主の御名を呼ぶ人間

〜創世記による説教(14)〜
創世記4章17〜26節
マタイによる福音書5章38〜42節
2008年10月5日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)つまずき

 前回は、創世記4章の前半、アダムとエバの最初の息子カインが、弟アベルを殺害した物語を読みました。今日はその続き、4章の後半であります。カインは、アベルを殺した後、エデンの東にあるノドという地に住むようになりました。ノドというのは、「さすらい」という意味であります。
 「カインは妻を知った。妻はみごもってエノクを産んだ」(17節a)。
単純に考えれば、「アダムとエバが人類最初の夫婦であり、その子どもがカインとアベルだけであったとすれば、このカインの妻とは、一体誰であったのか」ということになりそうですが、それ位のことは、これを書いた人でもわかったことでしょう。しかし「そんなことはどうでもいい」とばかりに話は進んでいきます。
 聖書にはつじつまのあわないようなことが次々と出てきます。例えば、その直前のところでも、「カインを殺す者は、誰でも7倍の復讐を受ける」(15節)とありますが、「アダムとエバ以外に、まだ誰もいないはずではないか」ということになるかも知れません。もともと私たちは、誰も目撃者のいない物語(神話)を読んでいるわけですから、ダイナミックにこの物語とそれを記した人の信仰から聞こえてくるメッセージに耳を傾けたいと思います。
 「カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた」(17節b)。
 カインは「さすらいの地」に生きることをよしとせず、自ら町の建設者となり、そこに定住したいと願ったのでしょう。ここでも「町を建てるといっても、一体誰と建てるのか」という疑問がわきますが、これも書き手は問題にしていません。

(2)カインの子孫たち

 そしてここからエノク、イラド、メフヤエル、メトシャエル、レメクという風にカインから七代の系図が続きます。その後を読んでみましょう。

「レメクは二人の妻をめとった。一人はアダ、もう一人はツィラといった。アダはヤバルを産んだ。ヤバルは家畜を飼い、天幕に住む者の先祖となった。その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でるすべての者の先祖となった。ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまな道具を作る者となった。トバル・カインの妹はナアマといった」(19〜22節)。

 この部分は、文化史的にはなかなか興味深いところです。レメクの3人の息子たちは、さまざまな職業の起源を指し示しているようです。まず町ができて、そこに牧畜家がいて、それで商売をしたのでしょう。それから音楽家が現れ、さらに青銅や鉄の道具を作る鍛冶屋が出てきます。この時代にすでに音楽家がいたということは興味深いことです。音楽というものが最も初期の時代から存在し、文明と切り離せないものであったことがわかります。
 また「青銅や鉄でできたさまざまな道具を作る者」というのは、いかがでしょうか。石器や土器に代わって、青銅器や鉄器が現れてきたのです。これもある意味では芸術家の仕事といえるかも知れませんが、それよりも職人、あるいは技術者の仕事と言った方がいいでしょう。より便利なものが造られ、技術が進歩していくのです。人類の文化というのは、技術の進歩と共に発展してきましたから、トバル・カインは、まさに現代人に通じるものがあります。
 芸術や思想というものは、必ずしも進歩してきたとは言えません。むしろ現代人の私たちは、過去の優れた思想や芸術という遺産に寄りかかって生きているように思います。まさに聖書という書物自体が古代に書かれたものがいかに大事であるかということを示しています。

(3)技術の進歩と武器の発達

 科学技術の方は格段に進歩してきました。ただし悲しいことに、それは軍事技術と共に進歩してきたということを忘れてはならないでしょう。私たちが今日常的に使っているカーナビなんていうのも、本来は軍事目的で進歩してきたものです。
 「青銅」というのは、錫や鉛を含む銅ですが、聖書のヘブライ語では、青銅と銅に明確な区別はないようです。銅はすでに紀元前5千年頃には使用されていた金属ですが、西アジアにあらわれるのは、紀元前2千年頃だそうです。紀元前千2百年頃までは、ヒッタイト人がその精錬・加工を独占していました。ヒッタイト帝国は、ある時期、他を寄せ付けない強さをもっていましたが、それは青銅よりも強固な鉄を、武器や戦車に使ったからでした。
 このように新しい技術は、次々と人殺しの道具を産み出していきました。刀から、弓矢が出てきます。やがて銃が作られていきます。そしてミサイルが産み出され、ついに20世紀に核兵器に至りました。そして20世紀の終わりから21世紀にかけてはコンピューターが駆使され、攻撃のシミュレーションもできるようになってきました。最新の科学技術、情報技術が、最新の武器を産み出しているのです。
 先日、9月27日の西南支区の平和講演会でスティーブン・リーパーさんが、「私たちは戦争文化の中を歩んできた。しかしそろそろ、戦争文化を卒業して、本当の平和文化に移行していかなければならない」とおっしゃいました。今日のカインの末裔、子孫の話を読んでいても、いかに私たちがそういう戦争文化と深くかかわっているかということを思わされます。

(4)報復の連鎖

 「レメクは妻に言った、『アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が7倍ならば、レメクのためには77倍』」(23〜24節)。
 これは2行ずつ一対になった歌の形式になっていますが、その内容はいかにも自分の力を誇示するようなものです。息子のトバル・カインが鉄の道具を作る者であったので、その武器を背後に自分たちは強いんだという思いで、語っているのでしょう。
 私は、これを読みながら、やはり今日の世界各地の紛争のことを思い起こさざるを得ませんでした。イスラエルとパレスチナの紛争ひとつを取り出してみてもそうです。何年か前に(2000年)、父親の陰に隠れようとしているパレスチナの少年が、イスラエルの兵士によって射殺されるという衝撃的な映像が流れました。パレスチナ人の怒りが頂点に達し、イスラエルの兵士3人をリンチで殺してしまい、それがまた報道されました。そうするとすぐにイスラエル軍が報復処置としてパレスチナの町を空爆いたしました。レメクの言葉どおりです。
 「わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す」(23節)。
 石を投げつけられたら、銃で撃ってやる。リンチをされたら、空爆をする。死者は双方にまたがっていますが、その数は圧倒的にパレスチナ人の方が多くなっています。憎しみの度合いは、パレスチナ人の方が大きいでしょう。パレスチナの少年たちもイスラエル軍に対する憎しみを募らせ、大人に交じってゲームのように投石している。戦車に向かって投石をする少年の写真もショックでありました。報復というのは、どんどんエスカレートしていくものであることを思わざるを得ません。

