主の熱き思い

〜ヨハネ福音書講解説教(2)〜
アモス書5章14〜15節
ヨハネ福音書2章13〜17節
2002年4月14日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)怒るイエス

 みなさんは、イエス・キリストに対して、どのようなイメージをお持ちでしょうか。私たちを温かく包み込んでくださるような、やさしいお方というイメージを持っておられる方は、案外多いのではないでしょうか。「神は愛である」と聖書は語ります(ヨハネの手紙一4:16)。そしてその神の愛が見える形となったお方がイエス・キリストであると、聖書は証ししています。その通りであります。しかし注意しなければならないのは、聖書の言う「愛」とは、決してわたしたちを甘やかすようなものではない、ということです。そしてイエス・キリストは、いつも優しく穏やかな表情を見せておられたわけではありません。この前の「カナの婚礼」の箇所では、母マリアをさえも突き放すような厳しさと、最後には彼女の願いをかなえてくださる優しさの両方があらわれておりました。
 今日の「神殿から商人を追い出す」と題された箇所は、いかがでしょうか。これは、主イエスが優しいお方だというイメージをもっておられる方は、随分戸惑われるような話ではないでしょうか。エルサレムへ上って行かれた主イエスは、神殿に入られると、神殿の境内で牛や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちをご覧になりました。そしていきなり、縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちにこう言われました。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」(16節)。これはかなりショッキングな話であります。イエス・キリストが、神殿で大暴れなさったという話は、マタイ・マルコ・ルカのいわゆる共観福音書にも出ております。同じ出来事がもとになったのであろうと言われていますが、そこにおいては、イエス・キリストの最後の時、十字架にかかられる数日前の出来事となっております。ヨハネ福音書では、むしろ公生涯に入られる最初の出来事の一つとして記されております。
 ここに記されている主イエスの行動は、ある意味で非常に挑発的です。実際この続きである18節では、ユダヤ人たちがイエス・キリストに向かって、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と、問いつめようとしております。「いい度胸だ。こんなことをするからには、それなりの覚悟はできているのだろうな」。何だか暴力団の縄張り争いのようですが、実際、後で述べますように、ここでは、それと似たようなことが起きていたと言えるかも知れません。

(2)神殿でなされていたこと

 イエス・キリストがどうしてこのような不可解な行動をとられたのかを考えるにあたって、まず神殿にどうしてこのような商売をする人がいたのかを説明しておきましょう。神殿では、犠牲の動物を捧げる習慣になっておりました。エルサレムに集まってくる巡礼の人々は、自分の故郷から、はるばると犠牲の捧げ物にする動物を引いてくることはできません。中には引いてくる人もあったようですが、エルサレムに来てからそれを買い求めるのが、通例でありました。犠牲の動物の他にも、儀式のためのさまざまな品物を売る店も必要でありました。またここでは、ユダヤの通貨しか通用しませんでしたので、それぞれの地域のお金を両替する人も必要でありました。そのことは、主イエスもおわかりであっただろうと思います。ですからもしもここで、神殿という場所にふさわし仕方で、商売がつつましく行われていたとすれば、主イエスもこんなことはされなかったであろうと想像します。
 しかしながら、今日でもよくあるように、大体よそ者は事情がよくわかりませんし、他に方法もありませんので、足元を見られて、高い値段を吹っかけられます。私もブラジルにいた頃は、よく苦い経験をしました。この巡礼者たちは、遠いところから来ているので、だまされて高いお金を取られたからと言って、犠牲の捧げ物をせずに帰るわけにも行きません。ここが唯一、神様が人間にまみえる場所とされていたからです。貧しい人々にとっては、エルサレムにでてくるだけで大変であっただろうと思います。イエス・キリストの一行も、12節と13節からわかりますように、ガリラヤ地方のカファルナウムからエルサレムに出てきた「おのぼりさん」です。もしかして彼らは、そうしたこと(よそ者が高い値段を吹っかけられたりすることなど)を、当事者として経験したのかも知れません。
 そうした不正な事態を黙認するだけではなく、その背後で私腹を肥やしていたのが、当時の宗教家たちでありました。この商売人、両替人は、いわば彼らの「縄張り」の中で仕事をさせてもらって、恐らく「ショバ代」を払いながら、裏でしっかり彼らとつながっていたのでありましょう。

