それでも愛される人間

〜創世記による説教(12)〜
創世記3章1〜24節
ローマの信徒への手紙5章10〜17節
2008年7月20日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)神の呼びかけに対する人間の応答

 アダムと、後にエバと呼ばれる女は、神が「食べてはならない」と言われた木の実を食べてしまいました。それまで二人は裸でいたのに何とも思いませんでしたが、今やお互いの前で自分を隠しあうようになりました。そして神の顔をも避けるのです。
 しかし神様は彼らをお見逃しにはなりません。「どこにいるのか」と呼び止められました。アダムは、自分が逃げ切れないこと、隠れきれないことを知っていますので、答えました。

「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」(10節)。神が「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」(11節)と問われると、アダムは再び答えます。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が木から取って与えたので、食べました」(12節)。

 この返答は大きな問題を含んでいます。アダムは弁解することを覚えたのです。彼はここで二重に責任転嫁をしています。まずは、それを自分に木の実を差し出した連れ合いの女に対して。しかし彼は自分の連れ合いがそれを食べた時からそばにいたことを思えば、責任転嫁はできないはずです。連れ合いが食べるのを止めることもできたでしょう。アダムは、彼女のことを「ついにこれこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(2:23)とまで呼んだのに、ここではあっさり裏切り、売り渡してしまうのです。
 更に彼は、その連れ合いのことを、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女」というややこしい言い方をすることによって、神様にも責任転嫁しようとします。「共にいるようにしてくださった」というのは、その次の行の「与える」というのと同じ言葉です。「あなたが与えられた女が、私に与えた」と言うことです。
 神様はアダムとの問答を一旦休止して、女に向かって問いただします。「何と言うことをしたのか」(13節)。女も男と同様、責任転嫁をしつつ答えました。「蛇がだましたので、食べてしまいました」(13節)。しかし彼女は神様にまで責任転嫁をしていませんし、自分の連れ合いに対しても何も言っておりません。アダムよりはもう少し早く自分の罪を認めています。彼女の方が若干いさぎよいと言う気もします。

(2)「蛇」への宣告

 そして神様は、今度は蛇に向き直り、蛇、女、男という順に罰を宣告していきます。
 このところでは、神様がそのように罰を規定されたというよりも、語り手の生きた時代において存在した悩みの種になっている謎や困難について説明しております。こういう物語を原因譚(たん、物語の意)と言います。つまり、蛇については、「あの奇怪な形状は一体何に由来しているのだろうか。」「他の動物と違って、蛇は腹ではい回る。どうしてそんな形で生きているのか。」「蛇は舌をちょろちょろ出して塵をなめて生きているように見える。蛇はどうしてあんなに特殊なのか。蛇はどうして人間に、特に女性にあんなに人間に嫌われるのか。」語り手が生きていた時代に、(今日でもそう変わっていない)、そういう現実があって、それについて説明しようとしているのです。
 もちろんそれだけではありません。この語り手は、「蛇」の向こうに単なるは虫類の「蛇」以上のものを見ていると思います。
 それは、私たちの世界に説明のできないような仕方で存在する「悪」とでも言えばよいでしょうか。そうした「蛇」がまさに人間にねらいをつけ、人間を待ち伏せし、人間を誘惑する。そして人間と生きるか死ぬかの闘いを展開するのです。
 「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(15節)。

(3)「女」への宣告

 蛇の次は、女です。蛇は呪いを受けましたが、女とこの後に言及される男は、蛇と違って呪われてはおりません。まず女性についてですが、語り手は、その時代の妊娠と出産の厳しい現実というものを見ており、それがここに反映されております。
「神は女に向かって言われた。
『お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産む』」(16節)。

