初子の死

〜出エジプト記講解説教(15)〜
出エジプト記12章29〜42節
ルカ福音書23章44〜36節
2003年3月23日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)エジプト出発

 神様はモーセを通して、「エジプトの国中の初子、家畜の初子であれ、人間の長男であれ、それらをすべて撃つ」と予告されましたが、いよいよそれが現実のものとなる場面です。

「真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった」(29〜30節)。

 ファラオは最初は「行くならば、男たちだけで行け」と言い、二回目は「女も子どもも連れて行っていいが、家畜はおいていけ」と言いましたが、ここへ来て、ようやく「全部連れて行け。とにかく一刻も早く出ていけ」と言うのです。他のエジプト人も、民をせき立てて、急いで彼らを国から追い出そうといたしました。彼らが求めるのものは何でも、金銀でも装飾品でも、欲するまま与えました。そうしないと自分たちがみんな死んでしまうと思ったからです。そこには、イスラエルの人々に対する神様の配慮がありました。彼らが最もよい条件で、出ていくことができるように、一方でファラオの心をかたくなにしながら、一方でエジプト人の好意を得させるようにされたのでした。そこでイスラエルの人々は、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いで、大急ぎで出ていくことになります。
 40〜42節はこのところのまとめです。

「イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は430年であった。430年を経たちょうどその日に、主の部隊は全軍、エジプトの国を出発した」(40〜41節)。

 かつて神様はアブラハムの夢の中に現れて、このように告げられました。

「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、400年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう」(創世記15:13〜14)。

 アブラハムに告げられたその言葉が、今ここに実現したのです。

(2)殺戮の話

 さてこの12章を読んでみまして、神様がエジプト人の初子を、次々と殺していくという話に、戸惑いを覚える方も多いのではないでしょうか。いくらエジプト人が悪いからと言って、赤ちゃんまで殺すのはひどいという気がします。この出エジプト記に限らず、旧約聖書には、殺戮の話、戦争の話がたくさん出てまいります。そのせいで「旧約聖書はきらいだ」、とおっしゃる方も少なくありません。それはそれでよくわかる気がいたします。私も時に、そう思います。聖書にはどうしてこんなにたくさん殺人の話が出てくるのか。聖書自体がこんなに殺人に満ちているから、私たちは今起きている戦争を否定できないのではないか、と思うかも知れません。
 先週、ついにアメリカ軍とイギリス軍によるイラク攻撃が始まってしまいました。世界中の多くの世論の反対を押し切って、そして国連の合意も得ないままの武力行使であります。それは、一昨年9月11日の同時多発テロ事件以降、アメリカ合衆国がたどってきた道を、もう逆戻りできない形で既成事実化してしまう出来事でありました。そこには「力に対しては力でねじ伏せる」という力に対する信仰、そしてそのことに対する絶対的な自信が伺えます。

(3)NCCから小泉首相への「要望書」

 日本のキリスト教界でもさまざまな形で憂い、特に攻撃反対が表明されています。イラク攻撃が始まる1週間前、日本キリスト教協議会(NCC)第35回総会が開かれましたが、そこでも以下のような「要望書」が決議されました。

要 望 書

内閣総理大臣 小泉純一郎様

日本政府は、先に米国等が国連安全保障理事会に対して提案したイラク攻撃容認の新決議案の支持を表明しました。このような日本政府の態度表明は、日本国憲法を明らかに逸脱するものであり、イラク攻撃に反対し、平和を願う日本や世界の世論とはまったく相容れないものです。
 米国は、国連安保理事会の新決議の採否にかかわらずイラク攻撃を断行すると言明しています。これは、国際法に違反し、国連を実質的に崩壊させるものです。またイラクへの攻撃は、中東全域を紛争の不安に陥れ、子どもたちや、力のない人々の命を奪い、イラクの人々の生活に壊滅的な打撃を与えることになるでしょう。さらに、武力で制圧するという米国の方策は、北東アジア地域をも不安定な状況に陥れることになるでしょう。
 戦争により国内外の人びとの命を失った痛みを知り、平和憲法を持つ日本は、戦争による悲惨をとめる責任があります。今こそ、平和と和解の仲介者として外交的努力をすることが求められています。
 日本キリスト教協議会第35回総会は、戦争に反対し、全世界の人々の平和への願いに私たちの祈りを合わせ、次のことを要望します。
 日本政府は、米国のイラク攻撃を支持しないことを表明し、米国の戦争を止めさせ、平和的手段による解決をするよう国際社会で働くこと。
以上
2003年3月12日
日本キリスト教協議会
総会議長 鈴木伶子」

