恐れと不安を持つ人間

〜創世記による説教(11)〜
創世記3章1〜9節
ルカによる福音書15章4〜7節
2008年7月6日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)蛇とは

 本日は、創世記3章1〜13節から御言葉を聴きたいと思います。この3章の初めに蛇が登場いたします。
 「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」(1節)。この蛇とは、一体何ものでしょうか。これはそう単純ではありません。なぜならば、ここには、この蛇もまた神が造られたものであると記されていますが、この後の記述からもわかりますように、この蛇は人間を誘惑するものとして登場するからです。蛇も神様が造られたのであれば、その責任も神様にあるということになってしまうのではないか。
 古来、「悪は一体どこから来るのか」というのは大きな問いです。「造り主なる神がよき方であり、この世界をよきものとしてお造りになったのであれば、悪は存在しないはずではないか。それとも神さまはすべてをお造りになったのではなかったのか。悪は最初から存在して、神さまの創造されたよい世界に入り込んできたのか。」この悪の起源を問う問いに対して、聖書の中から一つの正しい答えを見いだすのは難しいようです。事実、私たち自身、信仰をもつのに最も大きなつまずきはそこにあるでしょう。
 あまり抽象的な議論にならないようにして、聖書から示される幾つかのことを申し上げておきたいと思います。ひとつは、「事実として私たちは、そういう力、わたしたちを試みる、誘惑する力が存在している。私たちはそうした力に取り囲まれ、脅かされて生きている」ということです。その人格的な力を、聖書は「悪魔」とか「悪霊」と呼んでいます。その力は決してあなどることはできません。しかし大事なもうひとつのことは、その力は私たちにとってはあなどることのできない大きなものですが、決して神さまと並ぶ力ではないということです。私たちの前では力をふるっていますが、神様の前では縮こまっている力だということです。
 ここでは蛇がそのような「試みる者」「誘惑する者」として登場します。なぜ蛇なのかというのは、考えてもあまり答えはないでしょう。一つの文学的表現であると思います。(まあ蛇もそういう役割を担わされて、ちょっとかわいそうな気もします)。大事なことは、蛇が「神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いものであった」ということです。蛇は、その自分自身の賢さに導かれて「誘惑者」になっていきます。

(2)蛇と女のやり取り

 ここでの物語は、本当に息をのむような展開で本当に見事です。蛇の近づき方は、本当に巧みです。まず蛇は、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」(1節)と女に近づきました。これはいかがでしょうか。丁寧に読み返してみると、神様はそんなことはおっしゃっていません。微妙に違うのです。政治家が議論をする時も、あるいは神学議論をする場合でさえも、相手の言うことを少し歪めて批判することがあります。それで自分の主張に結び付けていく。「そんなことは言っていない。引用は正確に」ということはよくあるのではないでしょうか。この時の蛇は、最初から違うことがわかっていながら、あえてそういう尋ね方したのかも知れません。不安をあおりたてるのです。神様がおっしゃったのは、16節「園のすべての木から取って食べなさい」と言うことです。ですから反対です。そこにひと言付け加えられたのです。「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(17節)。
 ですから彼女はそれを蛇に伝えることによって、神様を弁護するのです。「いいえ神さまはそんなに心の狭い方ではありません。わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。食べてはいけないのは園の中央に生えている木の果実だけです」。そこで彼女は、無邪気に心を許して蛇と対話に入ってしまうのです。蛇にとっては、それこそ、つまり自分の言葉に相手が応答してくれたら、しめたものなのです。すべて計算済みです。
 いろんなセールスの手法も、何かしら相手が応答してくれたら、しめたもので、そこから次の話をしようとします。お宅の電話代についての見直ししますとか、家庭教師はいかがですか。マンションの経営をしませんか。エホバの証人(ものみの塔)の勧誘でもそうです。「うちは教会へ行っていますので」というと、かえって食いついてきたりします。
 蛇はわざと紛らわしい言い方をして、彼女と対話にはいるためのきっかけを作ったのでした。「あの中央の木から食べてはいけないとおっしゃったのも、私たちが死んではいけないから、という配慮からなのです」。彼女はうれしそうにというか、蛇を正すように言うのです。
 そこで蛇はすかさず突っ込んで来ます。「決して死ぬことはない」。彼女はびっくりします。今度は正面から、断言的に神さまの言うことを否定されたのだから、蛇を正すことにも躊躇しています。そしてたたみかけるように、その理由を告げるのです。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となる。そして神様は人をそうさせたくないから、食べるなと言われたのだ。死ぬからではない」見事な手口です。

