男も女も老いも若きも

〜出エジプト記講解説教(12)〜
出エジプト記10章3〜11節
使徒言行録16章25〜34節
2003年2月23日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)いなごの災い

 主がエジプトにくだされた災いの話を続けて読んでおります。今日は、第10章に記された8番目の災い、「いなごの災い」の部分から御言葉を聞いてまいりましょう。「いなごの災い」というと、私たちには何かあまり大したことがないように思えます。二番目が「かえるの災い」でしたが、それと同じレベルで、ただ気持ち悪く、困ったものだという程度に思えるのではないでしょうか。しかも、いなごは食べられるものでもありました。レビ記11章には、何を食べてよいか、何を食べてはいけないかということが記されているのですが、その中にこういうおもしろい食物規定があります。

「羽があり、4本の足で動き、群を成す昆虫はすべて汚らわしいものである。ただし羽があり、4本の足で動き、群を成すもののうちで、地面を跳躍するのに適した後ろ足を持つものは食べてよい。すなわち、いなごの類、羽ながいなごの類、大いなごの類、小いなごの類は食べてよい」
(レビ記11:20〜22)

一口にいなごと言っても、いろんな種類があったのですね。聖書によっては、このいなごをバッタと訳しているものもあります。
 しかし、そのようないなごも大群になると、とても恐ろしいものになりました。預言書のひとつであるヨエル書1章4節には、こういう言葉があります。

「かみ食らういなごの残したものを移住するいなごが食らい、
移住するいなごの残したものを若いいなごが食らい、
若いいなごが残したものを食い荒らすいなごが食らった」。

 そのようないなごの大群が去った後には、本当に何も残らなかったでありましょう。このエジプトの上に下った災いも、そのように、いやそれよりもはるかに恐ろしいものでありました。

「いなごは、エジプト全土を襲い、エジプトの領土全体にとどまった。このようにおびただしいいなごの大群は前にも後にもなかった。いなごが地の面をすべて覆ったので、地は暗くなった。いなごは地のあらゆる草、雹の害を免れた木の実をすべて食い尽くしたので、木であれ、野の草であれ、エジプト全土のどこにも緑のものは何一つ残らなかった」(14〜15節)

 緑に潤った土地が、あっという間に、死の荒野に変わってしまいました。
 いなごの災いがくだった後で、ファラオはモーセとアロンを呼び出して、「どうか、もう一度だけ過ちを赦して、あなたたちの神、主に祈願してもらいたい。こんな死に方だけはしないで済むように」(17節)と頼むのですが、このファラオの言葉から、このいなごの災いが一国の王ファラオを死に至らせるほどの力をもっていたということがわかります。もっともそのファラオの願いをモーセが聞き届け、いなごを去らせると、ファラオの心は再び頑なになっていきます(20節)。いわばこれまでと同じ、お決まりのパターンです。
神様は小さなものを用いて大きなことをなされる方であることを思います。これは災いの話ですが、神様はよいことにおいても、そのように小さなものを用いて大きな業をなされる方であります。

(2)主の祭りは我々全員のものです

 さて、このいなごの災いがエジプトにくだされる前に、モーセはやはりいつものようにファラオに警告を与えておりました。そしてそれを聞いていた家臣がファラオに進言をいたしました。「いつまで、この男はわたしたちを陥れる罠となるのでしょうか。即刻、あの者たちを去らせ、彼らの神に仕えさせてはいかがでしょうか。エジプトが滅びかかっているのが、まだお分かりになりませんか」(7節)
 ファラオは、その進言を聞いて、一旦は心を開きかけるのですが、そう簡単にはいきません。彼はモーセとアロンに「行って、あなたたちの神、主に仕えるがよい」(8節)と言いました。ただしそれに続けて「誰と誰が行くのか」と聞いております。もともと全員を行かせる気はないのです。モーセはこう答えます。「若い者も年寄りも一緒に参ります。息子も娘も羊も牛も参ります。主の祭りは我々全員のものです。主の祭りは我々全員のものです」(9節)
 ファラオは、これにより開きかけていた心を再び閉じてしまいます。「よろしい。わたしがお前たちを家族とともども去らせるときは、主がお前たちと共におられるように。お前たちの前には災いが待っているのを知るがよい」(10節)。これは単純な祝福ではなく、皮肉かおどしのようです。「もしもお前たちが家族も家畜も全部連れ出すというのならば、せいぜいお前たちの神に祈るがよい。私がお前たちに災いをくだしてやる」。そういう感じでしょうか。
ですからそのように言った後、ファラオは、「いや、行くならば、男たちだけで行って、主に仕えるがよい」(11節)と前言を撤回いたしました。ファラオは、「全員で行かせたら、もう帰ってこないかも知れない」と思ったのですね。男だけであれば家族のもとへ帰ってくる、という思いがあったのでしょう。何だか北朝鮮の当局が、拉致被害者を日本へ行かせるのに、「子どもは行かせない。本人だけなら行かせてもよい」と言ったのとちょっと似ていますね。
 それにしてもモーセの「主の祭りは我々全員のものです」という言葉は毅然としていますし、まことに深い意味を持った言葉であると思います。ある種の信仰告白であると言えるかも知れません。

