神の愛の道

〜ヨハネ福音書講解説教(5)〜
創世記28章10〜17節
ヨハネ福音書3章11〜21節
2002年7月7日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)小福音書

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」

 ヨハネ福音書3章16節のこの言葉は、代々のクリスチャンによって、最も愛されてきた聖句の一つであります。以前の口語訳聖書では、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである」と訳されておりました。みなさんの中にも、この言葉を暗唱されておられる方がたくさんおられるのではないかと思います。あるいはもう一つ前の、文語訳聖書で暗唱しておられる方もあるかも知れません。宗教改革者ルターは、この言葉を「小福音書」と呼びました。聖書のメッセージを、一言で言い表したような言葉であるからです。
 この言葉は、しばしばクリスマスの季節に読まれます。「神はその独り子をお与えになった」「お与えになった」という言葉は、何よりもまずクリスマスのメッセージを端的に語っているからです。神様は、この世を愛された。そしてそこに住む私たち人間を一人一人愛された。だからそれが自分の罪のために滅んでいくのをよしとされなかった。そのために最愛の独り子をこの世界にお遣わしになったのだ、と言うことです。
 それはその通りであります。しかしこの「お与えになった」という言葉には、もう一つ意味があります。それは「死に引き渡された」ということです。神様が、独り子をお与えになるということは、ただ単にこの世界にお遣わしになるということだけではありません。死に引き渡すことを覚悟で遣わされた。もっとはっきり言えば、死に引き渡すために遣わされたということです。その命と引き替えに、私たちは命を得ました。ですからこの言葉は、クリスマスの福音を語ると同時に、受難節の福音をも語っており、その向こうにはイースターがかいま見えているのです。そうであるがゆえにこそ、この言葉は福音書全体の要約なのであり、それゆえにこそルターはこれを「小福音書」と呼んだのです。
 そのようにこの言葉は、それだけで独立したものとして読んでも意義深いものでありますが、この言葉にももちろん前後の文脈があります。ただしこの前後の箇所は、必ずしもわかりやすいものではありません。どちらかと言えば難解な言葉ですが、この前後の文脈の中で、改めてこの3章16節を味わいたいと思います。

(2)上げられる

 まず、その直前の14〜15節を読んでみましょう。

「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

この「人の子」というのは、イエス・キリストのことです。「上げられる」というのは、復活あるいは昇天を指す言葉のように思えますが、そしてそういう意味も確かに含まれているのですが、ヨハネ福音書では、むしろ十字架の上に「上げられる」という意味が中心であります。
 この「モーセが荒れ野で蛇を上げた」というのは、民数記21章4〜9節(旧約聖書249頁)に記されている出来事です。

「彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。『なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。』主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。民はモーセのもとに来て言った。『わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。』モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。『あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。』モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が蛇を仰ぐと、命を得た。」

 本来、自分の罪のために死ぬべき人間が、モーセの掲げる青銅の蛇によって、死ぬことを免れ、命を得たというのです。もちろんその効果には限界があります。そこで命を得たと言っても、一時的なものであります。しかしそれを引き合いに出しながら、ヨハネ福音書は、イエスの十字架を指し示したのです。こちらは一時的ではありません。「信じる者が皆、『永遠の命を得る』」と言うのです。

(3)二重写しの言葉

 さてすでにお気づきの方もあるかも知れませんが、ヨハネ福音書を読むときに、私たちが注意しなければならないのは、イエス・キリストの言葉とヨハネ福音書を書いた人(ヨハネ福音書記者と呼びます)の言葉が区別できないということです。イエス・キリストの言葉だと思って読んでいると、いつのまにかヨハネ福音書記者の言葉になっております。
 最初に読みました、有名な3章16節も一体どちらの言葉なのか、はっきりしません。この新共同訳聖書では、10節からイエス・キリストの言葉を示すカギ括弧が始まって、それが21節まで続いています。ということは、この言葉はイエス・キリストの言葉だということになります。しかし前の口語訳聖書では、この有名な言葉の直前、つまり15節の終わりでカギ括弧が閉じられていました。ということは、この言葉はヨハネ福音書記者の言葉だということになります。原文ではカギ括弧はありませんので、どちらにも読めるのです。と言うよりも、区別できない。二重写しに語られているのです。
 11節はいかがでしょう。

