主の言葉を畏れる

〜出エジプト記講解説教(11)〜
出エジプト記9章13〜35節
ヘブライ書4章12〜13節
2003年2月9日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)疫病の災い・はれ物の災い

 本日は出エジプト記の第9章から御言葉を聞いていきたいと思います。先週は7〜8章のエジプトにくだった4つの災いの話でありましたが、9章はそれに続く3つの災いについて記しています。
 最初は1〜7節で、「疫病の災い」と題されております。これは家畜を襲う疫病でした。主はモーセに言われます。「ファラオのもとに行って彼に告げなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ』と。もしあなたが去らせるのを拒み、なおも彼らをとどめておくならば、見よ、主の手がはなはだ恐ろしい疫病を野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊に臨ませる。しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別される。イスラエルの人々の家畜は一頭たりとも死ぬことはない」(1〜4節)
 果たして主が言われた通りになります。エジプト人の家畜はすべて死にましたが、イスラエルの人々の家畜は一頭も死にませんでした。ファラオが人を遣わして確認させたが、やはりその通りでありました。しかしファラオの心は一層頑迷になり、民を去らせません。
 その次がはれ物の災いです(8〜12節)。モーセとアロンは主の語られた通り、かまどのすすを取ってファラオの前に立ち、モーセはそれを天に向かってまき散らしました。するとそれが空中を舞って、それに触れた者には、人であれ家畜であれ、そこにはれ物が生じたということです。そこにいた魔術師もそれに触れて、はれ物が生じ、そのためにモーセの前に立つことができませんでした。そして魔術師だけではなく、エジプト人すべてに広がっていきました。しかしファラオはそれでもかたくなになり、モーセとアロンの言うことを聞こうとはしませんでした。
 さてこれまでの6つの災いを二つずつセットにして整理してみます。最初の災い(血の災いと蛙の災い)は、ただ人に不快感を与え、困らせるものでした。その後のぶよの災い、あぶの災いは直接に人と家畜を襲うものとなります。しかしそれはあくまで外側から人と家畜を襲うものでした。その次の二つ、疫病の災いとはれ物の災いは、家畜や人間の体に取りついて、いわば内側からそれを襲う災いであると言えます。家畜はばたばたと死にました。

(2)ひょうの災い

 そして7つ目の災いは、雹の災いと題されていますが(13〜35節)、ここに来て、災いはいよいよ人の命を奪うものに至ります。疫病の災いとはれ物の災いは短い記述でしたが、その二つと対照的に、この雹の災いの話は、一連の災いの中で最も長い記述となっております。主はモーセとアロンに、ファラオに対して、こう語らせます。「見よ、エジプト始まって以来、今日までかつてなかったほどの甚だ激しい雹を、降らせる。それゆえ、今、人を遣わして、あなたの家畜で野にいるものは皆、避難させるがよい。野に出ていて、連れ戻されない家畜は、人と共にすべて、雹に打たれて死ぬであろう」(18〜19節)
 そしてモーセが天に向かって杖を差し伸べると、主は雷と雹を下されて、稲妻が大地に向かって走りました。エジプト中に雹が降りました。雹が降って、その間を絶え間なく稲妻が走りました。それはエジプトの国が始まって以来、かつてなかったほど激しいものでありました。それはエジプト全土で野にいるすべてのもの、人間も家畜もありとあらゆるものを打ちます。もちろん人や家畜だけではなく、植物もです。「野のあらゆる草を打ち、野のすべての木を打ち砕いた」ということです。しかし不思議なことに、イスラエルの人々の住むゴシェンの地域だけには雹が降りませんでした。疫病の災いの時と同様、神はイスラエルの人々を区別して守られたのでした。

