〜出エジプト記講解説教(10)〜
出エジプト記8章12〜28節
ローマ書12章1〜2節
2003年2月2日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之
出エジプト記を読んでおります。前回(1月12日)は、7章の初め、主なる神がモーセに対して、「アロンと一緒にエジプトの王ファラオのもとに行くように」と語られた部分を読みました。その後の、7章8節から11章10節までは一続きになっております。主なる神様がエジプトからイスラエルの民を導き出すために、次々とエジプトに災いをくだされるという話です。それが、これでもかこれでもかと延々と続いて、全部で9つもあります。丁寧に全部読んでいきますと、正直に言ってちょっとうんざりする程です。ですから聖書朗読では、その一部だけを読んでいただき、説教の中で手短にそのストーリーの流れを紹介することにいたしました。今日は7章8節から8章の終わりまでのお話をします。
まず最初の部分(7章8〜13節)は「アロンの杖」という題が付けられていますが、主なる神の言われた通り、アロンがファラオの前で、杖を投げるとそれが蛇に変わったというお話です。『十戒』の映画でも出てきました。しかしファラオはまだこの程度では驚きません。エジプトの賢者、呪術師を召しだして、その中の魔術師に同じことをやらせるのです。しかしアロンの杖の蛇は、エジプトの魔術師の杖の蛇を飲み込んでしまいました。これはその後、起こってくる出来事のプロローグのようです。つまり同じようなことをやってみせても、モーセとアロンの方が上であることを暗示しております。
その次は、「血の災い」と題されていますが、これが最初の災いです。モーセとアロンは、翌朝、主なる神の言葉を受けて、再びファラオの前に立ちます。舞台は、ナイル川の岸辺です。「ヘブライ人の神、主がわたしをあなたのもとに遣わして『わたしの民を去らせ、荒れ野でわたしに仕えさせよ』と命じられたのに、あなたは今に至るまで聞き入れない。主はこう言われた。『このことによって、あなたは、わたしが主であることを知る』と」(7:16〜17)。そしてアロンが杖でナイル川の水を打つと、水は血に変わるのです。川の魚は死に、川は悪臭を放ちました。ナイル川の水だけではなく、エジプト中の水という水の上にアロンが杖を置くと、すべてが血に変わっていきました。このようにしてエジプト中が血に染まったということです。
ところがエジプトの魔術師も同じようなことをやって見せたというのです。それでファラオは心を頑なにいたします。そんなことはヘブライ人の神でなくてもできる、ということでありましょう。
その次が蛙です。エジプト中に蛙を氾濫させるという災いです。エジプト中が蛙だらけになるのです。王宮を襲い、寝室にも侵入し、ファラオの寝台の上にまで、蛙がのぼってきた。これなどは少しユーモラスな感じがいたします。しかし気持ち悪いし、さぞかし不快な出来事であったでしょう。これもまたエジプトの魔術師が同じことをやってみせます。
しかしここでちょっとした変化が起きました。これまではずっとモーセとアロンがファラオの方へ押しかけていたのですが、ここで初めてファラオがモーセとアロンを呼び出すのです。そしてこのように頼みました。「主に祈願して、蛙がわたしとわたしの民のもとから退くようにしてもらいたい。そうすれば、民を去らせ、主に犠牲をささげさせよう」(8:4)。形勢逆転の始まり、とも言えるでありましょう。
もとを正せば、モーセの側にはずっとひとつの要求がありました。それは、「荒れ野へ三日の道のりを行かせて、そこで主なる神に犠牲を捧げさせて欲しい」というものでありました(5:3)。ここで思いがけず、ファラオが「それを許す」と言ったのです。モーセは驚いて、「それはいつですか。わたしの方はいつでも蛙を去らせることができます」と言うと、ファラオは「明日」と答えました。しかしモーセが蛙を全部去らせると、ファラオは再び頑なになってしまいます。
その次はぶよの登場です。アロンが「土の塵」を、例の杖で打つと、土の塵はすべてぶよに変わってしまいました。そしてエジプト全土の人と家畜を襲いました。今度は、もう魔術では追いつけない。これまでの対決では、必ず魔術師も同じようなことをやって見せましたが、今度ばかりはそうは行きません。そして、魔術師はこう言うのです。「これは神の指の働きです」(8:15)。これまでエジプトの魔術師はモーセとアロンについてくることができた。つまり神様抜きでもやってみせることができたのです。その限りにおいて、ファラオもモーセとアロンに対して、威勢を張っていることができました。しかしここに来て、魔術師自身が降参宣言をするのです。彼らはファラオよりもいち早く、自分たちが闘っているのが一体誰であるかを悟ったのでありましょう。「これは神の指の働きです」。
