霊から生まれる

〜ヨハネ福音書講解説教(4)〜
エゼキエル書37章7〜10節
ヨハネ福音書2章23〜3章10節
2002年5月19日 ペンテコステ礼拝
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)しるしと信仰

 ヨハネ福音書の2章23〜25節は、3章へのつなぎのような働きをしておりますが、よく読んでみますと、深い内容をももった箇所であることがわかります。
 23節、「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」。イエス・キリストのなさるしるし(奇跡)を見た多くの人たちが「イエスの名を信じ」ました。それらの奇跡が、神の子である「しるし」として、彼らの信仰を導いたと言うことができるかも知れません。ところが「イエス御自身は彼らを信用されなかった」(24節)というのです。この「信用されなかった」という言葉は、その直前の「イエスを信じた」の「信じた」と同じ言葉が使われています。彼らは主イエスを信じたけれども、主イエスの方では彼らを信じなかった」と対比されているのです。しるしを見て信じる信仰とは、その中心にまだ私たちがいるのであって、私たち自身が変わること、新しくなることは考えられていません。
 しるしと信仰の関係について考えますと、こういうことが言えようかと思います。
 まずしるしを見て、不十分ではあるけれども、何らかの信仰を持つというレベル。このレベルの信仰の代表選手のようにして、3章の初めにニコデモという人が登場いたします。
 その次は、「しるし」の背後にあるの意味を見抜いて、イエス・キリストこそ真理であると受け入れる信仰。一つ進んだ信仰と言えるでしょう(ヨハネ6:68〜69など参照)。
 もう一つ先は、今度はしるしを見ないでも信じる信仰です。復活の主イエスが弟子であったトマスに出会われた話をご存じでしょうか(ヨハネ20:24〜29)。「自分はこの指を、主イエスの釘跡に入れてみなければ信じない」と言っていたトマスの目の前に、復活の主があらわれられ、「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者は幸いである」と言われました。この主イエスの言葉からしても、しるしと言うのは、信仰に入るきっかけに過ぎないのであって、本当に大事なのはそこから先だと言うことができると思います。

(2)ニコデモ

 ではここに登場するニコデモとは、一体どういう人物であったのでしょうか。

「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった」(1節)

まず彼は「ファリサイ派に属する」人でありました。きちんとした厳格な律法教育を受けた人です。学歴がしっかりしている。次に「ユダヤ人の議員」というのは、サンヘドリンと呼ばれた、ユダヤの最高議会の議員です。時の権力者とも近い位置にいたかも知れません。もう一つ10節の主イエスの言葉から「イスラエルの教師」でもあったことがわかります。ニコデモは学識があり、社会的地位があり、尊敬され、評判も得ていた人物でありました。そういう人がイエス・キリストを訪ねてきたのです。決して冷やかし半分ではありません。また別のファリサイ派の人がしたように、「罠にかけよう」としてイエス・キリストに近づいたたわけでもありません(マタイ22:15参照)。彼なりに真剣に、「この人こそ神の子なのかも知れない」と思ってやってきたのです。それはニコデモの次の言葉からもよくわかることです。

「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(2節)

これは、彼なりの精一杯の信仰告白であるということができるでありましょう。

(3)夜

 2節のところに、見落としてはならない言葉があります。最初の「ある夜」という言葉です。ニコデモという人は、夜こっそりイエス・キリストを訪ねてきました。これは一つには、ニコデモが本気であったということを示しております。つまりみんなの前で何かをしてみせるのではなく、自分の問題として、本当に必要だと思ったから訪ねてきたのです。ところがそれは同時に、彼はだれにも見られたくなかったということでもあります。彼には地位もあり、名誉もあります。評判もあります。そういう人であればこそ、人に何と言われるか、どう見られるかを恐れたのでしょう。
 もう一つは象徴的な意味もあるかと思います。まず彼がイエス・キリストを訪ねた時が「夜」のように暗い時代であったということです。そういう時代であったから、イエス・キリストは神殿の中で怒りを爆発させて、清めようとされたのでしょう。さらに、ニコデモの心自身が夜のような闇を持っていた。そのことを象徴的に言い表しているのかな、と私は思いました。

