神と共に歩む人間

〜創世記による説教(15)〜
創世記5章1〜32節
ヘブライ人への手紙11章1〜5節
2008年11月2日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)召天者記念礼拝

 本日、11月第一日曜日は召天者記念日です。今年は、召天者の名簿を1枚で入るように作り直していただき、礼拝出席者全員にお配りするようにいたしました。受付でお受け取りになられたかと思います。1ページから3ページまでが教会員であった方々であります。356人であろうかと思います。これは没年月日順になっていますので、3ページ目の終わりの方が最近、召天された方々であります。この1年の間に天に召されたのは、この表の終わりの7人の方々です。お名前を読み上げますと、飯塚禮二兄、小林イマ子姉、笠原とよ姉、小田原裕子姉、石川美智子姉、中薗シヅ姉、松尾久子姉の7人です。松尾久子姉は、本日の週報にもお載せしましたが、10月15日、カリフォルニアで召天されました。その他、教会関係者としては、岡冨美姉が天に召されました。
 その他の方々もなつかしい方々のお名前が出ていますし、この表には名前の出ていない皆様のご家族で先に天に召された方々のことを思い起こしておられる方もあろうかと思います。今日はそうした天に召された方々のことを心に留めながら、礼拝をいたしましょう。またこの機会に、私たち自身の終わり、死についても忘れないようにしたいと思います。

(2)アダムの系図の形式と特徴

 創世記の物語を順々に読んでまいりまして、今回、私たちに与えられたテキストは創世記の第5章であります。今、読んでいただいた通り、これはこれまでのようなドラマではなく、実に味気ないテキストであります。しかも歴史的信憑性は全くありません。正直に申し上げて、ここで一体何を語ればよいのか戸惑い、いっそのこと飛ばしていこうかとも思いましたが、太古の昔、これを何らかの思いをもって書いた人がいたわけであり、それを何らかの意図をもって創世記の一部として編集した人がいたわけです。そこには何らかの信仰があったはずであります。そうしたことに心を留めるのも召天者記念礼拝にふさわしいことであろうと思います。
 まず、この系図の形式に目を向けてみましょう。短い序文に続いて、アダムからノアまでの十代にわたる系図が綴られています。大体こういう形式です。「誰それは何歳になったとき、何とかをもうけた。誰それは、何とかが生まれた後、何年生きて、息子や娘をもうけた。誰それは何年生き、そして死んだ」。この形式が用いられていないのは、最後のノアだけです。ちなみにそのノアも9章28節に、その後半が記されることになります。そしてそのすぐ後の10章と11章には、ノア以降の系図が記されています。
 この形式に、あるコメントが加えられている人物が3人います。それは最初のアダムと、七代目のエノク、そして九代目のレメクであります。この3人については、あとで少し触れたいと思います。
 以前、創世記は一人の著者によって書かれたのではなく、幾つかの時代に書かれたものが後に編集されたということを申し上げました。天地創造物語も二つありました。創世記の1章と2章4節までのところには、神がこの世界を七日間で創造されたということが荘重に記されていました。2章4節以下の創造物語は、神が土の塵で人を造り、その鼻に息を吹きかけると、生きるようになったという、何とも素朴な物語でありました。書かれた順序としては、こちらの方が古く、1章の天地創造物語の方が新しいのです(祭司資料)。これまで読んできたアダムとエバ、カインとアベルの物語のほとんどの部分も古い方に属しています(ヤハウェスト資料)。
 私たちが今日、読んでおります系図は新しい方の資料に属しています。つまり創世記2章4節、「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」という、あの記述に続くものとして読めば、つながりがよくわかります。5章最初の系図の序文には、こう記されています。「神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された」(1節)。これはまさに、1章27節の言葉、「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」という記述に基づいたものです。