今日では、魔術というよりも科学がこれに近いことをやっているのではないかと思います。これまでは、まさに神様の領域と考えていたところへ、次々と人間の科学が挑戦して、それは人間の技術でもできるということを実証して見せている。その領域は宇宙科学に及び、生命科学に及んでおります。(昨日はアメリカの打ち上げたスペースシャトルが空中分解して爆発し、世界中が大きなショックを受けていますが、これも人間の科学技術のもろさというものを見せつけられたような事件でありました。)しかしながら不思議なことに、そこからいつも同時に、両極端の二つの声が聞こえてくるのです。ひとつは、「やはり神などいないのだ。人間はそのうちに何でもできるようになるであろう」という声であり、もう一つは「やはり神のなさる業は神秘的で、偉大だ」という声です。
意外なことに、本当に優れた科学者の中に敬虔な信仰をもった人が多いものです。それは深く科学について学べば学ぶほど、「これは神の指の働きです」と認めざるを得ない領域に気づくからではないかと思います。人間の到達できる領域はどんどん広がり、深まっていくでありましょうが、決して神様に追いつくことはないでしょう。遺伝子をすべて解明したとしても、神様はさらに深い神秘を用意しておられたということに、科学者は気づくでありましょう。
この時の魔術師もちょうどそのような心境であったかも知れません。エジプトでいち早く、神の働きを認めたのは魔術師でありました。しかしながらこの時、ファラオはそのような魔術師の言葉を聞きながら、謙虚に「そうか。わかった」と神の働きを認めたのではなく、一層頑なになっていきました。
次に来るのがあぶの災いです。神様はモーセに、あぶの大群を送ると告げます。「ただしヘブライ人の住むゴシェンの地だけは襲わない、あぶの大群から守る」と約束されました。あぶの大群がファラオの王宮や家臣の家を襲い、被害がエジプト中に及んだ時、ファラオは再びモーセとアロンを呼び寄せました。そしてファラオが妥協案を述べるのです。「行って、あなたたちの神にこの国の中で犠牲をささげるがよい」(8:21)。
もともとモーセ側が要求していたのは、エジプトから出て、荒れ野で、しかも三日の道のりの場所で神様に犠牲をささげることでした。ファラオは「それを認めることはできないが、エジプト国内で礼拝をするのは認めよう」と、提案したのです。国から出ると、逃亡の危険性もあるし、往復1週間の休暇は到底認められるものではないということでしょう。
それに対してモーセは、このファラオの妥協案に同意せず、それを退けました。その理由をこのように述べています。「そうすることはできません。我々の神、主にささげる犠牲は、エジプト人のいとうものです。もし、彼らの前でエジプト人のいとうものをささげれば、我々を石で打ち殺すのではありませんか。我々の神、主に犠牲をささげるには、神が命じられたように、三日の道のりを荒れ野に入らねばなりません」(8:22〜23)。
この「エジプト人のいとうもの」とは何であったのか。学者の研究によりますと、エジプトでは神にささげるものは、植物か、せいぜい鳥や動物の肉片であったのに対して、ヘブライ人のささげものは、羊や山羊まるまる一頭であったりしたということです。もっともこれは、モーセのファラオに対する論戦のストラテジー(戦術)であったでしょう。しかし同時に、礼拝する時と場所、そして形にこだわり、主を礼拝するとは一体どういうことであるかを、毅然とファラオに示そうとしたということもできるでしょう。
ファラオはしぶしぶ、モーセの要求をのみます。「よし、わたしはあなたたちを去らせる。荒れ野であなたたちの神、主に犠牲をささげるがよい。ただし、あまり遠くへ行ってはならない。わたしのためにも祈願してくれ」(8:24)。このファラオの言葉は、この時の複雑な気持ちをよく表しています。「荒れ野に行くことは仕方がない。承知した。けれども遠くへは行くな。三日の道のりとはとんでもない」。そのことによって、ファラオはまだ、自分が主権をもっていることを誇示しようとします。しかしこの事態を何とかしなければならないので、モーセの神に、「私のためにも祈ってくれ」と懇願するのです。モーセは早速、ファラオのもとを去り、出かける準備をするのですが、あぶの大群が去ると、ファラオは再び、心を頑なにし、彼らを去らせないようにしてしまうのです。
さてストーリーを追うのは、ここまでにいたしまして、このところのモーセの態度から大切なことを学びたいと思います。それはモーセが、肝心なところではファラオと妥協しなかったということです。