NCCは昨年9月には、ブッシュ大統領宛てに、「アメリカのイラク攻撃に反対する議長声明」も出しております。

(4)帝国主義的発想

 昨年9月、ニューヨーク・ユニオン神学校名誉教授の小山晃佑先生をお迎えした折りに、小山先生は「『備えあれば憂いなし』という考え方は偶像だ」と語られました。「備えあれば憂いなし」という考えを一歩押し進めたところに「先制攻撃」というものがあります。まだ相手は攻撃してもいないのに、「攻撃してくる可能性があるから」という理由で、相手を攻撃する。「危険な人物が大量破壊兵器をもっていることは危険だ」ということを、質量共に世界一の大量破壊兵器を有し、世界で唯一、原子爆弾という超大量破壊兵器を使用した前科のある国がそれを主張する。そしてそれよりもけた違いに少ない量の大量破壊兵器を持っている国を攻撃し、力でねじ伏せていく。この論理で行けば、次々と、自分たちと意見を異にする国々を力で支配していくこと以外に選択肢はなくなっていきます。こういう考え方を帝国主義と言います。
 そして「俺たちについてくる国はついてこい。同意しない者はそれでもいいだろう」と言って、ついてくる国には見返りを与え、反対する国には、援助もストップする。他の国々は、その国についていかないと、損をすることになるので、それを認めざるを得なくなってしまう。「国益に合致するか、国益に反する」かが、判断基準になります。日本政府の判断基準も、そのところにあるようです。
 私は、この帝国主義という考え方は、キリスト教信仰、聖書の信仰と全く相容れないものであり、むしろ反するものだと思います。帝国主義に傾くということそのものがすでに、「武力ではなく、愛と平和をもって、神の国を築く基を据えられたイエス・キリスト」を信じてはいないということのしるしです。聖書に証しされた神様は頼りにならないから、名前だけお借りして、実は自分でやるということなのです。そこには確かに「神に祈る」というポーズはあります。人一倍信仰深く見えます。しかし私からすれば、「一体どなたに祈っているのかしら」と思わざるを得ないのです。
 イエス・キリストの名前を口にしながら、相手を自分に屈服させ、帝国主義の道を突き進もうとする人について、「あの人の神様は確かに私の神様と同じ名前だけれども、同姓同名の別の神様ではないかしら」と、ふと思います。あるいは「サタンか誰かが、聖書の神様の名前を語っているのではないか」、だから「まわりから見たら、誰でもおかしいとわかるのに、当の本人は暗示か催眠術をかけられて、本質的なことが見えなくなっているのではないかしら」と思うのです。

(5)中立はありえない

 聖書の神様は、自分の力で弱い相手をねじ伏せようとする者を祝福したことは、一度もありません。裁きの道具としてお用いになったことはあります。アッシリアを用いて、愛するイスラエルに裁きを与え、バビロニアを用いて、愛するユダを罰し、バビロン捕囚を実行されました。しかしそれはただ道具として、アッシリアやバビロニアを用いられただけのことです。そしておごり高ぶる大国は、その後で必ず罰せられているのです。ですから今日でも、おごり高ぶって帝国主義的な道を歩もうとする大国は、必ず神様の裁きを受けることになるでしょう。
 私は先週から起こっているこの恐ろしい出来事についても、何かしらきっと神様に意図があるに違いないと思います。しかしそれが一体何であるかは、軽々しいことを言わないようにしなければならないでしょう。私が述べていることが間違っているかも知れません。皆さんの中にも、きっと私と違う意見の方もあるでしょう。ですから本当は、今度の戦争についても、何も触れない方が無難なのです。しかしながら、私は、自分が間違っているかも知れないという風に自己限定し、最後のところは判断保留しながら、それでも今の段階で正しいと思うこと、聖書によって示されたと信じることを語らざるを得ないのです。
 何も語らないことは、実は決して中立ではありません。こういう事柄に関して、中立というのはありえないのです。例えば、象がねずみを今にも踏みつぶそうとしている状況において、何も言わない、何もしないということは、中立であるかのように見えて、実は象の味方をしているということなのです。今の状況においても、何も言わない、何もしないということは、結果として、今アメリカやイギリスが行っていることを承認し、日本が取っている態度を了解しているということになってしまうのです。

