〜出エジプト記講解説教(8)〜
出エジプト記5章1節〜6章1節
マタイ福音書24章9〜14節
2002年11月24日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之
2ヶ月ぶりに出エジプト記をテキストにいたしました。この前の4章では、モーセがしゅうとエトロのもとを離れ、妻ツィポラと共に、エジプトへ向かったこと、そして兄のアロンと合流してイスラエルの人々と出会い、神の言葉を伝えたことなどが記されておりました。この第5章は、いよいよエジプトの王ファラオと対面する場面であります。
モーセはアロンと共に、ファラオのもとに行き、主なる神ヤハウェの言葉を告げるのです。
「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と」(1節)。
それに対して、ファラオは「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主(ヤハウェ)など知らないし、イスラエルを去らせはしない」(2節)と答えました。しかしモーセとアロンはさらに交渉を続けます。
「ヘブライ人の神がわたしたちに出現されました。どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしないと、神はきっと疫病か剣かでわたしたちを滅ぼされるでしょう」(3節)。
ここでモーセとアロンは、ファラオに対して、イスラエルの奴隷たちを完全に解放するように、要求してはいません。最初からそんなことを言っても聞かれないのは、わかっていたからかも知れません。主に犠牲をささげるために、言い換えれば「主を礼拝するために、三日間の道のりのところにある荒れ野に行かせてください」という、控えめな要求をいたしました。
ファラオは「この国にいる者の数が増えているのに、お前たちは彼らに労働をやめさせようとするのか」(5節)と言うのですが、これは、「この国にいる者の数が増えており、彼らに時間があるならば、よからぬことを企むかも知れない」ということでありましょう。ファラオはモーセの要求を退け、一層厳しい命令を出しました。
この時の奴隷たちの仕事はれんが作りでありましたが、れんが作りには、わらが必要でした。れんがを作るのに粘土を乾燥させた時、ばらばらに崩れないためのつなぎとして、わらが必要であったということです。このわらは、それまではどこかから支給されていたのでしょう。しかし、ファラオは、「そのわらも自分たちで集めて来い。しかも作るれんがの数はこれまで通りだ。ひとつも減らしてはならない」と命令いたしました。
この時の支配構造は驚くほど巧みです。ファラオは、「民を追い使う者」と「下役」の両方に命じます(6節)。この「民を追い使う者」というのはエジプト人であり、いわばファラオの代理人です。そして「下役」はイスラエル人(ヘブライ人)であり、いわば奴隷たちのまとめ役です。ファラオのもとに「民を追い使う者」がおり、その下に「下役」がおり、その下に「奴隷たち」がいるのです。つまりイスラエル人たちの代表を作っておいて、自分たちの代わりに、奴隷たちを管理させ、支配させました。そして「民を追い使う者たち」は、直接的には、この下役たちを厳しく管理したのです。こういうことは、歴史上しばしばありまして、ある民族が別の民族を支配した時には、大抵こういうスタイルを取りました。支配する民族の代表を決めておいて、少し優遇するのです。あるいは捕虜収容所等でも、こういう形を取りました。
ファラオの無理な要求に奴隷たちが応えられないと、「民を追い使う者」は、下役たちを鞭で打つのです(14節)。彼らは必死になって、ノルマ達成のために同胞のイスラエル人たちを働かせたでありましょう。彼らも板挟みにされているのです。上から管理され、下からも突き上げられます。とうとう耐えられなくなって、ファラオのもとに直訴しに行きました。
「どうしてあなたは僕 たちにこのようにされるのですか。僕らにはわらが与えられません。それでもれんがを作れと言われて、僕らは打たれているのです。間違っているのはあなたの民の方です」(15〜16節)。
彼らは、勇気をふり絞って、ファラオのもとへ行きました。論理的に言えば、彼らの方が正しいのです。しかしこの訴えはファラオに一蹴されます。
「この怠け者めが。お前たちは怠け者なのだ。だから、主に犠牲をささげに行かせてくださいなどと言うのだ。すぐに行って働け。わらは与えない。しかし、割り当てられたれんがの量は必ず仕上げよ」(17〜18節)。