(4)何が必要かを察知して

 そのニコデモに対して、イエス・キリストは次のように答えられます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。彼は主イエスに何かを質問したわけではありませんが、ニコデモを迎えたイエス・キリストは、今ニコデモにとって必要なことは何であるかを察知して、このような言葉で答えられたのではないかと思います。
彼は、他の福音書に登場する「金持ちの青年」(マタイ19章16〜22他)に、と少し似ているのではないでしょうか。あの金持ちの青年も、すでにいろんなものを持っていました。教育も受けてきた、律法も守ってきた、お金もある、地位もある。しかしそれでも何か物足りなさを感じている。そしてその物足りなさが何であるかわかりません。だからイエス・キリストのところへやってきて、「先生、永遠の命を得るにはどんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)と尋ねたのです。イエス・キリストが十戒を数え上げて、「それを守りなさい」と言われると、「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」(同20節)と答えます。その時、イエス・キリストは、この完璧主義の青年に最も必要なものが何であるかを察知して、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい」(同21節)と言われました。私は、この答えは、すべての人に妥当する一般的な教えではないと思います。あの金持ちの青年にとって欠けているものが何であるか、なぜ彼の心が満たされないのかを察知した上での答えだったのです。
 ある意味で似通ったところをもつ、このニコデモが最も必要としているものを、イエス・キリストの言葉は鋭く言い当てていると思います。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。このニコデモも、自分の今やっていることは基本的に正しいと思っているのです。それを捨ててまで、イエス・キリストに従う気はありません。根本的に新しくなろうとは思ってはいない。今やっていることの上に、もっと完全になりたい。より高いことを求めているのです。そして彼なりに真剣に本気でイエス・キリストを訪ねたのです。そのニコデモに対して、イエス・キリストは、「新しく生まれ変わらなければならない」と語られました。「あなたの信仰の拠り所としているものは何か。あなたはしるしを見て、ここに来たのだろうけれども、本当に大事なのはそこから先だ」ということです。ニコデモはこう答えます。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母の胎内に入って生まれることができましょうか」(4節)。この少しピントはずれの答えをきっかけにして、イエス・キリストはもう一つ深い真理を語られます。ヨハネ福音書独特の語り口です。

(5)「水」と「霊」と「風」
 「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)。否定的な表現ですが、裏返して言えば、「人は水と霊とによって新しくなるのだ」ということです。「水」というのは、後の人が挿入したのではないか、と言われていますが、この言葉は、私たちの洗礼を象徴する言葉でありましょう。「水によって新しくなる」とは、あの「ノアの洪水」(創世記6〜9章)と、出エジプトの際に、紅海の水が真っ二つに分かれた(出エジプト記14章)という水のイメージがあるのかも知れません。
 私が感じたもう一つの水のイメージがあります。母親の胎内には羊水という水があります。ですから私たちはいわばその羊水の中から生まれてきたのです。ニコデモは「もう一度母親の胎内に入って生まれることができましょうか」と言っていますが、私たちは水を通して、あたかも胎内に戻るように新しく生まれ変わるのだという含みがあるのではないでしょうか。
 そしてもう一つ大事なのは、「霊」という言葉です。この「霊」が次のように引き継がれていきます。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)。ここで「風」と「霊」が対比されています。ちょうど霊というのは、風のようなものだ。目には見えないけれども、私たちはその音を聞くことができるし、体で感じることもできる。さらにまた風があることによって初めて、風がない時にもそこに空気があるということがわかる。空気がなければ私たちは生きることができませんが、風によってその存在を確認するのです。
 この「風」と「霊」はただ単に性質が似ているだけではなくて、ギリシャ語では実は両方とも同じ言葉です(プニューマ)。

(6)信ずる群に

 今日は、このヨハネ福音書とあわせて、エゼキエル書の37章を読んでいただきました。もう一度その中の8節以下を読んでみます。

「わたしが見ていると、見よ、それらの上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主はわたしに言われた。『霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る』。わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」(エゼキエル書37:8〜10)

