逃してはならないと思います。旧約聖書の洪水物語は、唯一の神によってこれらが導かれていること、そしてその神が一体どういうお方であるかということをはっきりと示しているのです。

(3)ノアの信仰、正しさ

 「これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」(6:9)。
 ノアは自分が被造物であることを受け入れ、神を神とし、神に対してきちんと応答する人間でありました。ノアは信仰者のモデルです。ノアは聖書の中では一言もしゃべっていません。ただ黙々と神の命令に従うだけです。恐らくノアは、まわりの人から笑いものにされ、気が狂ったように見られたに違いありません。それでも彼は淡々と神の命じられた通りに、箱舟を造っていきました。ノアにはその命令は奇妙で不可解に思われたことでしょう。「乾いた土の上の舟を造る?」それは彼にとって服従と信仰の試練でした。そして彼は、この試練を克服しました。ヘブライ人への手紙の著者は、こう言います。
 「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造った」(ヘブライ11:7)。

(4)神のまもりの業の完成

 この箱舟は、まさにこの上なく巨大な居住用船舶です。1アンマというのは、中指の先からひじまでで、約45センチメートルです。1アンマを0.5メートルとすれば、2アンマで1メートル。(アンマの数字を2で割ると、大体のメートルになります。)そうすると、長さはほぼ150メートル、幅はほぼ25メートル、高さはほぼ15メートルという大きな船です。
 ノアたちがすべて箱舟に乗り込むと、「主はノアのうしろで戸を閉ざされ」(7:16)ました。これはバビロニア神話にはない言葉です。神の恵みがここに示されています。神が閉ざされたということは、「箱舟による加護」(神のまもり)というわざが神の力によって完成したことを示しているのでしょう。ノアがあわてて自分で閉じたのではなく、彼らを守るために神が仕上げとして閉ざされた。それは、この物語の真の主体が誰であるかを示しております。
 「洪水」と訳された言葉(マップール)は、宇宙の一部分、すなわち天上の大洋を意味しています。創世記1章6節にこういう記述がありました。
「『水の中に大空あれ。水と水を分けよ』。神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。」
 ここからも分かりますように、当時の世界観では、水は神様によって上と下に分けられたと信じられていました。大空の上には海があり、地面の下にも水が閉じこめられている。天全体は球体のようになっていて、その格子窓のような穴から天の上の水が雨となって下に落ちてくるのです。
 ですからこの大洪水というのは、単に大雨が降り続いたということではなく、全宇宙的規模の破局です。すなわち天上の大洋が地上になだれ落ちて来ると同時に、それまで円板形の大地の下に閉じこめられていた原初の海が、今や口を開けた割れ目を通じて地上に吹き出してくるということです。創造の際に、神様によって上下に分かたれた原初の海の半分ずつ(1:7〜9)が、ここに再び合流した(8:2)。被造物は今や再びカオス(混沌)の中に沈み始めた。そうしたことが描かれているのです。

(5)物語の転換点

 しかし「神はノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留められ」(8:1)ました。このところから、物語は新しい展開をします。神様は世界をもう一度カオスの中に押し戻そうとしながら、それでもなお、あるものを御心に留め、残していく。そこから救済、救いが始まっていくのです。一切のものを切り離してしまうカオスと死の水でさえも、ただひとつ切り離せなかったものがあった。それは、被造物に対する神様の思い、関わり合いでありました。神が心に留められるということは、相手に対して恵みをもって関わり合おうとする、神様の深いあわれみの行為です。神が心に留められるということ。そこからのみ希望が与えられ、新しい生が可能になっていくのです。洪水物語も、そこからのみ新しい段階、第三段階に入っていきます。混沌として覆っている水がだんだんと引き始めていく。そして箱舟は再び大地にしっかりと固定されていくのです。
 当時のイスラエルの人たちは、「神様はもはや自分達を忘れてしまったのではないか」と思って絶望していました。忘れ去られるということは、私たちを苦しめる大問題です。人と人の間においても、「自分はもう誰からも顧みられない」という思いは本当に私たちを打ちのめすものです。神様に信頼して生きていこうとする人間にとっては、「神様が自分のことを忘れ去ってしまったのではないか」という思いは、信仰の危機であると思います。神様はノアを御心に留め、そこから新しいことを始められたということは、この時代の人々にとって大きな希望でありました。今日に生きる私たちにとっても、「神が心に留められる」ということは何よりの、いやある意味では唯一の希望ではないでしょうか。