 妊娠と出産がいかに苦しみと危険を伴うものであるか。しかしこのことは先ほども申しましたように呪いではありません。むしろその向こうには祝福が待っている。その祝福を得るための苦しみです。その喜びが増し加わるために、神は「産みの苦しみ」を備えられたのかも知れません。
 そしてこう続きます。
 「お前は男を求め、彼はお前を支配する」(16節)。
 女はひたすら男を慕い求めるが、男はそれに応えようとはせず、逆に女を支配してくる。そのようにして女は解きがたい緊張の中で生きることを強いられるようになった、ということです。
 この言葉も、「男の女に対する優位性」を語るものではないでしょう。「神は男に女を支配する権利を与えられた」と早合点してはならないと思います。むしろ罪の結果として、そうしたことが起こってきたということだと思います。フィリス・トリブルは、この箇所をさしてこのように言っております。

「悲しいことに(男と女の間には)、一致はもはや存在せず、一つの体は分裂した。……こうして、女は奴隷に成り下がることによって堕落し、男は主人になることによって堕落する。男の優位性は聖なる特権でも男性の特典でもない。彼女の従属は聖なる命令でも女性の運命でもない。彼らの立場は両方とも、相互の不従順から出た結果である。神はこの結末について描写されるが、それを罰として規定されたのではない」(『神と人間性の修辞学』p.192)。

(4)「男」への宣告

 第三は、男に対する宣告です。これが三つのうちで最も長いものです。

「お前は女の声に従い、
取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに土は呪われるものとなった。
お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ。
お前に対して、
土は茨とあざみを生えいでさせる
野の草を食べようとするお前に。
お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで、
お前がそこから取られた土に。
塵に過ぎないお前は塵に返る。」
(17〜19節)

 神はアダムが食べてはならない木の実を食べる以前から、「エデンの園を耕し、それを守るように」命じておられました(2:15)。しかし今やその労働がただ喜ばしいものではなく、苦痛を伴うものとなったということでありましょう。アダムが罪を犯したせいで、土にのろいが入り込み、そう簡単には食べ物を提供してくれなくなった。食べ物を得るために、人は額に汗してつらい労働をしなくてはならない。茨とあざみは棘があり、いわば人が食べ物を得ようとすることに対する障害物でしょう。今や、そういうものと闘わなければならないということです。
 語り手はここで、貧しい農夫達の生活を念頭においています。働いても働いても、それに見合う収穫が与えられない。時には嵐ですべての作物がやられてしまうこともあったでしょう。そうした厳しい現実のただ中で、それが映し出されるようにしてこの一つ一つの言葉が記されているのです。
 このことは男にも女にも共通することであると思います。最後に「塵に返るときまで」と付け加えられ、人がやがて死に、土に返っていくものであることを思い起こさせます。これも私たちが向き合うべき厳粛な現実であります。

(5)四つの厳しい現実

 さてこの14節から19節の宣告の部分を振り返ってみますと、私たちが生きていく時にどうしても向き合わなければならない四つの厳しい現実に触れていると思います。しかしその一つ一つは、どれも決定的に私たちをうち砕くものではなく、それに勝利する道、それを克服する道が示唆されているのです。
 第一は「蛇」という名で象徴されている何かしら悪魔的な力、脅威、あるいは「誘惑」であります。「彼(人)はお前(蛇)の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」そのように対決し続ける。人間はそこで傷つき、かかとに噛みつかれながら、その頭をうち砕き、闘うのです。
 第二は、産みの苦しみ。これも厳しい現実です。しかしこれもまた祝福が待っている上での苦しみです。その時喜びが増し加わるのです。
 第三は、労働の辛さ、苦しみです。農業だけではありません。どんな仕事にも苦しみはつきものでしょう。会社勤めは大変だと思います。会社の利益を考えつつ、お客さんにも誠意を示さなければならない。上司と部下のはざまに立たされる。芸術家だって、それで食べていかなければならないとなれば、サラリーマン以上に厳しいものがあるでしょう。牧師だって、一般信徒として教会生活をしていた時にはなかった責任が、当然伴ってきます。しかしそうしたすべての辛苦は、それだけで終わるものではありません。祝福と喜びが備えられている。神はそれを約束しつつ、汗して働くことを定められているのです。
 四つ目は死です。これは私たちがどうしても避けることができない現実です。しかしこのことのうちにも慰めと励ましが含まれています。私たちの地上の生には終わりがあるのです。もしも永遠にこの労働の生活を続けなければならないとしたら、その方が恐ろしいことではないかと思います。私たちの肉体は土に帰るのです。
 しかし同時にそれですべて終わってしまうのではないことも、聖書は語ります。確かにこの朽ちる体は死にます。しかし私たちが想像できない永遠の朽ちない体をもって復活するのです(第一コリント15:35〜58)。イエス・キリストがその初穂となられ(同15:20)、私たちはその弟たち、妹たちとして、それに続くものとされる。イエス・キリストは死にうち勝ち、甦られた。そのことを知っているがゆえに、私たちは安んじて「塵に過ぎないお前は塵に返る」という御言葉を聞くことができるのです。