「はっきり言っておく。わたしたち(複数形)は知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがた(複数形)はわたしたちの証を受け入れない」

 本来、イエス・キリストとニコデモという一対一の対話の言葉の中に、「わたしたち」「あなたがた」という言葉が入っております。ですからこれは、イエス・キリストの言葉として記されていますが、ヨハネ福音書記者が生きていた時代の教会(紀元100年頃)と、その教会に敵対していた人たちとの対話が二重写しになっているのです。これは、ヨハネ福音書の一つの特徴であります。
 12節で、主語は再び「わたし」(単数形)に戻ります。

「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」
(12節)。

この「わたし」は、イエス・キリストご自身でありますが、やはりこれを書き記しているヨハネ福音書記者自身の「わたし」が透けて見えてまいります。

(4)ヤコブの梯子

「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」(13節)。

ここでは、イエス・キリストがすでに「天に上られた」ことが前提になっていますので、イエス・キリストの死と復活の後の、教会の証しの言葉と理解する方が自然でありましょう。
 この「人の子」が天から降ってきて、再び天へ上られたという記述を読んでおりまして、私は先ほど読んでいただいた「ヤコブの梯子」と呼ばれる物語(創世記28章10節以下)を思い起こしました。ヤコブという人は、アブラハムの孫、イサクの息子でありまして、エサウという双子の兄がおりました。兄が受けるべき父の祝福を、母リベカと共謀してだまし取ってしまうのです。それで怒り狂った兄に殺されないように、故郷を逃げ出して母リベカの故郷へ向かう途中でありました。ヤコブは逃げて逃げて、とうとう日が暮れたので、そこで一夜を明かすことにします。満天の星を仰いで横になったのでありましょう。そのせいか、ヤコブはその野原で不思議な夢を見ました。それはこういう夢でした。

「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(創28:12)。

私は、この階段が「天から地に」向かって伸びていていたということが大事であると思うのです。その逆ではありません。本来、天と地は全く別世界であり、地上から天にいたる道はありません。バベルの人々は、天まで届く塔のある町を建設しようと計画いたしましたが、その計画は神様によって打ち砕かれました(創11:1〜9)。天と地は、もしも道がつけられるとすれば、それはただ天から地に向かってつけられる時にのみ可能なのです。そしてヤコブの見た夢では、そのところを、天使、つまり天に属する者が上り下りしていたのです。
 ヤコブは夢から覚めて、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」(創28:16)、「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」(創28:17)と言いました。ヤコブは父の家から遠く離れたところ、まさに彼にとっては地の果てに思えるようなところで、神と出会い、そのような信仰告白をしたのであります。

(5)夢の実現

 私は、この夢は奇しくもイエス・キリストにおいて起こった出来事を指し示していると思います。天と地、それはかけ離れた世界でありますが、そこに天の方から道がつけられたのです。天に属する者、すなわち神の独り子であるイエス・キリストが、天から降ってきて、そしてまた天に上って行かれました。ただ単にこの世界を御覧になるためではありません。神が愛であるということを、身をもってあらわし、死に引き渡されるために来られたのであります。

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」
(17節)。

 お葬式の際にいつも歌われる讃美歌に「主よ、みもとに近づかん」(旧320番)という歌があります。

1 主よ、みもとに近づかん
  のぼるみちは十字架に
  ありともなど悲しむべき
  主よ、みもとに近づかん

2 さすらうまに日は暮れ
  石のうえのかりねの
  夢にもなお天を望み
  主よ、みもとに近づかん

3 主のつかいはみ空に
  かよう梯の上より
  招きぬれば、いざ登りて
  主よ、みもとに近づかん

 これは、先ほどの「ヤコブの梯子」の夢をもとに作られた讃美歌です。天からつけられたその道を通って、私たちもまた天へと至ることができる。それはキリストの十字架によって実現したのだと歌うのです。