(3)アダムの系図の意味

 それでは、このアダムの系図には、どういう意味があったのでしょうか。先ほどの創世記1章27節の直後、28節にはこう記されていました。
「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて従わせよ』」。
 今日の系図の第一の意味は、この祝福、最初の人間に神様から与えられた祝福が、エデンの園における人間の不従順や、カインによるアベル殺害にもかかわらず、継続している(ことを明らかにしようとしている)ということです。つまり、アダムからレメクにいたるまで全員、「息子や娘をもうけた」と書き加えられているのは、その「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という祝福がそのように成就していったということです。
 第二は、最初の人間アダムと、洪水後の人類の始祖となるノアとの間に系譜的な連続性があることを示すということです。つまりアダムの系図の最終的な目的は、人類とすべての生き物を洪水から救うことになるノアの紹介に置かれているのです。それによって、ノア以降の人類(それゆえに私たちもまた)、神の形に似せて造られた最初の人間(アダム)の末裔であるということを示そうとしているのでしょう。繰り返しますと、第一の意味として、人類の広がりを語っており、第二の意味として、ノアという一人の人物へと焦点を据えているのです。横にも縦にもつながっているということです。

(4)年齢について

 次に、この系図を見て無視できないのは、彼らの年齢であります。私たちの常識からして、あまりにも長生き過ぎます。「エノクは365年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(23〜24節)。これを例外としますと、一番早死にの人でも、レメクの777歳です(31節)。
ちなみにレメクという名前は4章のカインの系図にも出てきました。「カインのための復讐が7倍なら、レメクのためには77倍」という言葉がありましたが、この5章のレメクは777年生きたということですから、何かしらの関係があるのかも知れません。はっきりとはわかりません。
 それにしてもこの何百歳という年齢は何を意味するのでしょうか。それを合理的に説明しようとするさまざまな推測があります。たとえば、ひとつの名前が個人の名前ではなく世襲名であって、何人かが同一名を名乗ったという説があります。あるいは古代の1年というのは現代の1年より短かったという説。たとえば新月から新月までの1ヶ月を1年と数えたのだろうということです。ただし、もしもそうだとすると、エノクは65歳で子どもを産んだということは、12で割ると、5歳で子どもを産んだことになってしまいます。
 恐らくこれを書いた人は、この長命を文字通りに理解されることを期待して書いたのであろうと思います。つまり、神によって造られた人間は、神の祝福を受けていたがゆえに長命であった。それに比べて、この著者の時代には(そして今日でもそうですが)、長生きしてせいぜい100年位であるのは、神の祝福を受けられなくなっているからだ、と言おうとしているのです。
 その後11章に洪水以降の人間の系図がありますが、これを見ると、最初のセムは100年足す500年で600年、その後400年、300年、200年と、少しずつ減っていきます。アブラハムになると、175歳にまで減っていきます。あるいは申命記の最後(34:7)によりますと、「モーセは死んだとき、120歳であったが目はかすまず、活力も失せてはいなかった」と書いてあります。このあたりまで来ると、まだちょっと、無理があるけれども、大分現実的な数字になってきたなと思いがいたします。

(5)人間の寿命、死

 そのように最初の人間は神に近く歩み、大きな祝福を受けていたがゆえに、長命であった、ということを言おうとしているようです。しかしながら、それでも限界が定められていました。寿命がありました。千年生きることは許されていなかったということは注目すべきでありましょう。彼らでさえも、永遠に生きる者ではなかったのです。
 私たちはいつか死ななければなりません。普段はそのことを忘れて生きていますが、それは厳粛な事実です。中世の修道士たちは、「メメント・モーリー」と挨拶したそうです。これは「死を覚えよ」ということです。「あなたはいつか死にますよ。」「そういうあなたもいつか死にますね」という挨拶。何かけんかを売っているようですが、そうではありません。いつ死ぬかわからないからこそ、今日一日を精一杯大切に生きなければならない。万一、今日死ななければならなくなったとしてもいいような生き方をしよう、ということであります。
 本日の創世記のテキストには、「誰それが何年生きて、子どもを産んで、そして死んだ」という単純な事柄の羅列が、10代にわたって記されています。考えてみれば、私たちがこの世に生きた記録というのは、100年単位で見れば、結局はそういうことしか残らないのではないでしょうか。あとはすべて消え去っていきます。お墓に行くと、名前が記されていて、生年月日と没年月日だけが書いてある。何か寂しいようですが、それが現実であります。
先ほどお配りした経堂緑岡教会の召天者名簿を見ても、1ページ目の方々は、もうほとんどわからない方が多いのではないでしょうか。