(3)神様不在の議論

 この女と蛇は、いわばここで神学議論をしています。ところが問題は、話題の主である神様が不在であることです。本人のいないところで、誰かの話をすると、大抵いいことはありませんが、神様の話の場合は一層そうであります。あくまで神様との対話、具体的には聖書と対話する中で深めていかなければならないものです。いつも聖書に立ち帰っていきながら、しかも祈りをもって応答しつつ、深めていく知識、それが信仰の知識、難しい言葉で言えば、神学です。それが聖書抜きで神さまについて思弁的に考えていても、だんだん抽象的になって、神様が一体どういう方であるのか、かえってわからなくなってきます。
 蛇と神さまについて話していたこの女は、神様不在であるので、神様のおっしゃったことに、だんだん疑いを持ち始めてしまいました。
 少し脱線しますが、私たちは神様のことを考える時に、神様を無視して考えることはできません。ある人がこういうことを言いました。「私たちが誰かを知るのに、二通りの仕方がある。ひとつはその人についての客観的情報を集め、それを組み立てていくのです。しかしそれだけではまわりからその人をながめているだけです。特にその人が自分のことをどう思っているのかはわかりません。もう一つの方法は、直接その人の言うことを聞いて知る仕方です。その時に「相手が自分に対して真実を話している」と信じなければなりません。「聖書を通して神を知る」というのは、この二つ目の方法です。神様不在ではありません。

(4)神の言葉と蛇の言葉

 そして胸騒ぎがします。それは私たちが誘惑に屈する前に経験する胸騒ぎです。誘惑する者はそっとささやきます。「大丈夫。死なないって。誰も見てないし、一回だけやってみろ。」それでも躊躇しているので、こう言います、「悪い結果になるどころか、反対。目が開けて神さまのように善悪を知る者となるぞ。何でもわかるようになるぞ。」
 「決して死ぬことはない」という蛇の言葉と、「きっと死ぬであろう」という神の言葉。この二つの宣言によって、二つに引き裂かれようとしています。一体どっちが本当なんだろう。どちらも自分の理解能力を超えています。神の言葉と蛇の言葉が対立しています。禁止に結びついた神の言葉と、約束に基づいた蛇の言葉です。限界をわきまえさせようとする神の言葉と、無限を指し示す蛇の言葉が対立しているのです。

(5)神に似せて造られた者と、神のようになろうとする者

 本来、人間は神のかたちに似せて、神のかたどって造られたものでした(創世記1:27)。そこにいわば、神様はご自分をそそぎ込まれたと言ってもいいでしょう。その「神のかたちを取った人間」が、そのような神のかたちでは満足せず、自ら神のようになろうとしている。方向性が逆です。神から人へ向かう方向と、人から神へ向かう方向。
 「神のように善悪を知る者」となろうとすることによって、人間は神に造られた者、被造物であることをやめてしまうのです。神の似姿が自分にも映し出されていることを驚きと感謝と喜びをもって受け止め、その造り主の意志を尊重し、それをわきまえ、それに従って生きることをやめて、神から自立した存在として、単独者として、何者にも限定されることなく、善悪も自分でわきまえた神のようになろうとする。
 そのような考えを人間は誰しもどこかでもっているものでしょう。善悪をわきまえて自分が自分の主人となって、自分自身の力で生きようとする。もう神様は必要ないのです。それは確かに魅力あるものに見えます。そのように力強く生きている人がいたら、私たちにもうらやましく見えるかも知れません。しかしそこに落とし穴があることも知っておかなければならない。そのように自ら、被造物足ろうとせず、神のようになろうとする中に、すでに死の影が忍び寄っているのではないでしょうか。

