〜出エジプト記講解説教(13)〜
出エジプト記10章21〜11章3節
ヨハネ福音書12章35〜36節
2003年3月2日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之
いよいよ一連の災いの物語も終わりに近づいてまいりました。本日は、出エジプト記10章21節以下の「暗闇の災い」と11章の「最後の災い」と題された部分からメッセージを聞いてまいりましょう。
いなごの災いの後、主はモーセに言われました。「手を天に向かって差し伸べ、エジプトの地に闇を臨ませ、人がそれを手に感じるほどにしなさい」(21節)。「闇が迫ってくる」という表現がありますが、「手で感じることができるほどの闇」というのは、何かとてもリアルな表現であると思います。神様の言われた通り、モーセが手を天に向かって差し伸べると、三日間エジプト全土は暗闇に包まれました。人々は、三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることもできませんでした。昼に日の光がないだけではなく、夜も月の光、星の光すらなかったということでしょう。一方で、イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光がありました。
この暗闇の災いというのは、ファラオに対するこの上ない侮辱でありました。ファラオは、太陽神アモン・レーの化身と考えられていたからです。エジプトの二大神というのがナイル川と太陽であったそうですが、一連の災いは、ナイル川を血に染めるという、ナイル川の威光に対する打撃で始まりました。今やもう一つの神として崇められている太陽に対してなされたというのは、そのようにファラオの威信をあざ笑うものでありました。
そうは言っても、ファラオはずっと闇のままではたまりませんので、再び、モーセを呼び寄せました。「行って、主に仕えるがよい。ただし、羊と牛は残しておけ。妻子は連れて行ってもよい」(24節)。前回、つまりいなごの災いのところでは、「行くなら男だけにしろ」と言いましたので、ここでファラオは、前より一つ妥協したと言えます。ただし家畜は駄目だというのです。
ところがモーセの方は妥協しません。このようにファラオに切り返しました。「いいえ。あなた御自身からも、いけにえと焼き尽くす献げ物をいただいて、我々の神、主にささげたいと思っています。我々の家畜も連れて行き、ひづめ一つ残さないでしょう」(25〜26節)。そしてその理由を述べるのですが、これがまたおもしろいのです。「我々の神、主に仕えるためにその中から選ばねばなりません。そこに着くまでには、我々自身どれを取って主に仕えるべきか、分からないのですから」(26節)。どれをささげるべきかは、土壇場で決めるというのです。これは、いかにも全部の家畜を連れて行くための方便という感じがいたします。それに加えて、ファラオからもいけにえの動物をいただくというのです。
これを聞いたファラオは、逆上して、再び彼らを去らせまいといたします。ファラオは言いました。「引き下がれ。二度とわたしの前に姿を見せないよう気をつけよ。今度会ったら、生かしてはおかない」(28節)。モーセも負けてはいません。「よくぞ仰せになりました。二度とお会いしようとは思いません」(29節)。(ただし、実際にはこの後もう一度ファラオはモーセを呼びだしています。12:31参照)。
このところに、「主がまたファラオの心をかたくなにされたので」(27節)と記されています。ファラオの心がかたくなになったのは、主がそうされたのだ、というのです。この言葉は、実は、これまでにも何度も出てきました(4:21、9:12、10:20他)。こうした聖書の言葉を読むときに、私たちは少なからず、とまどいを覚えます。神様がファラオの意志を完全にコントロールして、しかもかたくなな方向へ神様がし向けているのだとすれば、ファラオは全く救われる余地がないではないか、という気がするからです。ファラオには自由意志がないようにさえ思えます。
このことは、神学的にもなかなか難しいデリケートな問題であります。昔から自由意志論であるとか、神の予定説という議論において取り上げられてきました。ただし私はあまり抽象的に考えすぎない方がよいだろうと思っています。ファラオにも悔い改める余地はあったはずです。しかし権力を持ち、財力を持った人間が、神様の前にすべてを投げ出して悔い改めるというのが、いかに難しいかということを思わせられます。神様は、このイスラエルの民、エジプトの奴隷たちの出エジプトという大事業を成功させるために、あえてそのような人間の性格を用いられた、ということかと思います。もともと対等な人間の勝負ではないのです。奴隷たちの方は武器も何も持っていません。圧倒的に支配者の方が強い。しかも支配者の方は彼らを解放する気など毛頭ありません。そこへ神がかかわられて、奴隷たちの解放を実現される。そのために、それが本当のことになるために、神はさまざまにして、道を整えられたのでした。ファラオのかたくなさも、彼らに最後に最もよい形でエジプトを去らせるために一役買っているのです。
11章の最初の部分では、そうした神様の計画が別の面から語られています。ここでは、ファラオの心とは反対に、エジプトの人々の心を柔らかにすることによって、出エジプトの道備えがなされました。神様はモーセに、「あなたは、民に告げ、男も女もそれぞれ隣人から金銀の装飾品を求めさせるがよい」(2節)と言うのですが、こういう風に続きます。「主はこの民にエジプト人の好意を得させるようにされた。モーセその人もエジプトの国で、ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた」(3節)。神様は、この出エジプトを大事業を成功させるために、一方でファラオの心をかたくなにさせながら、もう一方では、ファラオの家臣たちや他の一般のエジプト人の心を開かせられた。それどころかモーセはだんだんとエジプト人からも尊敬されるようになっていったというのです。
奴隷たちは、自分のものをほとんど何も持っていません。これから荒れ野を旅するのにいろんなものが必要になります。それを得ることができるように、主が配慮された。エジプト人たちが彼らに好意をもつようにしてくださったというのです。
