弁解するモーセ

〜出エジプト記講解説教(6)〜
出エジプト記4章1〜17節
ルカ福音書9章57〜62節
2002年7月21日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)第一、第二の抗弁

 出エジプト記第3章はモーセの召命物語でありました。燃える柴の中から、神はモーセに語りかけ、次のように言われました。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(3:10)。しかしこの召しに対して、モーセは「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(3:11)と、抗弁をいたしました。これは第一の抗弁と言うべきもので、神様とモーセの対話はその後、今日読んでいただいた4章17節まで延々と続くのです。神は、モーセの第一の抗弁に対して、「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える」(3:12)と答えられました。
 しかしモーセはまだ納得せず、神に尋ねます。「彼らに『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うに違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」(3:13)。この第二の抗弁に対して、神は「わたしはある。わたしはあるという者だ」とお答えになりました。この神の名については、すでに詳しく申し上げましたので、今日は繰り返しません。

(2)第三の抗弁

 本日の第4章は、モーセがそれでもなお、抗弁するところから始まっています。いわば第三の抗弁であります。「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」(1節)。このモーセの抗弁に対して、神様はもはや言葉で答えるよりも、もっとはっきりとしたしるしをお示しになります。神はモーセに、「あなたが手に持っているものは何か」と問い、モーセが「杖です」と答えると、「それを地面に投げよ」と言われました。モーセが杖を地面に投げると、杖はへびに変わりました。そして今度は「しっぽをつかめ」と言われて、しっぽをつかむと、蛇は杖に戻りました。
 さらに神は、今度はモーセに「ふところに手を入れてみよ」と言われました。モーセがふところに手を入れて、出してみると、手は真っ白になって、「重い皮膚病」にかかっていました。そして言われるまま、もう一度ふところに入れて出してみると、今度は元通りの手になっていたというのです。さらにこう言われました。「しかし、この二つのしるしのどちらも信ぜず、またあなたの言うことも聞かないならば、ナイル川の水をくんできて乾いた地面にまくがよい。川からくんできた水は地面で血に変わるであろう」(9節)。これらがモーセの第三の抗弁に対する神様の答えでありました。

(3)第四の抗弁

 しかしそれでもなお、モーセは抗弁を続けるのです。

「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうなのです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」。
(10節)

 第二、第三の抗弁は、「イスラエルの民の方が自分を信用しないだろう」という内容でしたが、この第四の抗弁では、モーセ自身の資質を問題にしています。これは第一の抗弁で、「わたしは何者でしょう」と述べたのに通じるものでしょう。「全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」。この言葉を聞いて、神はやや怒り気味にこう言うのです。

「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」。
(11〜12節)

 「人間の口も、目も耳も、それらすべてを司っているのは、それを創ったわたしだ。そのわたしが『行け』と言っているのだから、何も心配することはないのだ。」本当に力強い言葉です。あれだけのしるしを見せてもらい、その力を持った方からこれだけの力強い言葉をいただいたのです。普通であれば、もうこの辺で「わかりました。あなたの熱意に負けました」と、観念するものでしょう。しかしそれでもなお、モーセは抵抗するのです。これはもう第五の抗弁とは言えません。モーセは考え得る抗弁を、もうすべて言い尽くしている。もはや言葉をもっていません。それでこう言ったのです。

「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」。
(13節)

 これがモーセの本音でありました。本当は行きたくないので、行かなくてもいい理由を一生懸命見つけて、断ろうとしていたということが、この言葉からわかるのです。
 そして神様も、とうとうここで堪忍袋の緒を切らします。

「主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。『あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている』」。
(14節)

 そのようにして、神様はモーセと共に、モーセより三歳年長の兄アロンを共に遣わすのです。

「彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。彼はあなたに代わって、民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を手にとって、しるしを行うがよい」。
(15〜17節)

