男と女に造られた人間

〜創世記による説教(10)〜
創世記2章18〜25節
コリントの信徒への手紙一7章7節
2008年5月11日    経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之


(1)共に生きる存在として

 今日は母の日でありますが、人類の母と呼ばれるエヴァの創造の箇所を通して、御言葉を聞きたいと思います。
 最初の2章18節にはこう記されています。「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」創世記第1章の創造物語において、神様が「良くない」と思われたことは一度もありませんでした。神様はひとつひとつステップを踏むように、「神はそれを見て、良しとされた」と記されていました。そして最後には「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」と書かれています。
 ところがこの2章では、「良くない」という言葉が出てくるのです。神様が「良くない」と判断されたのは、人間が独りでいることでした。もっともそれまでもアダムには、主なる神様が共におられました。しかしそれはあくまで、見上げる存在です。
 そこで神様はどうなさったかというと、動物や鳥をお造りになるのです。神様が人間と共に生きる存在として鳥や動物をお造りになったということを心に留めておくべきでしょう。私たちはいかに多くのものを彼らに負っているか、人間はそれらの支配者としてあまりにも思い通りにしようとしていないか、反省しなければならないと思います。

(2)対等なパートナー

 「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」(20節)。
 動物や鳥も確かに共に生きる存在ですが、人間と対等ではありません。共に生きるパートナーとしては不十分でした。もっと対等で、もっとお互いに呼び合うパートナーが必要だということで、後にエヴァと名付けられる「女」が造られるのです。それは全く彼にふさわしい助け手でありました。アダムは「ついにこれこそ、わたしの骨の骨、肉の肉」(23節)と喜びの叫びをあげるのです。神のように完璧な見上げる存在でもなければ、ペットでもない。共に生きるパートナーです。
 人間というものは基本的に「他者と共に生きる存在である」ということが、ここに表明されております。確かに私たちは、神様の御前に独りで立つことを知らなければなりません。しかしそれと同時に他の人と共に生きることも知らなければなりません。この二つが同時にあることによって、私たちは人間として成長していくのだと思います。
 ボンヘッファーは『共に生きる生活』という本の中で、「ひとりでいることのできない者は、交わり[に入ること]を用心しなさい。交わりの中にいない者は、ひとりでいることを用心しなさい」と言い、こう付け加えて説明します。

「われわれは、ただ交わりの中にいる時にのみひとりであることができ、ただひとりである者のみが交わりの中で生きることができる。この二つのことは、たがいに関連しているのである。ただ交わりの中においてのみ、われわれはひとりであることを学ぶのであり、ただひとりであることにおいてのみ、まさしく交わりの中にあることを学ぶのである」。

 これはパラドクス(逆説)ですが、真実であると思います。

(3)あばら骨

 神様がどのように「女」を造られたのかという描写は、最初のアダムの創造と同様に非常に興味深いものがあります。まず神様はアダムを深い眠りに落とされます。そしてアダムが眠り込むとあばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれました。あたかも今日の外科手術における麻酔医と外科医を兼ねているようです。そしてアダムから抜き取ったあばら骨で「女」を造り上げられました。頭でもなく、腕でも足でもなく、あばら骨。あばら骨は頭や手足に比べて重要でない部分に見えますが、逆に言えば、頭や手足のように働きが規定されてもいないと言えるのではないでしょうか。つまり「助け手」であるということは頭になるのでもなければ、手足になるのでもない。そのように働きが規定されない、もっと自由自在で臨機応変な、頭にもなりうるし、手足にもなりうる、そういう「助け手」であるということです。そしてアダムが目覚めた後に、神様が改めて彼女を彼の目の前に連れてこられたのでした。