(3)牧師をしていてよかったこと

 1月29日に恵泉女学園の中学1年椿組の生徒たちが、経堂緑岡教会を訪れて、共に礼拝をいたしました。その後ホールで懇談をいたしましたが、そこで40人の生徒たち全員が、一言ずつ牧師を質問攻めにしました。キリスト教の教派や原理主義に関するきわめてまじめな質問から、個人的なこと、例えば「プロポーズの言葉は何だったのですか」という質問までありましたけれども、その中に「牧師をやっていて、よかったと思うことは何ですか」というのがありました。私はとっさに「通勤電車に乗らなくていいことかなあ」と、次元の低い答えをいたしましたが、そのすぐ後で「そうだ」と思って、「すべての世代にかかわれることです」と答えました。
 牧師も一応「先生」と呼ばれる職業の一つですが、学校の先生と違って、ありとらゆる世代にかかわります。学校の先生であれば、幼稚園の先生、小学校の先生、中学校高校の先生、大学の先生、という風にわけられます。もちろん牧師にも、学校のチャプレンというケースもあります。しかし現場の牧師は「自分は学生伝道専門です」というわけにはいきません。あるいは「お年寄り専門です」ということもできない。文字通り、「ゆりかごから墓場まで」です。健康な人もいれば、病気の人もいます。生きた人だけではなく、死んだ後までおつきあいは続きます。お葬式をし、あるいはご遺族との交わりがあるのです。
 もちろんそれが牧師という仕事の大変な点でもありますが、同時に魅力でもあります。子どもには子ども向きの話をし、大人には大人向きの話をする。若い人には若い人向きの何かを考えなければなりませんし、お年寄りにはお年寄り向きに訪問をしたりいたします。飽きないですね。飽きている暇がない。それは本当に喜ばしい仕事であると思っています。

(4)ゆりかごから墓場まで

 しかし考えてみますと、それは牧師だけではなく、教会に来ておられる皆さんは、この場所にそれだけのチャンネルを持っている、それだけの交わりの幅を持っておられるのだということでもあります。教会は、そのように「ゆりかごから墓場まで」の包括的な共同体であるのです。
 これは今日、非常に珍しく、そして貴重な交わりではないかという気がいたします。かつては、家族も大家族で、赤ちゃんからおじいさんおばあさんまでが、一つ屋根の下に住んでいましたが、今は核家族のライフスタイルが多くなりました。あるいはかつては村や町の地域共同体が、それぞれの家と深くかかわっていましたが、今はそれも非常に希薄になっております。隣に誰が住んでいるのかもわからない。
 そうした中で教会は、それぞれの家族を支え、育む大家族である、まさに神の家族であるということを、強く思います。教会には、幼児祝福があり、成人の祝福があり、敬老の祝いがあります。
 この世の共同体では、大体、男の方がちょっといばっていて、男の方がイニシアティブを握っていますが、おもしろいことに教会では違います。女の方がいばっているとまでは言いませんが、表面的にはともかく、実質的にはイニシアティブをとっている。少なくとも数の上ではどこの教会でも、女の方が二倍です。女の人抜きでは何もできないというのが教会です。
 この後、歌います讃美歌420番は、「女と男と知性と愛と、心と体と魂のために、われらはたたえる創造の主を。われらを新たにならせてください」と歌います。女から始まるあたりが、今日的と言いますか、むしろよく実状に即していると思いますし、「心と体と魂のために」、ということで、教会らしい包括的な歌であると思います。教会という共同体にも、私たち一人一人の人間と同様に、心と体と魂があると言えるかも知れません。そしてそれを造られたのも、それを新たにしてくださるのも、神様に他ならないのです。
 少し話は広がりますが、私は教会がそのような包括的な共同体であるとすれば、子どもたちが私たちの礼拝に連なっていることは、喜ばしいことであると思います。少々うるさくして、私たち大人の集中を乱すようなことがあるとしても、それは祝福でありますので、受け入れてくださるとよいと思います。そしてそのことで、例えばお母さんが礼拝に出にくいということのないようにしなければならないでありましょう。必要であれば、また保育当番などを復活させて、教会全体で子どもたちの世話をするようにしていかなければならないと思います。私が前にいた教会では、特に60〜70代位の男性が喜んで、この時とばかりに楽しそうに保育当番をやっておられましたので、「これはまさに教会ならではの光景だな」とうれしく、微笑ましく思いました。