もっともここでは、それが友好的に、自発的にそれがなされるということですが、必ずしもそうならないこともあったでしょう。実は、この話はモーセが最初に召命を受けた3章のところで、すでに出てきているのです。「そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身につけさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい」(3:21〜22)。
「分捕り物」という激しい言葉が使われています。これもちょっと理解に苦しむ言葉です。盗みを奨励しているように聞こえるからです。これにも古来、さまざまな議論がありまして、有力なものは、これは彼らがそれまでエジプトで奴隷としてただで働かされてきたことに対する正当な要求だ、いわば代償だという理解です。これはなかなか説得力のある理解ではないかと思います。
金曜日の夜11時にNHKで、「ザ・ホワイトハウス」というテレビ番組があります。我が家でも時々見るのですが、なかなか質の高い番組です。アメリカ合衆国の大統領の側近たちの物語です。アメリカ合衆国の大統領を描くということで、最初は何となくうさん臭いものを感じていたのですが、なかなかいい番組です。(ちなみにこの番組の中でアメリカ合衆国のシェド・バートレット大統領を演じているマーティン・シーンという俳優は、おもしろいことにアメリカがイラクを攻撃することに反対しているそうです)。
一昨日の番組は第18話「昼食前に」(原題はSix Meeting Before Lunch)というタイトルでした。昼食前の6つの小さなミーティングの様子が描かれています。その中で、一つ興味深い会話がありました。ジョシュという大統領補佐官と、ホワイトハウスが指名したブレッケンリッジという司法次官補との会話です。ブレッケンリッジはアフリカ系アメリカ人(黒人)です。彼は奴隷の子孫として、奴隷制への賠償を支持する態度を公に表明するのですが、アメリカ政府としてはホワイトハウスの指名した人間に、奴隷制への賠償を支持されると困るので、大統領はあわてて、ジョシュにその対応を委ねたのでした。そのジョシュとブレッケンリッジとの会話でありました。ブレッケンリッジは「アフリカ系アメリカ人は、奴隷としてアメリカ大陸に連れてこられ、ただで働かされた。その労働賃金を、今日のお金で試算すると、最も少なく見積もっても、1兆6000億ドル(190兆円)になる。それは何らかの形で償われなければならない」と言いました。そしてその具体的方法として、「国家が、奴隷制の犠牲となった人々の子孫、つまり黒人たちの教育に、その1兆6000億ドルを使う」ことを真顔で提案するのです。ジョシュは、その巨額の提案に唖然とするのですが、私はそれを見ながら、アメリカの奴隷制は、それだけの額にのぼる程の労働力を無償で強いたのだと、改めて思わせられました。これは非常に非人間的なことです。
この賠償金の話は、出エジプトの際の話と似ていますね。こちらでは、神様の方から奴隷たちに向かって、「あなたたちはそれだけのものを、どうどうとこの国から持って出る権利があるのだ」と言おうとされたのでしょう。
さて、暗闇の災いには、どういう意味があるのかということをもう少し考えてみたいと思います。光とは、創世記によれば、神様が天地の次に造られた創造物でありました。光が創られる以前、世界は混沌として、闇が世界を覆っていました。ですから光が取り去られるということは、この世界がそうした混沌の状態に戻ってしまうことを象徴しているように思います。
しかしイスラエル人のところには、つまり神が共にいることを約束されたところには、光が絶えることがなかった。そこはいつも明るく照らし続けられたというのです。私は、この話を読みながら、ヨハネ福音書の冒頭を思い起こしました。私たちが昨年のアドベントとクリスマスにご一緒に読んだ言葉です。有名な「初めに言があった」で始まって、しばらく読むと、「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった(暗闇は光に勝らなかった)」(1:4〜5)。そして「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(1:9)と続きます。この「言」「命」「光」とは、他ならないイエス・キリストを指しています。
私たちは今、ある意味で暗闇のような時代を生きております。ある人が昨日の新聞において、「私たちは今、戦後を歩んでいるというよりは、戦前を歩んでいるという意識を持たなければならない」というようなことを言っていました。暗黒が立ちこめる中、何をなすべきか
、ということが問われている大事な時期であろうかと思います。それこそ暗闇が迫ってきて、手で触れるほど、もうそこまで来ているという気がいたします。そうした中で、この世界にまことの光であるお方が来られたということを、信仰を持って受けとめること、知ることは、この時代を歩み抜くのに、最も大事なことではないかと思います。そのお方がおられるところには光がある。そしてその光は闇に勝つのです。
イエス・キリストが十字架におかかりになった時、昼の12時であったにもかかわらず、全地が真っ暗になった、太陽は光を失った、ということであります(ルカ23:44)。このことは、イエス・キリストが光であることを、逆説的に示していると思います。キリストなき世界は、暗闇なのです。
今週の水曜日は灰の水曜日であります。教会暦ではこの日から受難節が始まります。イエス・キリストの受難を覚え、そのことの意味を深く覚え、同時にそこに湛えられた恵みを深く覚える季節であります。
ヨハネ福音書は、こう語ります。
「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわからない。光の子となるため、光のあるうちに光を信じなさい」(ヨハネ12:35〜36)。
まさにイエス・キリストという光をいただいて、闇に追いつかれないよう、光のもとを歩んでいきましょう。
1 光の子になるため ついて行きます
この世を照らすため 来られた主イェスに
2 主の輝き見るため 進みゆきます
示されたこみちを み神のみもとに
3 主の再び来る日を 待ち望みます
信仰を守りぬき み前に立つ日を
*主のうちに闇はなく 夜も昼も輝く
心の中を わが主よ 照らしてください
(『讃美歌21』509)