心を痛める神

 〜創世記による説教(16)〜
 創世記6章1〜22節
 ローマの信徒への手紙2章5〜11節
 2009年1月25日
 経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)オバマ大統領就任

 先週は、アメリカ合衆国のオバマ大統領就任で明け暮れた1週間でありました。火曜日の深夜、就任の演説をお聞きになった方もあるのではないでしょうか。まさに空前のオバマ・ブームです。(日本では昨年「おバカ・ブーム」というのがありましたが、それとは大違いです。)
オバマ大統領の就任演説は、すばらしいものでした。過去に目を向け、自己批判しながら、しかし卑下せず、人を奮い立たせる力をもった言葉でありました。謙虚に現実を見つめながら、それを超えた方に耳を傾ける時に聞こえてくるような言葉です。時には厳しいことを語りながら、しかし根源的なところでは、人間を信じている。人間を信じるということは、人間を創られた方を信じるということです。それはよき意思をもった神がおられるという信仰に根ざしたものであると思います。聖書の語っているメッセージを、聖書の言葉を用いずに語られたような演説でありました。それがどのように実を結んでいくか、過剰な期待は控えて、しかし祈りをもって見守っていきたいと思っております。
 その前の1週間は、どうであったでしょうか。イスラエル軍によるパレスチナのガザへの空爆のニュースで終始した1週間でありました。イスラエル政府は、このオバマ大統領就任をにらみ、その前の1週間、まだブッシュが政権を握っている間に駆け込み空爆をするという感じがいたしました。そうしたやり方に対して私たちは、厳しい目を向けていかなければならないと思います。オバマ・ブームに喜び浮かれていられません。ガザの人々は、今も悲嘆にくれ、厳しい状況の中を生きているのだということ、それは1週間で過ぎ去るものではないということを忘れないようにしたいと思います。神様も決してこの世界を放置してはおられず、強い者の都合の犠牲になって苦しむ弱い人々のことをお忘れになりません。

(2)神はこの世界を放置されない

 わたしたちは、これからノアの箱舟の物語を読んでいくことになりますが、まさにここに記される物語の前提は、神がこの世界の悪を放置されるお方ではないということであります。神様は、人々の悪い振る舞いを見過ごしにはされない。力を持つ人々の暴虐のもとに誰かが苦しんでいる状況で、神が沈黙されないということ、神が力をふるわれるということは救いを意味することであります。正義の神が生きておられるということであります。
 今日は、創世記にあわせて読んでいただいたローマの信徒への手紙も、そういう正しい裁きをなさる神が生きておられるということを語っています。

「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。」
(ローマ2:6〜7)

(3)神話による導入

 ノアの箱舟の物語に先立って短い説話が記されています。「さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした」(1〜2節)。
「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった」(4節)。

 神話的な色彩の強い奇妙な説話です。ネフィリムというのは「神の子」と「人の娘」の混血であり、神と人間の中間的存在です。
 この箇所は、旧約聖書中で、最も理解しがたい箇所のひとつであると言われます。
 というのは、旧約聖書には、根本的に神と人は違うのだという考えがあるからです。旧約聖書は、当時すでに存在したさまざまな神話伝承の影響を受けて書かれていますが、これなどもまさにそうであろうと思います。時代は少し後になりますが、ギリシアなどでは、神と人の混血はすばらしいこと考えられて、人間のあこがれの対象でありました。しかし、聖書のこの箇所では、神の子(天使のような存在)と人間の混血は忌むべきこととして数えられています。
 この後の5節に、「地上に人の悪が増し」と続けて記しているのですが、その「悪」が一体何であるか、記されていません。恐らく何か特定のことではなく、創世記3章に始まるアダムとエバ、カインとアベルの物語に端的に描き出される人間の悪、レメクの復讐心など、すべてのことを指していると思われます。しかしこの直前の「神の子」と「人の娘」の交わりも含まれるのだろうと思います。そういう意味では、「神は神、人は人」という聖書独特の絶対的区別は、ここでも意識されているのでしょう。
 そういう絶対的な区別の意識があったからこそ、「イエス・キリストにおいて、神は人となった」というキリスト教のメッセージは、ユダヤ人たちにとって受け入れがたいものであったのです。一方、そうした絶対的な区別意識があるからこそ、「神が人となった」というキリスト教のメッセージは驚きであり、逆説的に大きな意味を持ってくるのです。

(4)人間の寿命

 さて、そうした事態をよくないと見た神は、自らに語りかけます。
「『わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉に過ぎないのだから。』こうして人の一生は120年となった」(3節)。これも、私はとても興味深く読みました。神が人間を造ったことを後悔する(5〜6節)にいたる中間的判断というか、警告のようなものかと思います。
 第5章の系図では、人間はみんな900歳前後生きたことになっていますから、ここで一気に120年という現実的な数字が示されたわけです。この後再び、11章の系図で、300歳、400歳という年齢が出てきますが、申命記最後にあるモーセの寿命は、ちょうど120年になっています。
 おもしろいと思ったもう一つの理由は、現代では人間の平均寿命というのは、これが書かれた当時に比べて格段に伸びましたが、最高寿命というのはさほど変わっていないということです。最近の医学、科学によれば、人間の生物学的絶対寿命は「125年」と言われていますので、聖書はそれにかなり近いことを、はるか大昔に言っていることに驚かされます。
 さてこの説話について月本昭男氏は、興味深い解釈をしています。彼によれば、この説話はイスラエルの王国時代に書かれたもので、そこには当時の社会が隠し絵のように描かれていて、それが「悪」として批判されているというのです。「神の子」というのは、実は「王」のことを暗示している。「王」は神の子であると言われていました。当時の王は、婚姻の原則から逸れて、美しい娘を見ては、好き勝手にどんどん妻にしていった。そこからいわば、次の「名高い英雄たち」(為政者たち)が生まれてくる。そういう状況が隠し絵になっているというのです。
 私は、それを読みながら、ダビデやソロモンのことを思い起こしました。ダビデは自分の部下であるウリヤの妻バトシェバを奪い(サムエル記下11章)、ソロモンはハーレムに700人の「妻たち」と300人の「側室」を抱え、晩年は彼女たちに心を惑わされました(列王記上11章)。

