〜出エジプト記講解説教(5)〜
出エジプト記3:13〜22
フィリピ2:6〜11
2002年6月23日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之
先週、私は「私たちの人生において最も大きな問いは『私は何者か』という問いではないか」と申し上げました。この問いに並ぶもう一つの大きな問い、あるいはもしかするとそれ以上の大きな問いは、「神とは何者か」「神とは一体誰か」という問いではないでしょうか。この問いはまた、「神はおられるのか」という問いにもつながっております。出エジプト記第3章は、神様ご自身がモーセに語りかけ、自分が何者であるかを告げられた箇所であります。今日はこの箇所を中心にして、聖書の神様とは、一体誰なのか、どういう方であるのかを、ご一緒に聞いてまいりましょう。
まず先週の箇所になりますが、燃える柴の中からモーセに現れた神様は、ご自分の方からこう言われました。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(6節)。これはいわば、神様の自己紹介であります。
聖書の神様は、歴史を貫く神であります。アブラハム、イサク、ヤコブというのは、創世記に出て来るイスラエルの父祖たち(族長たち)の名前であります。その父祖たちの神が、今モーセに語りかけておられるのです。この言葉は、今日のテキストの15節に再び出てきます。私たちが信じる聖書の神は、抽象的な、漠然とした神ではなく、何よりもまず、このように具体的に、イスラエルの歴史に現れた神であるということです。もちろんその神は、ただイスラエルの神であるだけではなく、全世界の人々の神でありますが、そのことはやがてイエス・キリストを通して明らかにされるまで待たなければなりません。
次に今日のテキストは、神の名前について語っている重要な箇所であります。神様がモーセに、「わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(10節)と言われたのを受けて、モーセは神にこう語りました。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは『その名は一体何か』と問うに違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」(13節)。
モーセは、イスラエルの人々が問うだろうと言っていますが、それはモーセ自身の問いでもあったでありましょう。いやむしろモーセ自身の問いであったものを、イスラエルを引き合いに出して、聞いたのかも知れません。いずれにしろ真剣な問いであることには変わりはありません。
モーセの問いに対して、神様はこう答えられました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(14節)。何だかわかったような、わからないような言葉ですが、実は、この言葉は聖書の中でも最も解釈が難しい、謎のような言葉です。古来さまざまな解釈がありまして、旧約聖書学者たちによって多くの議論がなされてまいりました。その中には、この名前の研究で一生を終える学者もある程です。少し煩雑になりますが、できるだけわかりやすく単純化して、その解釈の幾つかをご紹介いたしましょう。
まずこの神様の言葉の原語ですが、「エーイェ・アシェル・エーイェ」というヘブライ語です。「エーイェ」というのは「私はある」、あるいは「私は何々になる」という両方の意味があります。英語で言うと、"I am." または "I will be." ということです。「アシェル」というのは、関係詞で、英語で言うと "who" あるいは "what"というのに近い言葉です。それをはさんで同じ言葉が並んでいるのです。普通は関係詞の前後は違う言葉であり、うしろの言葉が前の言葉を説明するようになるのですが、これはただ同じ言葉を繰り返しているので、説明ではなく、強調と言えますし、あるいは一種の言葉遊びのようになっています。問題は、全体として、これをどう訳すか、どう解釈するかということです。
まず新共同訳聖書は、これを「わたしはある。わたしはあるという者だ」と訳しています。「神は他の何者によっても左右されない、ご自分だけで存在し、ご自分の中にのみ存在基盤があるお方である」という意味であろうと思います。以前の口語訳聖書は「私はあってある者」と訳しておりました。英語の最も標準的なRSV、あるいはNRSVという聖書は "I am WHO I am" と訳していますが、これらも、それに近いニュアンスであります。