(4)この物語は男性優位を示しているか

 ところでこの物語は、これまで二千年以上にわたって女が男に従うものであることを正当化するために用いられてきました。しかし本当にそうなのだろうかということを考えてみなければなりません。
 「先に男が造られて、その助け手として、その体の一部を取って女が造られたから、女は男に従属するものである」ということは、何となくあたっているような印象をもたせるかも知れませんが、注意深く分析して読んでみると、そうではないことがわかります。そのことに気付かせてくれたのは、私が学んだニューヨークのユニオン神学校のフィリス・トリブルという女性の旧約教授であります(『神と人間の修辞学』)。彼女が言っていることは非常に興味深いのですが、簡潔にご紹介したいと思います。
 第一に、「女は男の体の一部から取られた」ということから、女は男に従属的であるということは当たっていません。というのは、もしもそうであれば、人は土から造られたものであるから、土に従属すべきだということになってしまうでしょう。しかし聖書はそんなことは言っていません。神様は人間をそのように土の塵で造りつつ、そこに命の息を吹き込んで、神の霊で生きる尊厳ある存在にしてくださいました。そしてむしろ大地を耕してそれを支配するように命じられました。いずれにしろ人が眠っている間に女が造られたのですから、どちらにしても男も女も神様の被造物です。材料は誇ることができません。
 第二に、女は人を「助ける者」(口語訳聖書では「助け手」)として造られたのだから、従属的だということも言えません。「助ける者」(ヘルパー)と言うと、補助的な役割をするように受け取られがちですが、聖書では反対に上からの「助け」の意味で使われることもあります。詩編30編20節に「我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。我らの心は喜び、聖なる御名に依り頼む」という言葉がありますが、この「主は我らの助け」「助け」と、「彼に合う助ける者を造ろう」「助け」が同じ動詞なのです(エゼール)。ですから「助ける者」が下だとは言えないのです。
 そして第三に、これが最も大事なことですが、最初に造られた人、アダムは、厳密な意味で男とは言えません。アダム(人)というのは必ずしも実際の男を意味するものではないでしょう。男という意味もあるけれども、単純に人ということでもあります。英語のmanというのと似ています。男と女というのは関係概念ですから、女があってはじめて男は男足りうるのです。女が造られる以前のアダムというのは、単に「人」と言った方がいいでしょう。厳密な意味では、女ができた時に、同時に女に向き合う者としての男が誕生したと言えるのではないでしょうか。言い方を変えれば、神は「人」を眠らせて「男」と「女」に分けて造り直されたと言った方がいいかも知れません。
 第四に(これはトリブルではなかったと思いますが)、そもそも先に造られた者の方が優位であるということは言えません。創世記第1章の創造物語から言えば、逆に重要なもの程、後に造られているように見えます。草花を造って、魚を造って、鳥を造って、動物を造って、そしてそれらを治める者として、最後に人間をお造りになりました。もちろんだからと言って、男を支配する者として最後に女をお造りになったと言うのも言い過ぎでしょう。

(5)結婚

 この物語は、最初のカップル、アダムとエヴァの誕生ということを超えて、私たちに結婚とは何かということを語っています。
 まず結婚相手は、主なる神様が引き合わせ、自分の前に「連れてこられる」ものであるということです。日本では、「不思議なご縁で」などと言います。偶然の出会いのように見えても偶然ではない。神様がその出会いを用意し、共に生きるパートナーを連れてきてくださった。私たちは結婚に当たって、そのように信じることが大事であると思います。だからイエス・キリストも、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ19:6)と言われました。
 また彼は「ついにこれこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(23節)と叫びました。彼らの場合、まさにアダムの骨からエヴァが造られたのですが、私たちの場合にはむしろ長い年月をかけてそのようになっていくのではないでしょうか。結婚によって、他人であった者がだんだんとお互いの肉となり、骨となるのです。
 すでに申し上げましたように、男と女は互いに対等なパートナーです。両方とも完全ではない、欠けのある存在です。批判しあいつつ、お互いに変わっていかなければなりません。神様は対等なパートナーではありませんでした。動物やペットでもだめだったのです。人間は共に生きる存在として定められているのです。
 「二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(25節)。これには象徴的な意味もあると思います。「裸である」ということは無防備であり、何も隠さないということです。それでいて恥ずかしくない。夫婦はそうあるべきなのだろうと思います、なかなかそうはいきませんけれども。
 また事実上、一夫多妻が承認されているような時代に、一夫一妻の立場が実質的に表明されているのはすごいと思います。また「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(24節)とありますように、家系の存続が最も大事であると考えられている社会で、いわば「夫婦の関係が親子の関係に優先する」と宣言しているのもすごいと思います。