(3)二つの事柄に対する怒り

 主イエスは、そうした仕組みを一瞬のうちに見て取られました。境内に入ってみると、あたかも神様などいないかのごとく、お金があたりを支配していました。「わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」「神様は一体どこにいるのか。どこに押しやられてしまったのか。」
 私は、主イエスの怒りは二つの事柄に向けられていたと思います。一つは、神が神として立てられず、父の家と言うべき神殿が商売に利用されていること、それによって神殿が汚されていると言うことです。マタイ福音書の平行箇所では、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」というイザヤ書の言葉が引用されています(マタイ21:13、イザヤ56:7)。もう一つは、ここでは直接触れられてはいませんが、イエス・キリストの怒りは次のようなことに向けられていたのではないかと思います。それは、神殿においてさえ、貧しい人々、立場の弱い人々が犠牲にされ、その上にあぐらをかいている人々がいるということです。それによって私腹を肥やしている人々がいるということです。そうした状況に、主イエスの怒りが爆発するのです。
 当時の状況としては、先ほど述べましたように、これらの商売はある意味で必要なものでありましたから、「神の家」らしく行われていれば、こんなことはなさらなかったであろうと思います。しかしここで起こっていたことは、明らかに人間中心の、しかも貧しい人からさらにお金を巻き上げようとするような、自己中心的な有様であったのであろうと思います。
 イエス・キリストはいつも温かく、優しいお方であったわけではないのです。ある時は「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすためだ」(マタイ10:34)と言われました。神様の主権が侵され、人間が好き勝手なことをし、弱い人が虐げられ、正義と公正が失われているところでは、神様はお怒りになるのです。イエス・キリストもお怒りになる。机をひっくり返すほどのインパクトをもって迫ってこられるのです。逆に言いますと、そうであってこそ、真の神様であり、そうであってこそ、愛のイエス・キリストと言えるのではないでしょうか。本当の愛というものは、時に怒りとして爆発するほどの情熱を、うちに秘めているものであろうと思います。怒るべき時に怒らないこと、例えば誰かが社会の犠牲になっている時にも平気でいられるのは、愛に満ちているのではなく、無関心であるからではないでしょうか。
 昨今のイスラエルとパレスチナの紛争に関しても、そのように思います。もちろん双方に問題がありますけれども、全くお話にならないほどの武力の差がある両者において、それをあたかも対等な戦争をしているように見せかけているイスラエルの側の倫理的責任は、とてつもなく大きいと、私は思います。

(4)預言者の系譜

 ここに見られるようなイエス・キリストの姿は、旧約聖書の預言者の系譜に連なるものであります。特に、今日読んでいただいたアモス書には、神が正義に満ちたお方であることがよくあらわれております。その中でも、この第5章には、私たちの信仰の姿勢をただすような、はっとさせられるような言葉が集められております。5章6節、「主を求めよ、そして生きよ。さもないと主は火のように、ヨセフの家に襲いかかり、火が燃えさかっても、ベテル(神の家)のために火を消す者はいない」。あるいは先ほどの14節、15節、「善を求めよ、悪を求めるな、お前たちが生きることができるために。そうすれば、お前たちが言うように、万軍の神なる主は、お前たちといてくださるだろう。悪を憎み、善を愛せよ。また、町の門で正義を貫け。あるいは万軍の神なる主がヨセフの残りの者を、憐れんでくださることもあろう」。そしてクライマックスは、5章24節であります。「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」。イエス・キリストは、まさしくこの預言者の言葉のように、正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせるために、この世に来られ、その中を生ききったお方でありました。

(5)十字架への歩み

 今日のテキストでありますヨハネ福音書2章17節に、「弟子たちは『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」とあります。ここで弟子たちが思い出したのは、詩編69編10節の言葉であります。これは少しわかりにくい言葉ですけれども、これまで述べてきたようなイエス・キリストの神の家に対する熱い思い、あるいは神の正義に対する熱い思いが、イエス・キリストを死に追いやる、ということであろうかと思います。弟子たちがこの言葉をいつ思い出したのか、これも漠然としておりますが、もしかすると、この後の22節に記されているのと同じように、十字架と復活の後であったかも知れません。もしもその場で、この詩編の言葉を思い出したのであるとすれば、「イエス様はこんなことをしておられたら、いつか殺されてしまう」という意味合いであろうかと思います。
 確かにこの時の主イエスの行動は、ユダヤ人たちの反感を買うことでありました。確かに弟子たちが思ったように、死を招くことでありました。しかしながらイエス・キリストは、それを迂闊にも不用意に、無考えになさったのではありません。ここでユダヤ人たちと呼ばれている人々をみくびっておられたわけでもありません。イエス・キリストは、この時すでに、つまり彼の公生涯の始めより、自分の死、しかも十字架の死というものを見据えておられたのであります。死をも厭わないというだけではなく、それどころかまさしく、イエス・キリストの生涯全体は、この十字架の死に向かっての歩みでありました。