(3)主の自由な選び

 さて物語を追うのはここまでにいたしまして、このところから幾つか大事なメッセージを聞き取っていきたいと思います。
 第一は、主の自由な選びということです。神様は一様に災いをくだされたわけではありませんでした。疫病の災いのところでは、神様はエジプト人の家畜とイスラエル人の家畜を区別して、イスラエル人の家畜には災いを加えられませんでした。それから雹の災いのところでも、イスラエルの人々の住むゴシェンの地には雹を降らせませんでした。神様はある者を選び分かち守られたのです。どのような者を選ばれたかと言いますと、単に「イスラエルの人々」と言うこともできるのですが、別の言い方をすれば、エジプト人の奴隷となって苦しんでいるイスラエルの人々を選ばれた。つまり神様は「虐げられている人々」「苦しみの中にある人々」を分かち、守られた、ということを見落としてはならないでしょう。そういうメッセージが込められていると、私は思います。
 しかし神様の選びというのは、機械的に無条件のものではないということも、この話から読みとりたいと思うのです。先ほどまで申し上げたことだけですと、何だか神様は機械的にエジプト人とイスラエル人を分けられたように見えますが、もう少し注意深く読んでみますと、そうではない別の要素がここに入り込んできていることがわかります。エジプト人に対して前もって警告を発せられているのです。「今、人を遣わして、あなたの家畜で野にいるものは皆、避難させるがよい。野に出ていて、連れ戻されない家畜は、人と共にすべて、雹に打たれて死ぬであろう」(19節)。すると、その警告を聞いた者の中から、主の言葉を畏れる者が現れてくるのです。「ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕と家畜を家に避難させたが、主の言葉を心に留めなかった者は、僕と家畜を野に残しておいた」(20節)。そして主の言葉を無視した者の家畜のみが雹に打たれました。つまりここではあの疫病の時のように「エジプト人は全部だめだ」、というような十把一絡げの乱暴な仕方ではありません。エジプト人の間にも、あの疫病の事件を通して、「これはイスラエル人の神様がかかわっているに違いない」と、考え始めた者もきっとあったでしょう。あの魔術師自身が、「これは神の指の働きです」(8:15)と告白した程です。
 確かに今やエジプト人の家臣の中にも、主の言葉を畏れる者が出始めたのです。そして主の言葉を畏れて、それを信じ、それに従う者は災いから免れさせてくださいました。これは、主の言葉を畏れる者には、民族を超えて、イスラエル人以外にも、主の救いが入り込んできたことを示すものではないでしょうか。旧約聖書は、イスラエルの民が選ばれた民という考えが中心にありますが、ここではそれを超えたメッセージ、何か新約聖書につながっていくメッセージが現れていると思いました。

(4)主を畏れることは知恵の初め

 箴言9章10節に、「主を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め」と記されています。「主を畏れることは知恵の初め」。この言葉は、その他にも箴言1章7節にも、詩編111編10節にも出てまいります。旧約聖書の時代の人々は、このことをくり返し教えたのです。主を畏れることと、主の言葉を畏れることは、内容的には一つのことです。主を畏れること、主の言葉を畏れることが知恵の初め。初めというのは、最初ということと同時に、最も大切なことという意味です。
 私たちは人生を生きていく中で、さまざまな知恵と知識を学びます。しかしそのことがいかなる意味をもつかということ、そのような知識や知恵がどういう風に役立つかということは、主を畏れるかどうかにかかっているのではないでしょうか。主を畏れることなく、私たち人間がさまざまな知識を身につけていく時、それを知らない人間よりもかえって恐ろしい人間になっていくことがあります。あるいは主を畏れることなく、力を手にする人間は、それをもたない者よりも、より恐ろしい人間になっていきます。人間のすべての知識、知恵は、主を畏れ、その主をあがめる時に、初めて最も人間らしい、そして謙虚なものとして役立つのではないでしょうか。そして神様はそのような主を畏れる人間を心に留め、救いのうちに置いてくださるのです。

(5)神はすぐに結論を出さない

 次に14〜16節を見てみましょう。「今度こそ、わたしはあなた自身とあなたの家臣とあなたの民に、あらゆる災害をくだす。わたしのような神は、地上のどこにもいないことを、あなたに分からせるためである。実際、今までにもわたしは手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打ち、地上から絶やすこともできたのだ。しかしわたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた」
 この言葉は、二つの大切な事柄を指し示しております。一つは、神様の徹底的な主権ということです。これはすでに少し触れましたが、神様が救いと裁きの決定権をもっておられるということです。
 もう一つは、神様はある意図をもって裁きの時を引き延ばされるということです。私たちが読んでいる物語は、両者の力が伯仲していて、なかなか決着をつけることができないように見えます。ファラオの方も魔術師に同じようなことをやらせて、「なかなかやるなあ」という風に見えるかも知れません。しかし実はそうではなかったというのです。「実際、今までにもわたしは手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打ち、地上から絶やすこともできたのだ」。神様は、それをやろうと思えばできたけれども、あえてそれをしなかったというのです。イスラエルの民にしてみれば、こんなに時を延ばされれば、だんだんと不安になり、疑いも生じたことでしょう。モーセもイスラエルの民と神様との間に立たされて、「どうして神様は早く自分たちを解放してくださらないのであろうか」と、思ったことでありましょう。しかし神様はすぐにそれをなさらなかった。どうしてでしょうか。
 そこには二つの理由がありました。一つは、「わたしのような神は、地上のどこにもいないことを、あなたに分からせるため」、もう一つは「あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため」だというのです。このことのために、神様は時を引き延ばされたのです。