(6)結婚しない生活の祝福

 さて結婚しない生活についても触れておきたいと思います。今日、私たちが読んだ物語は確かに「結婚」ということが中心になっていますが、男と女の関係というのは、当然のことながら、それだけではありません。今日では結婚しない人々も随分増えてきました。主義として独身を貫いている人もあるでしょうし、「結婚したいけれども、ふさわしい相手がなかなか見つからない」という人もおられるでしょう。
 結婚は結婚で大きな祝福ですが、結婚しないことでかえって自由であり、別の祝福した人生もあり得ると思います。神様はさまざまな形で私たちの人生を導かれます。
 私たちは、イエス・キリストご自身が独身であったということを忘れてはなりません。使徒パウロもまた独身でした。イエス・キリストは、「結婚できない人もいるが、天の国のために結婚しない人もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」(マタイ19:12)とおっしゃいました。パウロは「結婚してもいいけれども、こういう時代には、しない方がもっといい」というようなことも言っています(一コリント7:38)。
 カトリックの献身者はそうした生き方を自分から決断して選び取っています。私はブラジルで宣教師をしていましたが、カトリックの外国人宣教師のための語学コースでポルトガル語を学びました。そこで共に学んだカトリックの宣教師は、神父もシスターもみんな独身でした。彼らは独身であるがゆえに実に身軽に、どこへでもぱっと動けます。感心もし、うらやましくも思いました。彼らはそのように結婚を断念して生きることによって、結婚に優るとも劣らぬすばらしい祝福を受けている。宿舎では夜遅くまでギターを弾いて歌を歌い、踊っていました。60になっても70になっても若々しく、まるで永遠の青年会のように見えました。家族を抱えている者は、子どもを育てる責任があります。大人の都合であまりにも振り回すのはかえって問題があるでしょう。どちらがいいかなどと言うことはできませんけれども、それぞれに意味があり、祝福があり、それぞれにしかできない仕事をするように召されているのだと思います。

(7)他者と共に生きる社会

 カトリックの神父、修道士、修道女たちのように、積極的に結婚を断念した人でなくても、たまたま結婚していない人、なかなか結婚するチャンスにめぐりあわない人もおられるでしょう。しかしその場合も、結果的には同じように家庭を持たないからこそできること、その人ならではの自由な奉仕と証しの道がありうると思います。それはそれで神様が道を整え、それでしか与えられない特別な祝福をご用意くださっているのではないでしょうか。
 また結婚したけれどもすでに伴侶に先立たれた方は、文字通り骨の骨、肉の肉を引き裂かれる思いをなさったことと思います。あるいは、御心と信じて結婚したけれどもやはり御心ではなかったと、痛みをもって離婚を余儀なくされた方もあるかも知れません。中には再婚なさって幸せになられた方もあるでしょう。
 前に触れましたように、同性愛他、セクシュアル・マイノリティーの人々もいます。その人々は、伝統的な「性」のあり方を脅かような存在に映るかも知れませんが、私はそれも性の多様なあり方として認めあっていくことが問われているのだと思います。神様が人間を男と女に造り、他者と共に生きるようになされた。そのように祝福の基を据えられたことを感謝して、それぞれに祝福された道を共に進んでいきたいと思います。


HOMEへ戻る