(6)「裁き」と「救い」

「御子を信じる者は裁かれない。御子を信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じないからである」(18節)。

 「信じない者はすでに裁かれている」とは、一体どういう意味でしょうか。その前の17節と矛盾するように思われるかも知れません。私は、御子を信じることができるということの中にすでに救いがあり、信じることができないということが裁きの状態であるということだと思います。
 ヨハネ福音書記者はそのことを次のように言い換えております。

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(19〜21節)。

 イエス・キリストを主と信じて生きることそのものの中に、裁きからの解放があり、喜びがあるのです。救いというのはそういう状態です。ですから、救いというのは何かつらいことを辛抱して辛抱して、その報いとして死んだ後に与えられるというようなものではないと、私は思います。

(7)「ぶどう園」「放蕩息子」のたとえ

 私は、先週の早礼拝において、「ぶどう園のたとえ話」(マタイ20:1〜16)で説教いたしました。ぶどう園の主人が働き人を求めて、夜明けに広場に行きます。そして何人かを雇ってきました。朝9時にまた広場へ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、その人たちをも連れてきました。12時と午後3時にも同じようにしました。最後には夕方の5時にもう一度広場へ行って、人を集めてきました。そして報酬の時間になりました。夕方6時頃でしょうか。主人は終わりに来た人から順番に、賃金を払っていきました。約束の1デナリオン。そして一番早くから来ていた人にも、約束通り1デナリオンを支払いました。その時に朝から働いていた人たちは、不平を言ったのです。「なんで夕方から来た人と、朝から主人のもとで働いてきた自分が同じ1デナリオンなんですか。それは不公平じゃないですか」。
 彼らの言うことにも、一理あるかも知れません。しかし私は、彼らの心にあるものを、少し考えてみました。この人たちは、「報い」というものを、働いて働いて、最後に与えられるものとして考えていたのです。働いている間は、つらいのをじっと我慢して主人のところにいたのでしょう。彼らが知らなかったこと、気づいていなかったことがあります。それは、朝から雇われて主人のそばにいることの中に、すでに幸いがあったということです。そのように主人のぶどう園に入れられることそのものの中に「救い」があったのです。それに対比していえば、そのぶどう園の外に置かれていることの中に「裁き」があるのです。
 あの有名な放蕩息子の兄にしても同じことが言えるかも知れません。どこかへ勝手に出ていってしまった弟が帰ってきた時に、父親は大喜びをして、その弟息子のために宴会を開きました。その時に兄は、どうしたかと言うと、すねて一人で外へ出て行ってしまいました。その兄息子のために父親は、もう一度外へ出てきて、彼に言いました。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」(ルカ15:31)。兄息子はそのことを忘れていたのです。
 私は、救いと裁きというのは、そのような関係にあると思うのです。イエス・キリストのことを知り、イエス・キリストと共にあること、そのもとに生きることの中にすでに救いがあり、そこから閉ざされていること、その外に置かれていることが裁きなのです。このところのヨハネ福音書の記述というのは、そのことについてよく語っているのではないでしょうか。
 ですからここで言う裁きとは、そこから考えるならば、何か未来永劫にまでいたることではなく、むしろ今置かれている状態であると思います。そしてそれは「この光の方へ入ってこい。ここに救いがある」と呼びかけられている状態ではないでしょうか。そしてまさにその中に招き入れるために、イエス・キリストは天から地に降りてきて、道をつけてくださったのです。今ここにおられる方々の中に、この招きから漏れている人は一人もありません。私たちも今、その言葉を自分に与えられた言葉として受け入れ、「永遠の命」を共に生きる者となりたいと思います。