(6)初子は神のもの

 さて、出エジプトの話に戻りましょう。ここで神様はエジプトに入り、エジプトの初子を撃っていくということをなされました。このことが倫理的に正しいことであったかどうかを、私たち人間の基準でとやかく言うことは避けたいと思います。どちらかと言えば、それは無情だ、どうして神様はそんなことをなさったのか、イスラエルの民を解放するためだと言っても、子どもまで殺すというのはあんまりではないかという気持が先にたちます。聖書には、そのように私たちには不可解に思えること、私たちがそこで判断保留せざるを得ないことがたくさん記されています。
 しかし私たちはそこでつまずいてしまうのではなく、そこには一体どういう意味が込められているのか、そしてその後、新約聖書ではどうなっていくのかということに、目を向けていきたいと思うのです。
 このたびの「エジプトの初子をとられた」ということの意味については、そのようにしてイスラエルの民を解放する決定的な準備をなさったということでした。またそこには「初子は特別のもの、それは神のものである」という考えがあったのでしょう。
それは13章のところで明らかにされていきます。

「主はモーセに仰せになった。『すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである』」(1〜2節)。
「あなたの家畜の初子のうち、雄はすべて主のものである。ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない」(12〜13節)。

 ろばは汚れた動物とされていたので、その代わりに小羊をささげるよう指示されたのでした。「贖う」というのは、「身代わりとする」という意味です。そして次のように続きます。

「あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない」(13節)。

そのようにして本来神様のものとして取られるべきものを、小羊でもって贖ってもらったのです。

(7)イエス・キリスト、神の小羊

 私は、このことのずっと先に、イエス・キリストがおられるのだと思います。イエス・キリストこそは、神ご自身の初子であり、独り子でありました。その独り子が、私たちの贖いとしてささげられた。そのお方は、神ご自身が用意された贖いの供え物、「神の小羊」(ヨハネ1:29)でありました。この贖いの供え物のゆえに、私たちはそれ以降、その都度、贖いの供え物をする必要はなくなりました。イエス・キリストが一人でそれを代表してくださったのです。私は、それまでの歴史の大きな痛みをご存じの神様が「もう今後はそういう道を取らない」という決断をしてくださったのではないかと思います。

「既に昼の12時ごろであった。全地は暗くなり、それが3時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた」(ルカ23:44〜46)。

 この出来事によって、まことの「神の小羊」による贖いは完成しました。私たちは、このお方のゆえに贖われて、今歩むことを許されているのです。

(8)寝ずの番をされる方

 出エジプト記の12章42節に、こういう言葉がありました。

「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである」。

 このお方は、出エジプトの後、疲れて眠ってしまわれたというのではありません。
「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ」で始まる有名な詩編121編の中に次のような言葉があります。

「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方」(詩編121:4〜5)。

 神は、今も夜を徹して、私たちを見守ってくださっているのです。
 イエス・キリストは十字架にかかられる前夜、ゲツセマネの園で夜を徹して祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかしわたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)。その時弟子たちは、イエス・キリストが「自分のために祈ってくれ」と言われたにもかかわらず、疲れて眠ってしまいました。この時の対比をネガティブに見てみますと、主がそのように必死で祈っておられるのに、私たちは、何とのん気に眠っていることかと思います。しかし逆に言うならば、私たちがそのように眠ってしまう時にも、イエス・キリストは私たちのために眠らずに祈ってくださっている。神様は寝ずの番をしてくださっているのです。
 主の御心は一体どこにあるのか、私たちは一体何をなすべきなのか。世界が雲に包まれたように見える状況を、私たちは生きておりますけれども、そうした中で、主の御心をたずね、主の御心に従う信仰を持ち続けたいと思います。