次に、岩波書店から最近刊行された聖書では、「わたしはなる、わたしがなる者に」と訳されています。英語の聖書にも "I will be What I will be" というこれに近い訳がありました。この訳には、「神が何であり、何になろうとするかは、神である私自身が決めるのだ」、そういう神様の決断の自由が宣言されていると言えます。
三つ目は、「存在を、存在たらしめるお方」すなわち「すべて存在する者の根拠であるお方」一言で言えば、「創り主」だと解する学者もあります。
四つ目として、神様は「わたしはわたしそのものである」ということによって、神様がご自分の名を明かすことを拒まれた、神様はご自分の名を明かされなかったという解釈もあります。ただしこれは、モーセを励ますというこの時の文脈から言って、あまり支持されないようです。
また、これは別の解釈ではありませんが、「私はある」ということによって、本当には存在しない偶像の神、異教の神との対比が暗示されている、ということも言えるでしょう。「他の神は、実際には存在しない神であるが、私は実際に存在する神だ」ということです。その他にもまだまだいろんな解釈があるようですが、私たち素人にとってはこれ位で十分かと思います。この神様の答えは、「神様とは一体誰なのか」「神様とは一体どういうお方なのか」という問いと、「神様は本当におられるのか」という問いに、同時に答えておられるのではないかと思いました。
あたかも最後に整理するかのようにして、神さまは、二つの自己紹介を繰り返されました。一つは「『わたしはある』という方が、わたしをあなたにたちに遣わされた」(14節)という言葉、もう一つは「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた」(15節)という言葉です。
さて神様ご自身が、ご自分について何と言われたかは、以上の二つでありますが、さらに私たちは、このところで語られた神様の言葉を通して、神様がどういうお方であるかを見ていきたいと思います。それは「苦しむ者の痛みを知り、その叫び声を聞き、そのために行動なさるお方だ」ということです。16〜17節で、神様はこう言われます。「あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と密の流れる土地へ導き上ろうと決心した」。
この言葉は、誰かが誰かの犠牲になっている時、誰かに苦しめられている時、あるいはもう少し大きな視野で言うならば、ある民族が別の民族に苦しめられている時に、神様は苦しめられている人の側に立って、そういう抑圧をなくし、不正をなくし、より公正な、より公平な社会に向けて働かれるお方だということを意味していると、私は思います。この世界の成り立ちというのは、非常に複雑でありまして、単純化して言うことは決してできませんけれども、そういう複雑な状況の中においても、神様は立場をとって、つまり苦しめられている人の側に身をおいて、そういう人たちの解放のために働かれるということを、高らかに宣言しているのだ、と私は思います。
この出エジプト記3章の終わりの部分を読んでみますと、少し私たちを戸惑わせるようなことが書かれています。
「そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身につけさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい」(21〜22節)。
何か略奪、強奪を正当化しているようにも受けとめられる言葉ですが、私は、これは、むしろこれまで無償で働かされてきた奴隷たちに、「当然の労苦の報いを得ていいのだ」と保証されたのだと思います。働きに対して、何も報いが与えられないというのは間違っている。あなたたちはその当然のものを得て、ここから出ていくのだということを言われたのでしょう。
旧約聖書に続編(外典)というのがあります。これは、私たちプロテスタントでは、正典として用いませんけれども、なかなか興味深いものです。みなさんの中にも、「続編つき」聖書をお持ちの方があるかも知れません。
その続編の中に「知恵の書」という書物があります。この「知恵の書」の著者は、イスラエル人がエジプト人の物を奪い取ったことを、奴隷として長年無償で働いた「労苦の報い」だと、はっきり書いているのです。(「知恵」というのは、人格化された、いわば神様のような存在であると、お考えください。)
「知恵は清い人々に労苦の報いを与え、驚くべき道を通らせ、昼間は彼らの避難所となり、夜は彼らの星明かりとなった。彼らに紅海を渡らせ、大量の水の間を通らせた。」(知恵の書10:17〜18、続編171頁)。
この最初の言葉です。「知恵は清い人々に労苦の報いを与え」られた。奴隷として働いてきたその労苦は、報われるというのです。