 霊が死んだ人間を生き返らせたというのです。今日、私たちはペンテコステの礼拝を守っていますが、最初のペンテコステ(聖霊降臨)の出来事は、このように記されています。

「一同が一つになって集まっていると、突然激しい風が吹いてくるような音が聞こえて、彼らが座っていた家中にその音が響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒2:1〜3)

 ここでも「風」が出てまいります。
 私は、霊が一人一人の上にとどまったということと、弟子たちが一つの群となっていたということ、この両方が大事ではないかと思います。神様の霊は、私たち一人一人のもとに来て、一人一人を生かすものであると同時に、共同体、教会、信ずる群の中に降るのです。先ほどのエゼキエル書にも、「彼らは非常に大きな集団となった」とありました。一人一人を生かしながら、それを集団として生かす。それが神様の聖霊であります。
私たちは先ほど『讃美歌21』の364番を歌いましたが、この讃美歌の一つの特徴は、「来たれ聖霊よ、信ずる群に」となっていることです。「共同体の中に、私たちの教会に、聖霊よ、来てください。そしてこの教会をあなたの霊で生かしてください」と歌うのです。それはペンテコステを祝う時に、忘れてはならないことであります。ペンテコステが教会の誕生日と言われるゆえんは、まさにそのところにあるのではないでしょうか。

(7)人の信仰を裁くな

 さてこの時のニコデモの信仰は、確かにまだ十分なものではありませんでした。しかしながら、このニコデモという人は、ヨハネ福音書の最後に、もう一度出てまいります。アリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を引き取りたい、ピラトに願い出た時のことです。

「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持ってきた。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。」(ヨハネ福音書19章39〜40節)

 最後の瞬間に、ニコデモはペトロやヨハネにはできない貢献をしました。つまり彼はお金も地位も信用も持っている者として、権力者ピラトと話ができる者として、貴重な働きをしたのです。
 私は、ニコデモの歩みを見ていると、ある状態で、人の信仰を勝手に判断して、「あの人の信仰は中途半端だとか、本物ではない」などと裁いてはならないと思います。人の信仰には、それぞれの時、それぞれの段階があり、その人がこれからどうなっていくか、わからないわけです。それは、私たちの共同体の中でも同じでありましょう。神様がその時その時にふさわしい形で、その人の信仰を深め、用いてくださるのです。
 そしてまたどんな人間であっても、神様がかかわられる時に、私たちは新しくなることができるのです。水と霊とによって、新しく生まれ変わることができる。ニコデモは、「どうしてそんなことがありえましょうか」と言ったけれども、それは神様からすれば可能なのだということを、私たちはペンテコステの日に覚えるべきではないでしょうか。

(8)信用しなくても、愛するイエス

 最後に2章24節の「しかしイエス御自身は彼らを信用されなかった」という言葉にかえりましょう。私は、これは主イエスが、しるしを見て信じているような中途半端な信仰者を、冷ややかに突き放して見ておられたということではないと思います。ヨハネ福音書を続けて読んでいきますと、イエス・キリストがどういうお方であったかということが何度もでてきます。特に思い起こしたいのは、主イエスが御自分の弟子たちの足を洗われた時のことです。13章1節にこういう言葉があります。

「イエスは、この世から父の元へ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。

「この上なく」という言葉は、「最後まで」とも「徹底して」とも訳せます。イエス・キリストは徹底して、最後まで弟子たちを愛し抜かれたということです。イエス・キリストは、他の人間も同様に愛されました。信用されたはいなかったのだけれども、愛し抜かれた。やがては自分を裏切ることになるであろうということを分かりつつ、それでも徹底して愛し抜かれた。私は、2章24節の言葉はそうしたイエス・キリストの姿を重ね合わせてみる時に、さらに深い意味をもって迫ってくるのではないかと思いました。
 今日このペンテコステの日に、神様が息を吹くように起こされる風の音を聞き、その風を感じながら、新しくされることを祈り求めていきましょう。