彼らは一縷の望みを絶たれました。しかしこのまま民のもとに帰ることもできない。何を言われるかわかりません。彼らの信用を失い、彼らをまとめられなくなると、下役を交代させられてしまうかも知れません。どうしようもない思いで、外へ出たところ、ちょうどモーセとアロンに出会いました。彼らはその不満をこの二人にぶつけるのです。
「どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです」(21節)。
もしかすると、ファラオのねらいは、最初からこのところにあったのかも知れません。お上にたてつく者に厳しくし、それによってもたらされた困難の原因を、謀反の起こそうと企てた人間(モーセ)に帰し、批判の目をそこに向けさせるのです。そのようにして謀反は、内部分裂して崩壊し、首謀者は排除されていくのです。
モーセはエジプト人ファラオから憎まれるだけではなく、同胞のイスラエル人からも憎まれるようになります。敵は民の外にあるだけではなく、民の内側にもできてしまいました。試練と誘惑は、内側と外側の両方から彼を襲ったのでした。
これと似たような歴史やドラマを、恐らく皆さんもたくさんご存じではないでしょうか。ナチス時代の、ドイツの教会もそうでありました。ドイツの教会は、帝政時代に優遇されていましたが、ワイマール共和国時代には冷遇されました。その後ヒトラーは、教会を条件付きで再び優遇しようといたします。ナチス政府の政策に協力的な教会を優遇したのです。ヒトラーの政策に屈しないドイツ告白教会というのが、ボンヘッファーたちを中心にできるのですが、あまりにも厳しい時代です。やがて批判の焦点は、ヒトラーから告白教会運動のリーダーたちに向けられていって、この運動は内部分裂して、崩壊していくのです。そしてそれこそがナチス政府のねらいであったわけです。そのようなことは、歴史上、さまざまな地域であったことです。このエジプトのファラオも同じです。彼は今や、モーセを自らやっつける必要はありません。自分たちの民をして、モーセを憎ませ、退けさせようとするのです。非常に悪魔的で狡猾です。
今日は、11月最後の日曜日であり、来週からアドベントに入ります。教会の暦では、1年はこのアドベントから始まりますので、今日は教会の暦では1年の最後の日曜日ということになります。この日は、特に世の終わりと主の再臨に心を留める日とされています。そのことを覚えて、新約聖書のテキストは、マタイによる福音書24章の、世の終わりにどういうことが起きるかということについて、イエス・キリストが語られた言葉を読んでいただきました。これは、今日の出エジプト記の記事に通じるものがあると思ったからでもあります。
このように記されています。
「そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる」(マタイ24:9)。
イエス・キリストの名のために、あなたがたは、あるゆる民から憎まれる、というのです。この時モーセがエジプト人からもイスラエル人からも憎まれたのと似ていると思います。そして「そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(同24:10〜12)と記されています。試練は外から来るだけではない。外側から試練が来る時、まだその試練がそれ程大きくない間は、しばしば内側が結束し、かえって強められる経験をしますが、その試練があまりにも大きい時、それが限度を超えた時には、内側もおかしくなってくる。内側で批判しあい、愛が冷えていくのです。「偽預言者が大勢現れる」と言います。「あんな奴の言うことを聞くな。あいつのせいで、私たちはこんな目にあうようになったのだ」という人間が出て来ます。そして試練が厳しい時には、それがもっともらしく聞こえてくるのです。一日も早くその試練から抜け出したいからです。恐らくこの時のエジプトの奴隷たちもそうであったことでしょう。
しかし神様の物語はそれで終わらないのです。それらは終わりの一つ手前なのです。マタイ福音書のイエス・キリストの言葉も、「多くの人の愛が冷える」と語った後で、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と続きます。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」(同24:13〜14)。
モーセの物語もそうです。「そこで民はモーセを憎むようになり、モーセは民のリンチにより殺されました」というのではないのです。モーセは神に祈りました。
「わが主よ、あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」(22〜23節)。