(6)神の祝福の連鎖

 そうであれば、私たちの生というのは、果たして意味があるのでしょうか。私たちは何をよりどころに生きていけばいいのでしょうか。
 ひとつは、私たち個人の生きた記録は、それだけしか残らないけれども、神様の祝福は、この系図が示しているように、世代から世代へ引き継がれるものであるということであります。経堂緑岡教会の召天者名簿もそれを表していると思います。この味気なく見える名前のリストは祝福が引き継がれてきたことを示しています。私たちの生は、そのような大きな神の祝福という長い、長い鎖の中に、組み込まれているのです。個人個人の記録は残らなくとも、神様の祝福は、その時代時代を生きた人々によって伝えられてきましたし、これからも伝えられていくでしょう。
 私は、ただ単に親子、親族の血統のことだけを言っているのではありません。子どものおられない方も同じ神様の祝福の連鎖に加えられています。その人の生き様、あるいは生きた証が伝えられて、その次の世代のものが祝福を受ける。
 教会という組織自体がまさに、そうした祝福の鎖をつないできた母体であると言えるでありましょう。私たち自身、そこで先輩方を通して祝福を受けてきました。召天者記念礼拝の今日、改めてそのことを感謝したいと思います。そして私たち自身の生き様が、次の世代へと祝福を伝える役割を果たしているのです。私たちの名前がやがて百年後に消えていこうとも、あるいは名前しか残らなくなっていたとしても、その祝福の連鎖の中に加えられているのだということを喜びたいと思います。

(7)エノク

 「何をよりどころとして生きていけばいいのか」を考える、もう一つのヒントは、エノクであります。このエノクだけは、他の人と違う書き方がなされています。

 「エノクは65歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、300年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは365年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(21〜24節)。

「エノクは死んだ」とは書いていないのです。「神が取られたのでいなくなった」。なかなか意味深長な、そして不思議な書き方です。そして、エノクが「神と共に歩んだ」ということが二度も強調されて記されています。
 ヘブライ人への手紙は、このところをこのように解釈しています。
 「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなった。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。」(ヘブライ11:5)。
 ここに、私は一連の系図の鎖に、一つの亀裂があるのを見ます。私たちは、それを素直に喜びたいと思うのです。神様が不思議な形で介入されることによって、エノクだけが他の人とは違った形で、天に上げられたのです。

(8)イエス・キリスト

 それは、イエス・キリストによって示される大いなるドラマの予告編のような気がいたします。イエス・キリストは、まさに神の子として、最も忠実に「神と共に歩んだ」方でありました。そしてそれゆえに、神様の意志として十字架につけられました。私たち人間の代表として、「死」を経験されます。そこはエノクと違うところです。
 しかし神は、そのキリストを死者の中から復活させて、天へと移されました。ですからエノクの生涯、そしてエノクについての記述ははるか太古の昔から、イエス・キリストを指し示していると言えるのではないでしょうか。
 そればかりではありません。そのイエス・キリストに続く私たちの生をも、エノクは指し示しているのではないでしょうか。イエス・キリストに続いて、イエス・キリストの言葉を受け入れて、神と共に歩む者は、エノクのような生涯を送る、ということです。エノクの命は、そのまま神の御手に委ねられました。私たちも神と共に歩むならば、たとえ地上の死を経験しようとも、それは完全な終わりを意味しない。神の御手に委ねられるのです。
 イエス・キリストの言葉、そして十字架と復活の出来事によって、エノクについて、ぼんやりと示された事柄が、よりはっきりと私たちに示されました。神と共に歩む者に対して、永遠の命を指し示し、それを約束しています。イエス・キリストは、こう言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11:25〜26)。先ほど招詞で読んでいただいた言葉です。
 ヤコブの手紙4章8節には、こう記されています。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださる。」私たちが神に近づこうとする時、神も近づいてくださいます。「神と共に歩む」ということは、磁石のようなものかと思います。神様の方から先に近づいてくださって、私たちがそれに気がついて近づき、それに促されて、神と共に歩むようになる、ということもあるでしょう。しかし私たちの方でも神様を求め、神様に近づこうとするならば、神様の方もまた、ぴたっと近づいてくださるということもあるのではないでしょうか。そのことを信じ、神と共に歩む人生を歩んでいきましょう。


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