(6)命の母「エバ」

 「アダムは女をエバ(命)と名づけた。彼女がすべての命あるものの母となったからである」(20節)。
 エバというのは「命」という意味だと言うことです。直前において、人間の生には限界があることが示されたばかりです。女も出産に当たっては、大きな苦しみを伴うと告げられたばかりです。そうした中にあっても、命は途絶えない。彼女はすべての者の母となります。個々の命は、確かにこの地上において死んでいきます。しかしその個々の死を超えて、命は脈々と偉大な母たちによって、受け継がれていくのです。死に脅かされ、悪に脅かされ、苦しい労働に汗しながら、命は今日まで受け継がれてきました。それはこの命の母エバから始まったと、この語り手は告げているのです。
 そして、私たちの世界であるエデンの園の外でのドラマが、今始まろうとしている。その時に、自分の連れ合いを、エバ(命)と呼ぶことに、私は、アダムの信仰、そしてこの創世記の物語を書いている人の信仰を見る思いがいたします。

(7)皮の衣を着せる神

 神様はどうなさったでしょうか。神様はもはやエデンの園に住むことができなくなったアダムとエバを追放します。しかしそれは決して見放すということではありませんでした。今申し上げました、四つの苦しみにおいてもそれで人間が滅んでしまうためになさったのではなく、それを乗り越えて生きる道が指し示されているのです。
 そして、神様はアダムとエバに皮の衣を作って着せられました。神様はもうアダムとエバが裸ではいきられないことを承知しています。それは彼らの罪のせいです。彼らの不信仰のせいです。しかし衣なしでは生きられなくなってしまった人間の弱さというものを、神様は「自業自得だ」と言って突き放すのではなく、それを認め、それを受け入れ、そのために着物をこしらえ、自ら着せてやるのです。心配で、心配で仕方がない。そういう神の姿が見えてくるようです。
 ここに不思議な神様の言葉があります。
 「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となる恐れがある」(22節)。
 何か蛇の言ったことが正しかったように思われます。そう、確かに蛇の言ったとおりなのです。人は自ら神のようになった。つまり真の神から離れて、自らを被造物として認めず、生き始めた。しかしそれは恐れと恥が生の中に入り込んでくることでありました。そのようにして永遠に生きることは、逆に不幸なことであります。だから神はあえて人のためにもその道を阻止されたのでしょう。
 さて神様はアダムとエバを追放します。それをどういう思いでなさったでしょうか。「これでもうエデンの園を乱すやつもいなくなった。これで一安心。ほっとした」ということであったでしょうか。そうではありません。「心配で仕方がない。」そしてご自分も人間と一緒にエデンの園から飛び出して来てしまうのです。その証拠に、ここから後に続く千ページ以上の聖書の物語はすべてエデンの園の外の物語であります(小山晃佑氏の表現)。
 私たちは「それでも愛される人間」であることに感謝しつつ、今週も新たな歩みをしたいと思います。


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