(5)報復の正当化

 「目には目を、歯には歯を」という法律がありました(出エジプト記21:22〜25参照)。この法律は、同害同復法といって、本来は、無制限に報復がエスカレートしていくのを制限するものでありましたが、いつのまにか、報復を正当化するものになってしまいます。「カインを殺す者はだれであれ、7倍の復讐を受けるであろう」(15節)という言葉も、もともとは神様がカインに対して、カインを守る保証として語られた言葉でありました。カインを殺すことを禁じるために語られたのであって、「7倍にして返せ」とカインをあおり立てたわけではありませんでした。復讐する主体は神様です。ところがレメクは、「カインのための復讐が7倍なら、レメクのためには77倍」(24節)と言います。これは、レメクが自分でそれだけ復讐してやる、ということです。いつのまにか主体が変わってしまっているのです。

(6)もう一つの系譜

 このカインの末裔の系図は、レメクの息子で突然終わっていますが、それとは全く別の系図が最後に記されています。
 「再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた」(25〜26節)。
 アベルが殺されてしまったので、神はアダムとエバ夫婦にもう一人の息子を与えられました。そしてそこから別の系譜が始まっていくのです。最後に、「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」とあります。何か付け足しのようですが、この後の5章の系譜につながっていくのは、実はこちらの系譜なのです。信仰をもち、神を礼拝するということは、カインとは別の系譜から生まれてきたということを示そうとしているのだと思います。主の御名を呼ぶ者の系譜と言ってもいいでしょうか。
 もちろん主の御名を呼ぶ者たちも、都市を造り、農業・牧畜に携わり、商売をし、芸術を産みだし、技術革新をしてきました。しかしそれで自己完結してしまうのではなく、それら一つ一つを神との関係において、意義を見出してきました。主に仕事を与えられ、それによって一日一日を生きていることを感謝する。主のために賛美の歌を歌う。主を賛美するために、楽器を奏でる。主の御名にふさわしい町を建てる。主に喜ばれる国を造る。
 もしもそこに主を呼び求めることがなく、信仰が無いならば、いかがでしょうか。神が不在であれば、一体、この世界はどうなってしまうのでしょうか。カインの末裔、特にレメクの態度や言葉がそれをよく表していると思います。
 どんなに文化が発展し、どんなに生活が豊かになろうとも、どんなに快適になろうとも、それだけでは私たちの生活は空しいものです。「神がおられる」ということが視野に入っていないからです。神が視野に入らない時、すべては人間のため、と言うことになってしまうのではないでしょうか。商売、仕事も人間のため、音楽もその他の芸術も人間のため、科学技術も人間のため、そしてそれらは往々にして、そして簡単に自分のため、あるいは自分の家族のため、自分の国家のため、ということにすりかわってしまうのです。
 あるいは、神がおられるということが視野に入っていないから、悪いやつは自分が懲らしめなければならない、ということになってしまうのではないでしょうか。そして報復の連鎖が無限につながっていきます。
 イエス・キリストというお方は、その報復の連鎖を断ち切ろうとされました。

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」(マタイ5:39〜40)。

これがイエス・キリストの示された平和の革命、復讐の連鎖を断ち切る道です。

(7)教会

 教会というところは、主の御名を呼び始めた群れの末裔にあると言えようかと思います。私たちは、今日、教会において、主の御名を呼び求めているのです。このアダム、セト、エノシュに連なる、主を呼び求める群れがここにあります。最初の時代と比べて、信仰的には成長していないかも知れません。しかしこの時代の人々と私たちを比べると、違うことが一つあります。それは、イエス・キリストを見上げているということです。イエス・キリストは、私たちが本当に主なる神(ヤハウェ)の御心をはっきりと知ることができるように、この世に来られ、十字架にかかり、死に、復活してくださいました。そして私たちは、イエス・キリストの名を通して、主なる神様を呼び求めるのです。イエス・キリストは、「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)と言われました。
 教会が教会である究極のアイデンティティーはどこにあるのか。それは、主の名を呼び求める群れだということであると思います。教会が、この世から求められていることは、まさにそのことをはっきりと示していくことではないでしょうか。教会も、この世の変化に応じて、いろんな対応をしていかなければならないでしょう。しかしこの根本的なこと、主の名を呼び求める群れ、ということは変えることはできませんし、変えてはならないものです。
 具体的、実際的な目的があるところにだけ、存在意義があると思われる現代社会の中にあっては、ただ主の御名を呼び求める集団というのは、一体何の意味があるかと思われるかも知れません。しかしそうした時代であるからこそ、かえってそのことにこだわり、主なる神様が生きて働いておられるということを、世に伝えていかなければならないのだと思います。そしてそのことがしっかりと根付いていく時に、私たちの文化も、芸術も、科学技術も、そして生活も、意味をもってくるのではないでしょうか。「そろそろ戦争文化を卒業し、平和文化へ移っていかなければならない。」リーパーさんのその言葉が、私のうちに響いております。そのようにして共に生きる文化を築いていきましょう。


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