モーセには、神が不思議でなりませんでした。「神様、私を呼び戻し、『ファラオのもとへ行け』と言われたのは、あなたではありませんか。どうして沈黙しておられるのですか」と問うのです。神様は、そのモーセの切実な訴えをそのままにはしておかれませんでした。神様には神様の定められた時があったのです。ただその時は、まだ来ていませんでした。
「主は、モーセに言われた。『今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる』」(6:1)。
モーセの知らないところで、この神様のドラマはすでに始まっていたのです。じわじわと見えない形で、神様の計画は進行していました。そしてこのドラマは、一体どのような方向へと進んでいくのが、この時モーセに示されたのでした。
このことは、ちょうど私たちの信仰生活を指し示しているのではないでしょうか。私たちの信仰生活も、さまざまな試練に取り囲まれております。誘惑に取り囲まれております。外側にだけではなく、内側にも試練と誘惑が潜んでいます。それらに負けそうになります。
「主よ、終わりまで」という讃美歌(旧338番)がありますが、その中にこういう歌詞があります。
「うき世のさかえ、目をまどわし、
いざないの声、耳にみちて
こころむるもの、内外にあり、
主よ、わが盾と、ならせたまえ」
愛唱しておられる方も大勢おられることでしょう。今日はこの後、これを『讃美歌21』で歌いますが、『讃美歌21』では、こうなっております(510番)。
「この世のさかえ、目を惑わし、
誘惑の声、耳に満ちて
敵は外にも内にもある。
お守りください、主よ、私を。」
あまり文学的ではないかも知れませんが、よくわかる歌詞であります。
私たちを取り囲んでいる現実はどうでありましょうか。困難の中で行き詰まった思いをお持ちの方もあるかも知れません。世界の状況に目をやっても、気持ちが押しつぶされそうになります。地球上のあちこちで、このモーセの祈りを自らの民族の祈りとして祈らざるを得ない人々があるでしょう。しかし神様は、その祈りをただ放置して置かれるのではない。神様のドラマはすでに見えない形で始まっているのです。
私たちがアドベントを覚えて、「主が来られる」ということをお祝いするのは、まさにそのことのためです。またそれが2000年前の過去の出来事に留まらず、世の終わりに再び起こることでもあることを覚えて、この日曜日を過ごし、そして教会暦の新しい一回りを始めるのです。
困難、試練には必ず逃れの道が備えられている。パウロはそう語りました(第一コリント10:13)が、そのことを信じたいと思います。そしてイエス・キリストの愛がそれらすべてのものに打ち勝つということを信じたいと思います。
最後に讃美歌の話をもうひとついたします。先ほど従来の『讃美歌』の532番を歌いました。これは、私の愛唱歌の一つでありましたが、残念ながら『讃美歌21』には収録されませんでした。この歌の2節に、こういう歌詞があります。
「主の受けぬこころみも、
主の知らぬ悲しみも、
うつし世にあらじかし、
いずこにもみあと見ゆ」。
「この世のどんな試練も、どんな悲しみも、イエス・キリストの経験なさらなかったようなものは存在しない。どこへ行ってもイエス様の通った跡がある」ということです。私たちは、どうして、自分がこういう試練に遭わなければならないのか。どうして自分だけが、このような悲しみを経験しなければならないのか、という思いにとらわれることがあります。しかし実は、イエス・キリストは、すでにそこを通られた。どこを見ても、どこへ行っても、イエス・キリストの通られた御跡がある。そのことを歌っている歌であります。だからこそ、私は今日の招詞で読んでいただいたパウロの言葉を深く心に刻みたいと思うのです。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難 か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。飢饉か。剣か。……わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:35〜39)。
すべてのところを通り、私たちの苦しみも悲しみもすべてご存じのお方であるイエス・キリストが私たちと共にあるならば、外側から襲ってくる試練に対しても、内側から襲ってくる誘惑に対しても、この主とつながって乗り越えていくことができるのではないでしょうか。終わりの日を見上げながら、そのような思いで、毎日を過ごしていきたいと思います。