 これがモーセに語られた最後の言葉です。モーセはもうそれ以上何も語っていませんが、この続きを読んでみると、エジプトへ向かう決心をしたことがわかるのです。

(4)主イエスに従う

 この神様とモーセのやりとりを読みながら、私は先ほど読んでいただいた主イエスが弟子を召される物語を思い起こしました(ルカ9:57〜62)。最初に自分の方から主イエスに従いたいと申し出た人との対話がありますが、その後の二人は主イエスの方から「わたしに従いなさい」と呼びかけられたのを、躊躇したというエピソードです。
 この二人のうちの一人目は、主イエスの呼びかけに対して「まず、父を葬りに行かせてください」(59節)と言うのです。これは、もっともなことのように思えます。子どもが親を葬るというのは、古今東西を問わず、誰しもが大切にすることでしょう。日本でも身内の葬儀ともなれば、すべてを中断してそれを優先するものです。特に仏教の伝統では、死者の葬りというのを非常に大事にします。そうした習慣の中、「クリスチャンは死者を大事にしない」という批判を、時々聞くことがありますが、それは誤解であろうと思います。クリスチャンもやはり葬儀を大事にしますし、むしろクリスチャンの葬儀によって、「キリスト教のお葬式って、本当に心がこもっていていいなあ」という声もしばしば聞きます。ただしクリスチャンは、「死者の供養をしないと、死者(先祖)の霊が浮かばれない」という考え方はしません。それははっきりしている。そうしたことから批判が出て来るのでしょうが、この点については、あとで少し補足したいと思います。
 二人目は、こう言いました。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」(61節)。これも気持ちはよくわかります。しかし私たちが確認しておかなければならないことは、これらは二つとも(父の葬りも家族へのいとまごいも)私たちの想像以上に時間のかかることであっただろうということです。つまり瞬間的に、あるいは一日や二日で終わることではないのです。特に家族へのいとまごいとなれば、どこでもってよしとするか、どこで未練を断ち切るかは、なかなか線が引けません。「もう少し先にしよう、いや来年にしよう」ということになってしまいがちです。「ちょっと家に帰って挨拶をして、すぐ帰ってきます」というようなわけにはいきません。

(5)「まず」

 この二人の返事に共通する言葉があります。それは「まず」という言葉です。彼らは、主イエスに従うことよりも、「まず」他のこと、特にこの世の生活において大事とされていることを優先させたのです。福音書記者はあえて、この世の価値観において最も大事とされているようなケースと、主イエスに従うことを、対比させたのでありましょう。
 この「まず」という言葉で私は、主イエスの「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)という言葉を思い起こしました。主イエスは、これに続けて、「そうすれば、これらのもの(必要なもの)はみな加えて与えられる」と言われました。私たちは、この世の生活を営んでいく限り、大切にしなければならないことがあります。人とのおつきあいがあります。仕事の面で優先しなければならないこともあります。家族を養わなければなりません。子どもを育てなければなりません。年老いた両親の面倒をみなければなりません。しかしそうした、さまざまなの「しなければならないこと」に取り囲まれた生活の中で、究極のところ一体何を優先するのかということが問われるのです。
 「主よ、あなたはわたしがどんな状況に置かれているか、わかっておられない。私は今、それどころではないのです」。そう思う人もあるかも知れません。しかし主イエスは、むしろ私たちのそのようながんじがらめのような生活をすべてご存じの上で、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われたのではないでしょうか。そして「明日のことを思い悩むな。必要なものはすべて添えて与えられる」と、約束されたのではなかったでしょうか。

