しるしを刻まれた人間

〜創世記による説教(13)〜
創世記4章1〜16節
ローマの信徒への手紙6章3〜11節
2008年9月14日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)カインとアベルの名前

 創世記のアダムとエバの楽園追放に続いて記されていますのは、カインとアベルの物語であります。
 「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった」(1〜2節)。
 この「知る」という言葉は、聖書では性的交渉を意味する言葉です。このようにしてアダムとエバは名実共に夫婦となり、二人は子どもを得ました。長男はカインと名付けられました。エバはカインが生まれた時、「わたしは主によって男子を得た」と叫びましたが、この「得た」という動詞が、「カイン」という名前と同じ語源である「カーナー」という言葉であり、語呂合わせのようになっています。つまりカインという名前は、エバの喜びを言い表しており、神様への賛美として与えられたものでした。カインは最初から祝福を十分受けた子どもとして生まれてきた、ということができるでありましょう。
 弟の名前はアベルです。このアベルという名前も語源をたどってみますと、「息」「はかなさ」「空虚さ」「意味のないもの」「価値のないもの」といった意味があります。「コヘレトの言葉」の最初に「なんという空しさ、なんという空しさ。すべては空しい」という言葉があります。この「空しさ」というのが、アベルと同じ語源の言葉なのです。このように名前だけを比べてみましても、この二人はどうも最初から対等ではなかったようです。アベルはいつも兄の陰になっていたのではないでしょうか。

(2)弱い者が顧みられる

 ある日、この二人が主に献げ物をすることになりました。カインは農夫ですから、「土の実り」を持って来ました。アベルは「羊の群れの中から肥えた初子」を持って来ました。ここまではいいのですが、問題はその後です。
 「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」(4〜5節)。
 これには何か理由があったのでしょうか。ある人は、献げ物をする二人の心のあり方に違いがあったのであろうと言います。新約聖書でも、アベルは信仰の人であり(ヘブライ11:4)、カインは悪しき者であった(一ヨハネ3:12、ユダ11)と解釈されています。しかしこの創世記のテキストでは、そうは述べられていません。
 私は、むしろここには神の自由な選びがあると思います。神は私たちの道徳基準、価値基準に従って、行動されるわけではありません。私たちを超えたお方、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)お方です。
 ただし若干のえこひいきがあるように思います。しかしそれは、私たちの普通のえこひいきと反対であって、弱い者、小さい者に心を留められるのです。その神が、ここでも弱く、とるに足らない存在であるアベルの方を顧みられたというのはあり得ることではないかと、私は思うのです。
 カインは長男として、より強い者として、あるいはより祝福された者として、どんなことでも最初の権利は自分にあるという思いの中で成長したのではないでしょうか。カインにとって、アベルは決して対等な兄弟、隣人ではありません。パートナーでもない。ただいるだけです。せいぜい自分を引き立ててくれる脇役というところです。しかしそのように自分がより祝福されていると思える限りでは、案外、人間は何とも思わないものです。当たり前のように思っている。ところがひとたびそれが逆転し、誰かが自分よりも得をし、自分よりも祝福を受けていると思われる時には、もう耐えられない。嫉妬に燃え始めるのです。
 カインは恐らく献げ物をする時にも、神が自分を承認し、実力者とし、自分にその役割を与えられるのは当然のことと考えていたのではないでしょうか。カインにはカインの価値基準があり、それをアベルにも当てはめようとし、それを神様にまで期待したのです。しかしながら神様の応答は、カインの意に反し、弱い方のアベルを顧みられたのでした。
 イエス・キリストによって顧みられた人々も、時の権力者ではなく、宗教的指導者でもなく、弱く、貧しい者、周辺に押しやられている人々でありました。罪人であり、娼婦であり、徴税人でありました。それはある意味でえこひいきと言えますが、この世の基準のえこひいきではない。神様は、そのように弱い立場の人をえこひいきすることで、逆にバランスを取り戻しているのかも知れません。深い意味では、えこひいきということを超えて、そこから救いの御業が始まっていく。そのように祝福された弱い兄弟姉妹の隣人になることで、祝福の輪が広げられていくのです。

(3)嫉妬

 しかしカインは、なぜ神様がアベルだけを顧みられるのか理解できません。「カインは激しく怒って顔を伏せた」(5節)。
 ここまではカインの神に対するささやかな反抗ですが、この次の瞬間、それは人間関係の領域へと流れ込んでいきます。神様への憎しみが、隣人への嫉妬、憎しみに変わっていきます。
 嫉妬というのは、自分を誰かと比べる時に起きるものですが、その時、私たちはたいてい、その人のある一面しか見ていないのではないでしょうか。ある一部分だけを見て、うらやましいと思っていることが多いものです。自分の方がいいと思う部分も、実はたくさんあるのに、そういう部分は、案外気づかないで、他人のいい部分だけが目に入ってくるのです。
 この時のカインもそうだったのではないでしょうか。アベルが主によって顧みられた時、カインはすべてのことをアベルと交換したいとは思わなかったでしょう。カインは力あるカインのままで、アベルに与えられたものまで欲しかったのではないでしょうか。

(4)カインを呼び求める主

 そのカインに対して、神はこのように問いかけます。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」(6〜7節)。
 それに対してカインは応えようとしません。カインは反論してもよかったのです。しかし顔を伏せたカインは、口をつぐみ、心を開こうとしません。
 「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せしており、お前を求める。お前をそれを支配せねばならない」(7節)。
 ここでカインの過去の罪がを問われているのではなく、今の態度が問われているのでしょう。「今」正しく応答しようとしないならば、罪がお前を待ち伏せしているぞ、お前を誘惑しようとしているぞ、という警告だと思います。