(5)柔軟な看守と頑ななファラオ

 今日は、出エジプト記の物語と共に、使徒言行録の16章の言葉を読んでいただきました。これはイエス・キリストの使徒であったパウロとシラスがフィリピという町で、投獄されていた時の話です。真夜中頃に、牢屋の中で讃美歌を歌い、お祈りをしていました。そうすると突然、大地震が起きて、牢屋の扉が開いてしまって、囚人をつなぐ鎖もはずれてしまいました。牢屋の看守はびっくりして、恐ろしくなって自殺しようといたしました。後で責任を追及されて、どうせ死刑になるだろうと思ったのでしょう。その瞬間に囚人であったパウロが大声で叫びました。「待て。早まるな。」「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる」(28節)。看守はもっと驚きました。「逃げることができたのに、どうして逃げないのか。」その瞬間にこそ、彼は大地震が起きた時よりも、もっとはっきりと大きな神の力を感じたのです。そして自分の方から進んでパウロとシラスを外へ連れ出して、その前にひれ伏しました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」(30節)。パウロは言いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(31節)。これは有名な言葉です。慰めに満ちた言葉であると思います。
 この話は今日の出エジプト記の話と合わせてみると、二つの意味で示唆的であると思いました。
 ひとつは、この牢屋の看守のパウロに対する応対が、ファラオのモーセに対する応対と非常に対比的であるということです。もちろんこの看守は、ファラオとはけた違いに下っ端でありまして、上官のことをびくびく恐れている人間であります。しかし一応、パウロの上に立ち、パウロを監視する立場にあります。彼はパウロと出会い、そこにあらわれた神の力を感じた時に、謙虚に自分を明け渡して、「一体、自分は何をすればよいのか」と尋ねました。そのところから彼の人生は変わっていくのです。どんなにモーセを通して、神様の力が働いているのを目の当たりにしても、そこで心を閉じて頑なになっていったファラオと、非常に対比的です。私たちに何が求められているのかということは、この二人の対応から見えてくるのではないでしょうか。

(6)家族全体の救い

 もう一つは、家族全体の救いということです。先程、「教会は神の家族である」というお話をいたしましたが、それを聞きながら、皆さんの中には、ご自分の実際の家族のことを思い浮かべられた方もあるかも知れません。「私はこの神の家族に連なっているけれども、私の夫はそうではない。子どもたちはそうではない。」「自分が救われても、私の家族は一体どうなるのだろうか。」そういう思いを持っておられる方もあるのではないでしょうか。そうした私たちに向かって、この言葉が与えられているのは、何という喜びでしょうか。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。家族の誰かが主イエスにつながる時、また主イエスの体である教会に連なる時、家族全体がその一人を通して、神の家族に数えられるのです。その人を通して、家族の中に突破口が開け、救いの風がすうっと入ってくるのです。
 洗礼を躊躇する方の中に、クリスチャンにならないで先に亡くなった家族のことを思う方があります。「自分の夫は、あるいは自分の子どもは、先に死んでしまった。」「自分だけ救われても空しい。死んで別々のところへ行くのであれば、かえって一緒につらいところへ行った方がましだ。」そのようにお考えの方が時々あります。しかし私はそういう心配は無用だと思います。確かに厳密に考えれば、わからないこともたくさんあります。家族とは一体、どこまでを指すのか。二親等なのか三親等なのか。あちらの世界のことは、私たちには本当のところはよくわりません。しかし私は「最もよき意志をもったお方が、私たちに最もよいものを備えて待っていてくださる」、という約束で十分なのではないかと思っています。

(7)主は待っておられる

 このファラオに向かって、モーセは「いつまで、あなたはわたしの前に身を低くするのを拒むのか」という神様の言葉を告げました(3節)。これは同時に、私たちに向けられています。私たちは、この言葉にどう答えるのか。 先ほど『讃美歌21』の430番を歌いました。

「とびらの外に 立ち続けて   救いのイェスは 待っておられる」
「かたく閉ざした 戸をたたいて 今なおイェスは 呼び続ける」
「私のために 死んだイェスの  その憐れみを なぜ拒むか
かたく閉ざした 戸を開いて  心の中に 主を迎えよう」

 主の問いかけに積極的な応答をし、イエス・キリストを受け入れる時に、イエス・キリストの祝福が私たちの家族全体を包み、神の家族に連ならせてくださることを覚えましょう。