(6)犠牲の捧げもの、イエス・キリスト

 来週、もう一度お話しすることになりますが、この続きに「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(19節)というイエス・キリストの言葉があります。まさにこの言葉こそ、主イエスがすでに十字架と復活を見据えておられたことを示す言葉ではないでしょうか。私は、そうしたことから、つまりイエス・キリストが御自分の十字架と復活を見据えながら行動なさったということから、改めてこの時の主イエスのなさったことを見てみますと、もう一つ象徴的な意味もあるのではないかと思いました。イエス・キリストは、神殿に入り込んで、羊や牛をすべて境内から追い出された。両替人の金をまき散らし、その台を倒された。これらの商売は、この当時としては必要なものであった、と申し上げました。それらを追い出し、ひっくり返されたということは、一体何を意味するのか。ちょっとまわりくどい言い方をしましたけれども、十字架と復活からそのことを振り返ってみますと、こういうことが言えるのではないでしょうか。「もうそのようなことが必要でなくなったのだ。私が来たと言うことは、もう動物を犠牲にして、神様の赦しを請う、そのような仕方で、神様の前に出る必要が無くなったのだ。私がそのような新しい時代をもたらすのだ」。そう告げていると、私は思います。ただ単に騒ぎを起こして、みんなをパニックに陥らせようとなされたのではありません。「私が責任をもつ。もはや牛や羊や鳩のような犠牲の捧げ物は必要ない。わたし自身が父なる神に捧げられるべき捧げ物だからだ」。そのことを態度をもって、行動をもって告げようとしておられるのではないでしょうか。
 私たちはヨハネ福音書を第2章から読み始めました。第1章はクリスマス前に読みたいと思ったからです。私たちが飛ばした第1章29節には、洗礼者ヨハネがイエス・キリストを指して語った言葉が記されております。それは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」という言葉です。これについても、その時に詳しく申し上げたいと思いますが、一言で言えば、「このお方、つまりイエス・キリストこそ、神御自身が備えられた小羊、まことの犠牲の捧げ物だ」ということであります。犠牲の捧げ物というのは、私たちの罪を赦していただくために神に捧げるものでありました。旧約聖書の時代、人々は律法に定められた通り、羊や牛や鳩を捧げていましたが、それでも人は罪を犯し続けるわけですから、ずっと継続的に犠牲の捧げ物をしなければなりませんでした。しかしイエス・キリストという「神の小羊」(アグヌス・デイ)は、そうした犠牲を打ち止めにさせて、余りある程に大きな意味をもった犠牲の捧げ物でありました。
 そうしたことを心に留めながら、この物語を読んでみるならば、やはりこれも、愛の主イエス・キリストの姿をよく映し出した物語と言えるのではないでしょうか。

(7)牧師として、長老・CS教師として

 私は「わたしの父の家を商売の家としてはならない」という言葉を読む時に、牧師としてこれを自戒の言葉にしなければならないと思います。牧師という仕事は、神によって召されているという面と同時に、それによって生活の糧を得ているこの世の職業でもあるからです。イエス・キリストは、働く者がその報酬を得るのは当然だとおっしゃってくださって、そこから生活の糧を得ることをよしとしてくださっていますけれども、私たちはそこで安定した地位を得る時に、どうしても保身的になりがちであることは否めません。そうした中で、私たち牧師という者は、いつも原点に立ち帰り、ある意味では、いつでも裸になれる用意をしておかなければならないでありましょう。俗っぽい言葉で言うならば、「神様を飯のタネにしてしまってはならない」と思うのです。
 本日は、この後、長老任職式とCS教師の任命式が行われようとしています。それぞれ教会の大切な、そして責任の重い職務であります。私たちは、こうした務めに就く時にも、ただ馴れ合いで、毎年のこととしてそれを行うのではなくて、原点に立ち帰り、イエス・キリストが持っておられたのと同じ熱き思いをもって、あるいは持てるように祈りながら、この職務に就きたいと思います。