(5)地上の悪

「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(5〜6節)。
 先ほども申し上げたとおり、この「人の悪」が何を指すのか、記されていないのですが、一言で言うならば、人間は神に造られたものであるにもかかわらず、被造物であること、神によって造られた存在であることをやめてしまったことであると言えようかと思います。神を創り主としてあがめず、むしろ自らが主人のようになろうとする。本当に自分をいつも正しい方向へと導いてくれる真の神ではなく、自分にとって都合のいい何か(偶像)を神とすることによって、自分を正当化し、自分の思いを通そうとする。そうしたことであると言えるでしょう。それは、神がこの世界を創られた意図に反するものでありました。

(6)神が後悔する

 「主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も空の鳥も、わたしはこれらを造ったことを後悔する』」(7節)。
 神が後悔する。これも理解しがたいことです。神様でも後悔することがあるのか。神は全知全能であり、絶対者であり、人間と全く違った方です。それならば、どうして後悔したり、悩んだりするのか。
 確かに「神は人ではないから、偽ることがない。人の子ではないから、悔いることがない」(民数記23:19)、「イスラエルの栄光である神は、偽ったり気が変わったりすることのない方だ。この方は人間のように気が変わることがない」(サムエル記上15:29)という言葉もあります。これは基本的には正しいと思います。聖書の神様は、少なくとも勝手気ままなお方ではありません。例えば、ギリシア神話などと比べると、それがわかると思います。ギリシアのオリンポスの神々は人間と同じように、嫉妬したり、怒りにまかせて人を殺したり、罰したりする神です。しかし聖書の神は勝手気ままではなく、それでいて無感情でもない。特に人間のことに無関心ではいられない。超然としていられない。
 聖書の中で、神が自分で行った行為を「後悔した」と言うのは、この箇所の他には、一つだけ出てくるようです。それは、イスラエルの最初の王としてサウルを選び、立てたことについてです。
「主の言葉がサムエルに臨んだ。『わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない』」(サムエル上15:11)。
「神が後悔する」ということをどう理解すればいいのか。神の「後悔」は、地上における人間の悪のゆえだ、ということを見逃してはならないと思います。サウル王の場合もそうです。神が勝手気ままに心変わりしたわけではありません。人間の悪は、神に創造主としての業さえも「後悔させ、心を痛ませる」程に重いものであるということであると思います。そのようにして、大洪水を起こされるのです。

(7)神の心の痛み

 しかしながらこの大洪水の始まりについて、私たちは人間の悪しき姿と、そうした人間を造ったことに対する神の後悔の他に、二つのことを見据えておきたいと思うのです。その一つは、神はノアを救いの担い手として立てられたということであり、もう一つは、神が心を痛められておられるということです。この二つのことが将来を指し示しています。神様は、「すべて滅ぼす」と言いながら、そこに何か躊躇があるように思えるのです。
 ユニオン神学校の小山晃佑先生は、「愛とは落ち着かないことだ」と言われました。誰かを愛すると、居ても立ってもいられなくなる。超然としていられない。無関心でいられない。その人のことが心配で、心配でたまらない。気になって仕方がない。私たちは、ここでもそういう神の姿を見抜かなければならないと思います。人間を造ったことを後悔し、「裏切られた!」と怒りが頂点に達して、罰として、これを滅ぼすと言っているのではありません。
 神は怒っておられるのではなくて、心を痛めておられる。悲嘆にくれておられる。神は被造物に敵対して立っておられるのではなくて、被造物の味方として立っておられる。この「心を痛める」という語は、3章16節で女に対する神の宣告の言葉として使われたのと同じ言葉だそうです。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産む。」
その「産みの苦しみ」と同じ「苦しみ」を、今、神ご自身が味わっておられるということです。
 この心を痛める神について、旧約聖書の中で最も適切に、そして最も美しい言葉で記しているのが、ホセア書の11章でありましょう。イスラエルの民は、神の大きな愛を受けていながら、それに応えず、自滅しようとしています。しかしそれでもなお、神は、それを「自業自得」として放っておくことはできないのです。

「ああエフライムよ
お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ
お前を引き渡すことができようか……。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる」(ホセア11:8)。

 これが聖書の神様の姿です。しかしそのような神の愛が貫かれるためには、何かが起こらなければならない。私は、この時にすでに、神はご自分の独り子イエス・キリストを私たちのところへ遣わすという決意をなさっていたのではないかと思うのです。
 この創世記の6章においては、そこまでのことはまだ示されていないかも知れませんが、そこへとつながっていく予兆のようなものがあります。神はもうこの被造世界では、どうしようもないことを思い、「やり直そう」と決意された。それでもなお、滅ぼしつくすのではなく、一人の義人、神に従う無垢な人、神と共に歩んだ人、ノアを心に留め、それを救いの器として選び出し、新しい創造を、このノアによって始められるのです。大洪水自体も、全く新しいことを始めるための準備であったということができるのではないでしょうか。


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