(6)死の真の解決者イエス

 この「主よ、まず父を葬りに行かせてください」と言った人に対して、主イエスは、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」(ルカ9:60)と答えられました。この言葉は、一見遺族の気持ちを逆なでするような言葉のように思えます。しかし私は、イエス・キリストの福音全体の中で、この言葉を読むならば、また違った響きを持ってくるのではないかと思うのです。つまり誰が一体、この言葉を語っておられるのかということです。私たちの死というものを最も配慮に満ちた形で受けとめておられるお方、私たちの死というものを、他の誰もなしえない形で解決してくださったお方が、この言葉を語られているのです。無責任に「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われたのではない。私たちは死んだ人に対して、究極のところでは何もしてあげることができません。何もしてあげることができないからこそ、せめて心を込めて葬りをしてあげたいと願うのでありましょう。それが、私たちが死んだ人に対してなすことのできる、最後の、そして唯一のことだからです。私たちの手元を離れたその人は、神様の御手に委ねるより仕方がないのです。供養をしても、それで死者の魂が浮かばれるわけではありません。意味があるとすれば、それは残された側の者にとって、慰めになり、記念の時になるということでありましょう。
 私は、主イエスの「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」という言葉には、「死んだ人はもうあなたの手の届かないところにあるのだ。それは私の領域だ。私が配慮することだ。その人のことは私が引き受けるから、あなたは心配する必要はないのだ。」そういう響きを感じるのであります。だからこそ、それを前提にして「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われたのではないでしょうか。決して突き放しておられるのではない。むしろその人の生全体が受けとめられた上での言葉なのです。

(7)「私に従ってきなさい」「いいえ」

 こういう話を聞いたことがあります。主イエスが、ある青年を召されました。「私に従ってきなさい」。ところが彼はそれを断るのです。「主よ、私はあなたに従うには、まだ若すぎます。まだ何も知りません。聖書のことも、世間のことも知りません。そんな状態では、失敗を犯すかも知れません。もっといろんなことを学び、社会のことも知り、経験を積んでから従いたいと思います。」そう言って断ったのです。
 それから何十年か経ちました。主イエスは再び呼びかけます。「私に従ってきなさい」。しかし彼は再び断ります。「主よ、今は忙しすぎます。落ち着いて物事を考える時間もありません。もう少しすれば、時間ができますから、その時あなたに従いたいと思います。」
 それからまた何十年か経ちました。主イエスは、三度彼に呼びかけます。「私に従ってきなさい」。その時、彼は何と答えたでしょうか。こう言ったのです。「主よ、私はあなたに従うには歳を取りすぎました。もう少し若かったらよかったのですが」。
 笑い話のような話ですが、非常に示唆的な、そして私たちにぐさりと突き刺さってくる話ではないでしょうか。この話の示唆していることは、私たちはイエス・キリストの召しを断ろうと思えば、いつでもそれなりの理由をもっているということではないでしょうか。そうしたさまざまな問題がすべて解決してから、主に従おうとするならば、私たちは決して従うことができない。結局それで一生を終えてしまうでありましょう。要は、そこで何を優先するか、「まず」何をすべきかということです。主の召しを受けたとき、今、主が自分を召されたと実感したとき、それが従う時なのです。それが青年であることもあるでしょう。壮年のこともあるでしょう。あるいは熟年のこともあるでしょう。その時でも遅すぎるということはありません。そこで主に従う決心をする中で、他の事柄もそれなりに道がつけられていくのではないでしょうか。

(8)忍耐深い神様

 このモーセと神様の対話を読んでいて、私は、神様は何と忍耐深い方なのかと思いました。モーセの抗弁、弁解は、ほとんど一貫性がなく、脈絡がありません。論理的でもありません。次々に思いついたことを、神様に訴えている感じがします。しかしそのようなモーセの言葉に対して、神様の方は、一つ一つ丁寧に、本気で真剣に答えておられます。そしてそのひとつひとつの答えが、今日を生きる私たちにとって、非常に意味深いものなのです。もう弁解する言葉がなくなって、モーセがそれでも「どうぞ他の人を見つけてください」と言った時でさえも、モーセに譲歩して、モーセが神の言葉に従うことができるお膳立てをしてやりました。つまり弁が立つアロンを共に遣わすと約束されるのです。神様の答えは、その都度モーセを励まし、行動を促す言葉で終わっています。
 神様はモーセを召そうとされた時と同じように、今私たちを召そうとしておられるのではないでしょうか。「召される」ということは、単に伝道者になるということだけではありません。クリスチャンとして生きるということは、キリストの弟子として生きる決心をするということであり、多かれ少なかれ、同じような困難を伴ってくるものでありましょう。私たち一人一人、そうした神の召しを、今自分に語られた言葉として逃げずに受けとめていきたいと思います。