(6)二人で決断し、二人で食べた

 ドラマは次のステップへと進んでいきます。
 「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるようにそそのかしていた」。そしてとうとう彼女は、「食べてはならない」という神の禁止の言葉に従うか、「決して死なない。神のようになれる」という蛇の言葉に従うかのディレンマの中で、蛇の言葉を選び取り、その樹の実を食べるのです。「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」。
 私たちは、この時アダムもずっと一緒にいたことを忘れてはならないと思います。アダムは女が食べたときに止めようと思えば、できたのです。「やっぱりやめろよ。神さまが食べてはならない、と言われてたじゃないか」。しかし彼はそれを言わず、じっと黙ってそばにいるのです。そして彼女が食べて「どうもない。死なない。おいしいと言っている」。それを見極めてから、いわば彼女に毒味をさせてから自分も食べるのです。この辺、男の方が少し卑怯かなという気がします。いずれにしろ、これは二人で決断して二人で食べた、ということでしょう。
 さてその結果どうなったでしょうか。
 「二人の目は開け、自分達が裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせて、腰を覆うものとした」(7節)。確かに賢くなった。知恵を得た。しかしそこで得た知識、知恵というものは、恐れと恥でありました。二人は、禁じられた樹の実を食べることによって、裸であることを恐れ、恥じるようになった。腰に覆いをつけたというのは恥というよりも不安と言ってもいいかも知れません。無防備では不安だから急所を覆ったのです。これが、「彼らの目が開かれた」結果であり、「神のように善と悪を知る」ということの内実(実際的な中身)でした。
 それまで恐れも不安も関係なく生きていた人間が、「神のようなもの」になることによって、恐れと不安を経験し、自分をおおわなければならなくなった、ということは深刻な、皮肉な矛盾であると思います。そして人の前で恐れと不安を経験した人間は、やがて神の前でも恐れと不安を覚え、神の顔を避けて隠れるようになるのです。
 私たちは確かにいつも罪から逃れられないものです。その罪の最たるものは、神のようになろうとすることです。先ほど、人間は「神のかたちにつくられた者」だ。それであることをよしとせず、自ら神のようになろうとした、と言いました。考えてみれば、イエス・キリストが殺されたのも、そういうことではなかったでしょうか。イエス・キリストこそ、まことの神のかたちが人となった方でありました。ところが、自ら神のようになろうとする者たちの手によって、殺されていったのです。イエス・キリストご自身も、強烈なサタンの誘惑を受けられました。しかしそれを跳ね返し、克服されました。
ボンヘッファーという人は『誘惑』という本の中で、こう語っています。

 「聖書は厳密に考えると、結局、最初の人間の誘惑とイエス・キリストの誘惑、すなわち人間を没落へ導く誘惑とサタンを没落へ導く誘惑という、ただ二つの誘惑の出来事を告げている。それ以外に人間の生に起こったもろもろの誘惑はすべて、明らかにこの二つの誘惑の出来事を象徴するものである。すなわち、わたしたちはアダムにおいて試みられるか、あるいはキリストにおいて試みられるか、どちらかなのである。わたしたちはアダムにおいて試みられるならば、その時私たちは没落にいたる。あるいはまた、キリストが試みられるならば、その時サタンは没落しなければならない。」(ボンヘッファー『誘惑』)

(7)人間を探し求める神

 8節、「その日、風の吹く頃、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」。「風の吹く頃」というのは、夕方です。神さまが夕方にエデンの園を散歩なさっていたのですね。その音を聞くと、二人は「やばい」と思って、「主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れた」。
 しかし神さまはアダムを呼び出されるのです。「どこにいるのか」。神さまのもとから隠れようとする人間を、神は放っておかれず、呼び出される。アダムはこの時、この神さまの「お前はどこにいるのか」という呼び出しの声を、裁きの声として受け止めようとしましたが、逃げ切ることはできませんでした。
 私たちは確かに罪を犯した時にも、神の前から隠れることはできません。どんなに人の目はごまかせたとしても、神さまの目はごまかすことはできません。アダムもそこでさばかれることを恐れたのでしょう。しかし、神さまは、ただ人間を罰するために「お前はどこにいるのか」と呼び出されるのではありません。人間が滅びないように、と配慮してくださる。めぐみをもって追いかけてくるのです。
 アブラハム・へシェルという人が『人間を探し求める神』という本を書きました。その中で、普通宗教というと、私たちは人間が神を探し求める、そういう道だと思っているが、そうではない、というのです。
 教会では、新来者でまだ洗礼を受けておられない人のことを、慣習的に求道者と呼びます。道を求める者、ということです。神への信仰に至る道を求める、ということでしょう。もちろんその通りなのには違いないのです。道を求めるという意味では、洗礼を受けたクリスチャンであっても、生涯、道を求め続けて、生きています。しかし聖書が語る信仰には、もう一つの大事な面があるのです。それはそれと同時に、いやまたそれに先だって、神が私たちを探し求めておられるということです。神が私たちに、「あなたはどこにいるのか」と、探し求め、呼びかけておられるのです。私たちはそこから逃れられないと同時に、そのことそのものが大きな恵みです。信仰とは、何よりもまずそれに気づき、それに「はい」と応答をするということです。
 新約聖書の中で、そうした神様の姿をよく表しているのが、九十九匹の羊を野原に残してまで、一匹の羊を探し求める羊飼いの姿でありましょう。それがイエス・キリストの姿であります。
 このイエス・キリストにつながる時、私たちのうちにあって、キリストが誘惑に勝利してくださるのです。そのことを覚え、真実に神の呼びかけに応答していく者でありたいと思います。


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