(6)神の歴史のメインテーマ

 このことは、このファラオと神様の関係を超えて、神様の計画、いや歴史全体の中で、とても大きな意味をもっております。神様は、どのように歴史を考え、どのように私たち人間をお造りになったのかということが、ここで示されているからです。神様が歴史を定められた大きな目的は、この世界に確かに神様がおられるということを人間が悟るということ、そして神様の名が全地に語り告げられ、神様に栄光が帰せられるということなのです。
 しかしながら、神様はそれを強制的に、力づくで、人間にそうさせるのではない。有無を言わせず、ファラオを滅ぼしてしまって、それを悟らせるわけではない。人間が自分の方からそれを悟るように、そして喜んでそうするようになることを求めて、時を引き延ばしながら待っておられるのです。ですからよく言われる表現ですが、神様は人間をロボットのように自分に従う者としてお造りになったのではありませんでした。そうしようと思えばできたでしょうが、それは御心ではありませんでした。
 逆に神様は、自分に背く者を一瞬にして根絶やしにしようと思えば、それもできたでしょう。しかしそれもしなかった。ここでファラオに語られた通りです。一瞬にして根絶やしにする道でもなく、強制的に従わせる道でもない。ちょうどその間の道を取られるのです。人間が自分の方から、神様が生きて働いておられることを悟り、主の名を畏れるようになり、神様をあがめるようになること、そのために神様は時を与えられるのです。
 この時それでもファラオは一層かたくなになっていきますが、先ほど述べましたように、実際にファラオの家臣の中から、「主の名を畏れる」者がぽつりぽつり現れ始めます。そして主は、彼らには災いをくださないように配慮なさったのです。人間があくまで自由な決断を持って、主を畏れ、主に立ち帰るように待っておられるのです。
 神様の歴史というのは、むしろそれがメインテーマであって、そのテーマがその後の旧約の時代、そしてイエス・キリストの時代をずっと貫いて、今日に至っているのではないでしょうか。

(7)神はなぜ「中間時」を置かれたか

 さらにこういうことが言えるかと思います。聖書は、歴史には、初めと終わりがあると言います。この世界が、未来永劫にいたるまで続くのではないのです。終わりの日がある。そしてその日には、再びイエス・キリストが帰ってきて、その歴史を完成してくださる。神の国が完成する、と聖書は語ります。新約聖書の書かれた時代、つまりイエス・キリストが来られた直後の時代の人々は、終わりの日がすぐにでも来る。すぐにイエス・キリストが帰ってきて、この世界を完成してくださると考えていました。ですから、新約聖書というのは、(最初の方に書かれたものと最後の方に書かれたものには100年以上の幅があるのですが、)古い時代に書かれたものほど、そうした終末を感じさせる色彩が濃いのです。ところが、紀元100年を過ぎて、150年位のものになってくると、「いや、もしかすると、それはすぐには来ないかも知れないぞ」、ということで、だんだんと教会を制度的に整えていく話が出てきます。最初のうちは、そんなことはほとんど興味がないのです。すぐに世の終わりが来ると考えられていたからです。
 それから何と2000年が経ってしまいました。私たちは、イエス・キリストが来られた時と、世の終わりの時という二つの時の「中間時」を生きています。それにしても、神様はどうして、このような中間時を定められたのでしょうか。どうしてもっと早く終わりの日が来なかったのでしょうか。イエス・キリストがこの世界に遣わされた時、そのお方が十字架におかかりになった時、神様は悪い者を一掃し、一気に神の国を完成されてもよかったのではないでしょうか。いや神様にとっても恐らくその方が手っ取り早く、楽であったかも知れません。しかし神様はそのような道を取られませんでした。強制的に自分に従わせる道、あるいは力ずくで悪い者を滅ぼされる道を取られなかった。さらにその後の時代を置かれて、教会を立てられた。
そこには一体どういう意味があるのでしょうか。それは私たちが、ロボットのようにではなく、喜んで自ら悔い改めて、神様に従うようになるのを待つ。神の国もご自分で一気に完成してしまうのではなく、人間を巻き込んで、人間をご自分のパートナーとして、これを用いながら神の国を実現する。そういう神様の側から言えば、実に忍耐深い道を取られたのだと思います。私たちが悔い改めて、主に立ち帰るのを待ち、パートナーとして共に働くのを喜ばれる神様。それが聖書にあらわされている神様なのです。