(5)弟アベルは、どこにいるのか

 カインは結局、この神の問いかけに応えませんでした。アベルに対する嫉妬と憎悪を膨らませていき、アベルを野原に呼び出して、殺してしまいました。聖書に出てくる最初の殺人事件です。人は神が食べてはならないと言われた木の実を食べて、神に対して罪を犯しましたが、そこから人と人との絆も引き裂かれていきました。そしてその不和、憎しみはここに来て頂点に達するのです。
 主はカインに尋ねられました。「お前の弟アベルはどこにいるのか」(9節)。アダムに対して「(お前は)どこにいるのか」(創3:9)とお尋ねになった神は、今カインに向かって、「お前の弟アベルはどこにいるのか」とお尋ねになるのです。アダムに対してと同じように、ここでもカインが何をしたのか、すべてご存知の上で尋ねておられるのでしょう。「きちんと私と向き合い、私に応答せよ」という呼びかけなのです。
 私たちは、垂直と水平の座標軸をもって生きています。私たちは神に対して正しい応答関係をもつと同時に、隣人、兄弟姉妹と正しく、共に生きていかなければなりません。垂直の関係をもつ神が、私たちが隣人といっしょにどのように生きているかと、問うておられるのです。

(6)私が弟の番人でしょうか

 しかしカインは、シラを切って、こう言いました。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」(9節)。この「番人」というのは「羊飼い」という意味ですから、「どうして私が、羊飼いである弟の羊飼いでなければならないのでしょうか」という皮肉っぽい言い方です。しかし神様はもともとすべてご存知ですから、こう言われます。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」(10節)。
 私の神は、私の神であるだけではなく、私の兄弟姉妹の神、私の隣人の神でもあります。私のことを心配して「どこにいるのか」と尋ね求める神は、同時に「お前の兄弟はどこにいるのか」と心配される神でもあるのです。無名の、取るに足りないように思われる人が不当な仕打ちを受け、彼のために誰も証人になってくれず、誰も弁護士になってくれない時には、神様ご自身がその訴えを聞き、審判者となってくださる。どんな一人も見捨てられない。土の底の叫び声を聞きあげてくださる。そして正当な裁きをしてくださるのです。
 「今、お前は呪われる者となった。お前の流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」(11〜12節)。
 非常に厳しい裁きですが、神がそのようにカインを呪うというよりも、「お前がアベルに対してなした罪のせいで、土が土の底にいるアベルと共にお前に背を向けてしまった」ということなのでありましょう。
 「お前の弟アベルはどこにいるのか」という呼びかけは、アベルのためだけではなく、同時にカインに対してなされているということを見落としてはならないでしょう。これ以降の物語は、「主が目を留められなかった」カインを中心にして展開します。神がカインとその献げ物に目を留めなかったのは、カインを選ばれなかったためではなく、それによってカインを大いなる試みに置くためであったと言えるかも知れません。そのようにしてカインを選ばれたのです。カインがそれに正しく応答するようにと待ち望んでおられた。「私が弱い者をひいきにする時も、お前もそれを一緒に喜んでくれるかどうか。」彼はそれに適切に応えることができませんでした。
 イエス・キリストは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたのである」(マタイ25:40)と言われました。イエス・キリストは、どんな一人も粗末に扱われることをよしとされません。だからこそ、特に弱い者、貧しい者に心を留められるのです。私たちがこの世の中で、一人ではなく、他者と共に生きる時、「お前はどこにいるのか」という問いは、必然的に、「お前の兄弟はどこにいるのか」という問いを含んできます。これに答えることなくして、「お前はどこにいるのか」という問いに答えることはできないのです。

(7)しるし、洗礼

 カインは神の裁きを聞いた後、もう一度主に陳情します。

「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」(13〜14節)。

 あの弟殺しをした威勢のいいカインは一体どこへ行ってしまったのでしょうか。自分の犯してしまった罪のせいで、ただ恐れおののいている惨めな人間がここにいます。
 しかし神はカインを放ってはおかれません。ひとつのしるしを付けられました(15節)。守りのしるしです。「罪の罰は負わなければならないが、お前に対する保護は変わらない。わたしの愛は変わらない。」そのしるしがカインに付けられたのです。
 私たちもしばしば神にそむくことをしてしまいます。神の愛がわからず、兄弟姉妹との交わりを断ち、隣人との交わりを断ってしまう。しかし私たちはそれでも依然として神の守りのうちに置かれているのです。このしるしについて詳しいことは書いてありません。どんなしるしであったのかもよくわかりません。そんなものが果たしておまじないのように役に立つのか。
 しかし私は、罪を犯した人間が路頭に迷うことのないように、それでもって滅びることのないように守りのしるしを付けられたのだとすれば、その延長線上に、イエス・キリストの十字架と復活を見る思いがいたします。私たちはイエス・キリストの十字架と復活をこの身に負っているのです。パウロは、洗礼がそのしるしである、と言いました。

 「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)。

 悪の力に負けそうになる時に、そのしるしが私たちを守ってくれるでしょう。嵐が私たちの歩みを吹き飛ばそうとする時、イエス・キリストのしるしが私たちを守ってくれるでしょう。誘惑に、私たち自身が内側から崩されそうになる時、イエス・キリストのしるしが私たちを守ってくれるでしょう。そのことを信じつつ、隣人と共に生きる道を尋ね求めていきましょう。


HOMEへ戻る