さて私たちは、この出エジプト記3章を通して、「神とは誰なのか」「神の名は何なのか」そして「神はどういうお方なのか」ということを心に留めてまいりましたけれども、次に新約聖書において、この「神の名」はどのように引き継がれているかということを見てみたいと思います。旧約の神というのは、「私はある」という神、それは他の何ものにも左右されずに存在し、自分がなろうとする者になり、しかも完全に自らを明らかにしてしまうことに対して距離を置く、いわば、私たちとは隔絶した神と言えると思います。それに対して、新約聖書のメッセージの中心は、そのような私たちとは比べることもできない、私たちには決して届かない、見ることも許されないような神が、驚くべきことに私たちと同じ「人」となられたということであります。神が私たちと同じ高さまで降りてきてくださった。こちらからは決して到達することのできないお方が、低く低くなってくださることによって、その方と親しくなることを許され、その方と共に、私たちも神の高さまで到達することができるようになったのであります。本来、私たちには見ることも許されていない、つかみどころのないように思えるお方であったのが、はっきりとその意志を言葉でもって伝えられ、見える形で接することを許されたのであります。しかもそれは普通の人間と言うよりは、人間の中でも最も低い罪人という形を取り、最も忌み嫌われる十字架という形で殺されました。すべての人を、もれなく救い上げるためであります。
そして不思議なことが起こったのです。そのように低く低くなることによって、神は反対にそのお方を高く高く引き上げられました。そしてそのお方に「あらゆるものにまさる名」をお与えになったのであります。その名前とは、イエス・キリストという名でありました。この名前こそ、新しく神が私たちにお示しになった名前であります。この名前によって、神様は自らをもっと私たちに身近な形でお示しになり、もっとはっきりとそのご意志とご計画をお示しになりました。その名前によって、神様はもっとはっきりと、私たちにその愛をお示しになりました。
使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙の2章6節以下で、このように述べています。「キリスト賛歌」と呼ばれる部分です。
「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリピ2:6〜11)。
本日の午後、経堂緑岡教会の牧師就任式が行われようとしています。モーセは神様の召しを受けたとき、最初から素直にそれを受けたわけではありませんでした。私はモーセの気持ちが分かるような気がいたします。神様がご自分の計画の中で人を召し、その目的の中で人を遣わされるということは、そうたやすいことではないことを承知しているからであります。この時、モーセはファラオの激しい抵抗を受けることをすでに感づいておりましたし、そういう外からの抑圧だけではなくて、内側、神の民自身のもろさというものも、それなりに分かっていたでありましょう。そして何よりも、モーセ自身が「私は何者でしょう」(3:11)と問うたように、自分の力なさを知っていたからであります。
牧師の就任ということも、そういう一面があるでしょう。外にも内にも、私たちにはどうすることもできないように思える問題や課題が存在しますし、何よりも自分自身の弱さ、もろさがあります。もちろん、この世のどんな職業であってもそういうことはあるでしょうが、それでも他の職業とは違った一面があると思います。私はそのような中で受ける召しというものを、居住まいをただして聞き、厳粛に受けとめなければならないと思っています。
モーセも人間であります。間違いもおかす。御心に背いたこともしてしまう。事実モーセは、この後、不信仰のゆえに約束の地に入ることを許されず、その手前、ネボ山の頂で、約束の地を仰ぎ見ながら、生涯を終えることになります。しかしながら神様は、そのような限界のある人間、間違いもおかす人間を承知の上で、ご自分の大切な計画のために召し、その使命をお委ねになるのです。「大胆に歩め。大胆に御旨を告げよ。大胆に働け」。私もそのような神の召しを信じ、モーセが押し出されていったように、宣教のわざに、遣わされていきたいと思います。
幸いなことに、私たちにはモーセに与えられたよりも、もっと確かな、そしてもっと近しい神の名が与えられております。イエス・キリストという名前であります。「その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイ1:23)とも記されています。「神、われらと共にい給う」という意味であります。大牧者なるイエス・キリストが共にいて、先だって私たちを導き、前から後ろから横から取り囲んで支えてくださることを信じ、歩みだしたいと思います。