ローマの信徒への手紙12章2節に、こう記されています。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれる、また何が完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。この「この世に倣ってはなりません」というのは、以前の口語訳聖書では、「この世と妥協してはならない」と訳されておりました。
私たちは、確かにこの世の中にある教会として、あるいはこの世に生きるクリスチャンとして、当然のことながらこの世の事柄と、そしてクリスチャン以外の人たちと協調してやっていかなければならないことも多々あります。逆にこの世から学ばなければならないことも少なくありません。「教会の常識は世間の非常識」などという皮肉な言い方もある位です。教会では、世間で通用しないようなことを平気でやっている、という意味ですが、それでは証しになりませんし、かえって大きなつまずきになるでしょう。
しかし同時に安易にこの世と妥協して、クリスチャンとして最も大切な点を曲げてはならないということもあるのではないでしょうか。一体、私たちはどこで協調し、どこで妥協してはならないのか。これはなかなか難しい、デリケートな問題であります。具体的にそれが一体何であるかを特定することはできませんし、しない方がよいと思います。
私個人に関することを言いますと、例えば仏教のお葬式に言って、お焼香をするというようなことはあまり気になりません。そういうことを気にするクリスチャンもいますが、私はそういうことは偶像崇拝ではないと思います。むしろ亡くなった方の信仰に敬意を表して、お焼香するのは自然なことであり、決して自分の信仰を曲げるようなことではないと思っております。もちろんお焼香したくないというクリスチャンがあれば、それはそれで尊重しなければならないでしょう。「どうしてお焼香しないんだ」と言って、お焼香することを強要することも間違っている。その自由が保障されなければならいと思います。
あるいは日曜勤務のあるお仕事でうしろめたい思いをもたれる方もあるかも知れませんが、それはそれで「この世と妥協する」ことにはあたらないでしょう。それは必要なことでありまして、例えば日曜日に電車が動いていなければ、私たちは教会へ行くこともできないわけです。
弓削達(ゆげとおる)という先生(元フェリス女学院大学学長、東京大学名誉教授)が、『ローマ皇帝礼拝とキリスト教徒迫害』(日本基督教団出版局)という書物の中で、ローマ帝国時代のキリスト者たちがなぜ迫害されたのか、というようなことについて述べておられます。紀元前2世紀のローマ帝国において、キリスト者は子どもの肉を食べ、近親相姦を行うという社会通念を前提に、迫害され、処刑されました。しかしそのようなことが事実無根であることが明らかになった後も「キリスト者」という名前そのものが処罰の対象となっていきます。
実は人々がキリスト者を忌み嫌った背景には次のような理由がありました。それは第一に、彼らが皇帝礼拝をせず、都市の共同体祭儀にも加わらなかったということであります。洪水や日照りが起こると、ローマの人々はキリスト者が神々を怒らせたのだと考えました。
第二は、キリスト者が売春や毒薬調剤などという都市のあだ花的繁栄に手を貸さなかったということです。それらはいわば必要悪のように考えられていましたが、キリスト者たちは、それを信仰と相容れないものとして、毅然と「ノー」と言ったのでした。キリスト者の存在そのものが、一般民衆の生活原理に対する根底的批判でありました。そうしたところで、彼らはこの世と妥協せず、自分の信仰を貫いたのです。もともと「殉教者」という言葉は、「証言する人」という言葉から生まれたものでありました。
弓削先生は、そういう風に書きながら、「今日の私たちはどうであろうか。今日、『私はキリスト者です』という証言は何のインパクトも与えない。それは、キリスト者が迫害されない、よい時代になった、ということよりも、キリスト者自身が、ローマ時代のような社会に対する根底的な批判をそぎ落としてしまったからではないか」と、問われるのです。この世が神様の御心に背いたような歩みをしている時でさえ、私たちは社会に対して何も言わないがゆえに、この世から受けいれられているのかも知れません。こうしたことが具体的には、一体何であるのかは、特定することは難しいですし、しない方がいいでしょう。むしろ、私たち一人一人が、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれる、また何が完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と、問われているのだと思います。あの時、モーセがファラオに妥協しなかったように、私たちもこのことを謙虚に問い返しながら、御心に適ったキリスト者としての歩みをしていきたいと思います。