主の過越

〜出エジプト記講解説教(14)〜
出エジプト記12章1〜20節
ルカ福音書22章7〜16節
2003年3月16日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)過越祭と教会暦

 先々週の水曜日から受難節に入り、本日は、受難節第二主日礼拝であります。私たちは出エジプト記を続けて読んでおりますが、受難節に、出エジプト記の「主の過越」の記事を読むのは、非常に意味深いことであると思います。イエス・キリストが過越の食事をするために弟子たちを集められ、共に食事をなさった。それが最後の晩餐でありました。そしてその過越の食事は、その翌日に起ころうとしている出来事を象徴するものでありました。今日は、そうした最後の晩餐の原点にある過越の出来事を心に留めてまいりましょう。
 神様はモーセとアロンにこのように言われました。「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」(2節)。かつては一年の始まりは、秋であったそうですが、後にメソポタミアの暦にならって春に移されました。
 ちなみに私たちが持っている教会暦はイースターを中心に定められていますが、そのイースターは年によって変動いたします。そのイースターはどのようにして決められるのかと申しますと、その年の「春分の日」の次の「満月」の次の「日曜日」ということです。ですから早い年ですと、3月下旬にイースターがまいりますし、遅い年ですと、4月下旬ということになります。1ヶ月以上の差が出て来るわけです。
 受難節の始まりである灰の水曜日は、イースターから遡って46日前の水曜日であります。なぜ46日であるかと申しますと、日曜日を除く40日間が受難節であるからです。ですから厳密に言うと、日曜日は受難節ではないのです。今日の週報には、受難節第二主日と書いてありますが、これも受難節の中の第二主日という意味であります。ですから最近では、復活前第何々主日という呼び方が増えてきています。平日は主の受難を覚えますが、受難節の中にあっても、日曜日だけは復活を祝うのです。
 ペンテコステ(聖霊降臨日)は、イースターから数えて7回目の日曜日(50日後)という風に定まります。それほどまでに影響力のある教会暦というものは、実は本来、今日のテキストであります「過越の祭」の日が、そのように算定されるからなのであります。ちょうどその過越の祭の日に、イエス・キリストが十字架にかかられたので、受難日が定められ、次の日曜日に復活日が定められました。イエス・キリストの受難と復活という出来事は、時期的にも内容的にも、この過越の出来事と深い関連があるということを、今日は心に留めたいと思うのです。ちなみに、イースターのことをポルトガル語では、パスコアと申しますが、これは「過越」(英語のPassover)ということに他なりません。

(2)過越の儀式

 さて主の言葉は次のように続きます。「イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。今月10日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなさい」(3節)。太陰暦でありますので、14日の夜から15日未明が満月です。一日は日没から始まりましたので、満月の4日前ということになります。

「もし家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。その小羊は、傷のない1歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい」(4節)。

 ここで「小羊」と書きながら、「羊でも山羊でもよい」と言うのは矛盾するように思えますが、最初の「小羊」というのは、羊と山羊の総称であったようです。
 おもしろいことに、人数、つまり食べる量によって、逆にどの羊が最もふさわしいかが選ばれたのですね。一番小さい羊でも大きすぎる場合には、隣の家族と一緒にしろ、というのです。このことは、10節の「それを翌朝まで遺しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する」という言葉とも関係しますが、決して無駄にしないようにという配慮が見られます。

「それは、この月の14日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない」(6〜9節)。

 ここでは、準備の段階から、この儀式が共同体全体の目の前でなされるべきであることが、確認されます。
 「煮て食べてはならない」というのは、血が残るからでしょうか。血は食べてはならなかったのですね。随分と細かい規定がなされています。10節は先ほど読みました。

「それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である」(11節)