(6)裁きと救い

 さてこの物語は、どのような意味をもっているのでしょうか。
 まずここには、裁きというものが色濃く出ています。神様の恵みについて多く語る聖書の中で、この物語は「洪水をもって世界を裁く」という神様の厳しい面を伝えています。あまり聞きたくないメッセージですが、「神様は人間の罪をいい加減に扱われる方ではない、正しい裁きをなさる方である」ということを、私たちはごまかさずに聞かなければならないでありましょう。
 しかし、洪水物語は、裁きだけではなく、救いについても語っています。しかもそれは義人ノアの救いだけではありませんでした。ノアの信仰が認められ、ノアは神様によって御心に留められ、救いにいたりましたが、その時ノアの家族も御心に留められ、救われました。
 私は、使徒言行録16章に記されている言葉を思い起こします。パウロとシラスが牢獄に捕らえられていた時に、大地震が起こり、その牢の扉が全部開いてしまいました。看守は囚人たちがみんな逃げてしまったに違いないと思い込んで、剣を抜いて自殺しようとします。そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」と叫びます。看守は恐れおののきながら、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と尋ねるのです。そこでパウロとシラスは、有名な言葉を語りました。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)。
 ノアの場合もそうでした。ノアもその信仰が認められた時に、ノアだけではなく、ノアの家族も救われました。「あやかって」という言葉があります。ノアの信仰にあやかって、ノアの家族も救われた。「看守さん、あなたの信仰にあやかって、あなたの家族も救われます。」
私たちの家族は、みんながみんな信仰をもっているわけではないかも知れません。それでも私たちが主イエスを信じ、それにつながるときに、家族全体が救いの中に入れられるということであります。「とりなしの信仰」は、裏切られないのです。

(7)ノア・プラン

 私がかつて伝道師として働いておりました阿佐ヶ谷教会に、小森厚さんという方がおられました。彼は、日本に最初にやってきたパンダのカンカン、ランランの飼育係として有名でありました。その後、日本動物園・水族館協会会長も務められました。小森さんは、『信徒の友』に連載されたものをまとめて『聖書の中の動物たち』という書物を出版されています。ブラジルのサンパウロで世界動物園園長・水族館館長会議というのが開かれた時には、(私はサンパウロにいたのですが)、ブラジルの日系の人たちのために、同名の講演をしてくださいました。小森さんは、「『聖書の中にはどのくらいの数の動物が出てくるのですか』と聞かれると、『すべての動物です。ノアの箱舟には、すべての動物が乗ったと書いてありますから』と答えるのです」と冗談っぽく語られました。私は小森さんが、この本の「あとがき」で書かれていることは、現代に生きる私たちにとって、とても重要なことであると思います。

 「現代、地球上では、人間の無秩序な開発によって野生動物の多くが、その住みかを失い、絶滅のふちに追い詰められています。この世に、神様が『良しとされて』存在した生物の種は、いったん滅びてしまうと、それを人の手で再び創りだすことはできないのです。そこで、もし野生では生き残ることができないのであれば、その種を、動物園などに収容して、飼育のもとでその増殖を図ることが必要となってきました。このような事業を『種の保存計画』と呼んでいますが、イギリスでは、これを『ノア・プラン』すなわち『ノアの箱舟計画』と呼んでいます。現代の凄まじい環境の破壊をノアの洪水にたとえ、滅ぼしてはならない動物たちを収容し、保存を図る動物園などを箱舟とみなし、やがて何十年か先に、環境破壊の洪水が去ったときに、そこで生き残り、増えている動物たちを元の野生に戻してやろうという計画なのです。」
(小森厚『聖書の中の動物たち』あとがき)

 小森さんがおっしゃるように、私たちの現代の世界は洪水に満ちあふれたような世界です。それは動物だけではなく、私たち人間にも襲いかかっておりますし、この地球全体がいつ破滅してもおかしくないような時代に突入しようとしています。そうした中にあって、私たちは一体何を信頼し、どこによりどころをおいて生きるのか。神様は、私たちがそのような現代を生きるときにも、箱舟のように救いの道を示し、それに連なることによって洪水を乗り切る、そのことを示し、また約束してくださっているのではないでしょうか。
 その意味で、教会は、洪水のような現代世界の中に漂う箱舟のようなものであるということができるでありましょう。ある人が「信仰とは、従うこと、避難し、漂いながら待つことだ」と言っております。ひとりひとりがいかに生きるか。神様とつながって生きる。神様との正しい関係に入れられ、神様の御手の中で信仰をはぐくみ、御心にかなうものとして生きていきたいと思います。


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