 急いで、すぐにでも出発できる格好をして食べなさい、ということです。

「その夜、わたしはエジプトのすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である」(12節)。

 この「主」というのは、もともとは「ヤハウェ」というの神様の名前が記されています。エジプトの神様とは違う、という含みです。

「あなたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない」(13節)。

 家の玄関に、そのように小羊の血を塗ったのです。


(3)子々孫々にいたるまで

 さてこの13節までは、出エジプトに備えて何をすべきかということが記されているわけですが、ここから後、14節以下には、この最初の出来事を覚えて、後々までこれを主の祭りとして記念しなさい、ということが記されます。その後には祭りの祝い方の具体的方法が述べられていますが、先ほど読んでいただきましたので、繰り返しません。
 そして21節以下で、さらに詳しくどのようになすべきかが語られます。最初の部分では、血の塗り方が記されています。一束のヒソプ(葦の一種)を取って、それを鉢の中の血に浸す。そしてそのヒソプで、玄関の二つの柱とそれをつなぐ鴨居に、血を塗る。そうすると、主がエジプト人を撃つために来られた時に、それを目印として、災いを避けるというのです。そして、このことはその日に限らず、これからずっと毎年毎年、覚え続けよ、と命じられました。先ほど述べましたように、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。酵母の入っていないパン、完全に焼かれた小羊の肉をそのようにして食べるのです。

(4)最初の信仰問答

 やがて出エジプトが実現し、そして40年を経て約束の地に入り、だんだんと生活も安定した後にこそ、この最初の出来事を忘れてはならない、このことを伝えなさい、と言うのです。こういう風に記されます。

 「あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりにあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を通り過ぎ、我々の家を救われたのである』と」(24〜27節)。

 これは非常におもしろいと思います。キリスト教会、特に宗教改革以降のプロテスタント教会では、信仰問答というものを大切にします。問答形式で信仰の内容を伝えていくのです。今、経堂緑岡教会のCS成人科でも、『ハイデルベルク信仰問答』を学んでいます。問いを設定して、それに答えが置かれている。カテキズムとも呼ばれます。ここに記されているのは、最初のカテキズム、最初の信仰問答なのです。
 過越の儀式をどのように行うのかと言いますと、その共同体の中で、言葉が話せる最年少の子どもに、「この儀式にはどういう意味があるのですか」と問わせ、それに対して、共同体の長老格の人がこたえるのです。「これが主の過越である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである」。そういう信仰問答をするのです。毎年毎年、原点に帰って神様の恵みを思い起こし、自分たちの信仰を確認する。言葉だけだとどうしても記憶が薄れてくるので、動作を伴い、ものを使って、それを儀式として守り続けたのです。
 この出エジプトの出来事は紀元前1300年頃の出来事です。それをイスラエルの民は、ずっと守り続けてきた。主イエスの時代にも、それをきちんとやっていた。ですから主イエスがなさった過越の祝いは、恐らくもう1300回目くらいになっていたわけです。そして今日でもユダヤ教徒は、これを毎年守っている。そういうユダヤ教の伝統は、本当にすごいなあ、と感心いたします。

(5)すべての感覚をもって

 私たちプロテスタント教会は、神様の恵みを受けるにもどうも聴覚中心です。説教を聞くことが中心になります。しかし私たちはそれ以外にも五感をもっています。聴覚、視覚、嗅覚、味覚、触覚、この五つです。カトリックの信仰では、聖画や彫刻など視覚に訴える部分が随分あります。またギリシャ正教の教会では、それに加えて嗅覚も大事な感覚になっています。ミサの途中で煙か何かが出てきて、その香りが神の臨在を象徴しているのです。旧約聖書に記されている「焼き尽くす捧げもの」などというのは、やはり香りを伴っているものでした。それらをプロテスタント教会では、聴覚に絞り込んできたという感じがいたします。もちろんそれには、それまでの教会に対する批判というものがあるわけですが、何か大事なものを受け損ねているのではないかという気がします。もっともそういうプロテスタント教会でも、味覚というのは、大事な感覚です。聖餐式というのは、舌でもって主の恵みを味わう。それを残しているわけです。
 この「主の過越」の儀式は、食事を伴っていました。みんなの前で焼いたのだから香りもあったことでしょう。そして寸劇のようなこともやった。つまり視覚と嗅覚と聴覚と味覚と触覚、ありとあらゆる感覚を用いて、最初の出来事を子々孫々に伝えることをしたのです。

(6)阿佐ヶ谷教会の記念祈祷会

 この出来事を読むときに、私は信仰の原体験を伝えることの大切さを思わされます。私は神学校を卒業してすぐに、阿佐ヶ谷教会という教会へ赴任いたしました。経堂緑岡教会と同じ、メソジストの伝統を持つ教会であります。私はそこで86年から89年まで3年間伝道師として働きましたが、阿佐ヶ谷教会では、毎年1月24日前後の水曜日に記念祈祷会という特別な祈祷会を行っております。それは阿佐ヶ谷教会の信仰の出発点が祈りであった、祈祷会であったことを思い起こすためであります。
 阿佐ヶ谷教会は1924年の創立であります(経堂緑岡教会創立より6年前)。日本メソジスト教会の第二代監督であった平岩愃保(ひらいわよしやす)牧師が監督退任後のご自宅で開いておられた家庭集会から始まりました。それから9年後の1933年に平岩先生は亡くなられたのですが、その時に「これから先、どうするか」ということが遺された人々で話し合われたそうです。まだ教会にはなっていませんでした。「もともと平岩先生を囲んでの家庭集会であったのだから、もうこれで解散すべきだ」という意見も少なくなかったそうです。しかしながらその当時、日曜学校の校長であった佐々木高明さんという方を中心に日曜学校の教師をしていた青年たちは、「大人はそれで自分の教会を探せばいいかも知れないが、子どもたちはそういうわけにはいかない。子どもたちのためにも教会は存続させるべきだ」と強く訴えました。ところがその佐々木校長も、平岩先生召天のわずか半年後、1934年1月16日に、急性肺炎のために亡くなられてしまいました。意気消沈した青年たちは、平岩先生亡き後、礼拝説教をしてくださっていた青山学院大学の松本卓夫先生を訪ね、「平岩先生が亡くなられた後、途絶えてしまっている祈祷会を、ぜひ再開してください」とお願いしたそうです。松本卓夫先生も「それはいいことだ」と賛成してくださって、早速次の水曜日(1月24日)の夜、小さな石油ストーブを囲んで、松本先生夫妻と3人の青年たちで「静けき祈りの時はいと楽し」を歌い、祈りあったそうです。

「戸外は一番寒い時で、祈った会堂も寒かったにもかかわらず、一同の心は何とも暖かく燃え、久しぶりに晴れ晴れしい気持になったのであった」
(『阿佐ヶ谷教会五十年史』p.28)

と記されています。
 祈りの集いから少しずつ、小さな群れは、信仰の力を取り戻していきました。そしてその半年後に、留学先のボストン大学から帰国された大村勇牧師を迎え、この大村牧師の40年にわたる牧師在任中に、阿佐ヶ谷教会は日本を代表する大教会の一つに成長いたしました。
 阿佐ヶ谷教会では、「あの時の祈祷会がなければ、今日の阿佐ヶ谷教会はなかった」ということで、今も毎年1月24日前後の水曜日の夜に、当時の様子を語り伝えながら、記念祈祷会をまもっているのです。私の在任中は、いつも加藤信子さんという方が「このあたりに小さなストーブがあってね」と昨日の出来事であるかのごとく、リアルにお話しくださいました。それを聞く私たちも、あたかもその場にいるかのように、心が熱く燃やされ、一つにされる経験をいたしました。もう加藤信子姉は大分お年ですので、恐らくは別の方が語り伝えていることでありましょう。記念祈祷会に出席している誰もが、自分の経験であるかのごとくに話すことができるのです。

(7)主の過越から聖餐式へ

 私は、この過越というのも、そういう経験ではなかったかと思います。イスラエルの民の信仰の原点、それは一世代で伝えるには当然限界があります。ところがそれを「この儀式にはどういう意味があるのですか」と子どもが尋ね、大人がそれに答えることによって、世代を越えて伝えてきました。それが1300年続いて、イエス・キリストに達し、ユダヤ教徒は、それからさらに2000年間、この儀式を守りつづけています。
 キリスト教会では、このイエス・キリストがそれをなされることによって、新しい意味が付与されたと、理解いたします。その食事の席を設けられたイエス・キリストご自身こそが、神の小羊、永遠にしてまことの、そして唯一の犠牲の供え物であり、このイエス・キリストによって、神は私たちから災いを、過ぎ越してくださると信じるのです。それがキリスト教の信仰です。そしてその恵みを覚えて、主の過越の伝統に立ちつつ、新たな儀式、聖餐式を行い続けてきました。私たちは、そこでパンとぶどう酒を受けることによって、あたかもあの最後の晩餐に連なっていたかのごとく、恵みを新たに思い起こすことが許されているのです。この受難節の時に、もう一度深く主の恵みを覚えたいと思います。