〜出エジプト記講解説教(16)〜
出エジプト記13章17〜22節
ヘブライ人への手紙12章1〜2節
2003年4月27日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之
イスラエルの民は、とうとうエジプトを脱出いたしました。舞台は、いよいよこのところからエジプトの外に移ります。エジプトの王ファラオは、国中の長男や家畜の初子が次々と死んでいくのを目の当たりにして、モーセとモーセの率いるイスラエルの民を、疫病神でも追い出しでもするかのように、「一刻も早くこのエジプトから出ていけ」と命じました。その背景には神様のイスラエルの民に対する配慮があったことは、これまでも申し上げてきました。
しかしいざイスラエルの民を去らせてしまうと、ファラオの心は再び一変いたします。来週改めて読むことになりますが、「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは」(14章5節)と、ファラオは嘆くのです。そして軍隊をもって彼らを追いかけてきます。
一方、イスラエルの民は、まだそんなことを考える余裕はなかったかも知れません。エジプトを出ることができた喜びに満たされていたことでしょう。しかし神様はすでにすべてをご承知です。今日のテキストはこのように始まります。
「さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかも知れない、と思われたからである。神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から上った」(17〜18節)。
聖書巻末の「2出エジプトの道」という地図をご覧ください。その中に、点線で出エジプトのルートが記されています。左上の方がエジプトです。ここにラメセスという王の名前を冠した町がありますが、ここから出発したのです。そしてシナイ半島の方へ向かうのに直線コースをたどらないで、ぐるっと南の方を迂回しているのがおわかりかと思います。この直線コースに道がなかったわけではなく、ここにペリシテ街道があるのでしょう。そこを通らずにわざわざ荒れ野に導かれた。(20節のスコトという町もこの地図にも出てまいります。やはり南の荒れ野の途中にある町です。)
神様は、時々こういうことをなさいます。これから起こるであろうことを先の先まで読んで、迂回させられるのです。この場合であれば、一つ先ではなく、二つ先まで読んでおられる。一つ先であれば、「神はエジプトの軍隊が追いかけてくるのを知っておられたので、追いかけて来るであろう近道を避けて、荒れ野に迂回させられた」ということになるでしょう。しかしそうではないのです。イスラエルの民がもう後戻りする気にならないように、荒れ野の道に迂回させられたという。ですからエジプトの軍隊が追いかけてきた段階では、彼らはまだ神様の御心がわかりません。「なぜ神はこんなひどいことをされるのか。私たちをこの荒れ野でエジプト人の手で殺させたかったのか」と思ったのではないでしょうか。「こんなところで死ぬくらいなら、エジプトで死んだ方がましだった」と思ったかも知れません。しかしもう引き返せないのです。もしもこれが街道沿い、ペリシテ街道沿いだったら、来た道に沿って、一人二人、いや家族単位で引き返した人たちもあったかも知れません。しかしここは荒れ野です。隊伍を整えていかないと進むことはできないのです。神様はそのようにしてエジプトへの退路を断たれたのでした。彼らには前進するしか選択肢がありませんでした。神様の御心は、このもう一つ先まで行って、はじめて明らかになる。それは神が道を拓き、エジプトの軍隊の追っ手を絶たれた時でありました。
私たちの人生にも時々そういうことがあるのではないでしょうか。喜びの頂点から、どん底に突き落とされるようなことは、あるものです。せっかく願っていた学校に入ったのに、病気になってしまった。せっかく願っていた大企業に入り、もう安泰だと思っていたのに、急に倒産になってしまった。あるいは自分自身がリストラの対象になってしまった。順調に行っていた商売が、何らかの事情で急にうまくいかなくなってしまった。縁談が急に破談になってしまった。家族の大黒柱が、急に亡くなってしまった。家族が途方に暮れてしまう。そういうことは、時々起きるのです。しかももう引き返すにも道がありません。
この時のイスラエルの民のような経験をします。喜び勇み、神様に感謝をしたとたんに、急にどんでん返しのように窮地に追い込まれる。しかも神様の御心がわからない。もう一つ先までいかないとわからないのです。もしかすると二つ先だけではなく、ずっと先、何十年後にならないと神様の御心が分からないということもあるでしょう。
しかしそういう中にあっても、神様は必ず逃れの道を用意してくださっています。使徒パウロはこう言っております。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリント一10:13)。神様はその試練によって、私たちが神様から離れてしまうのではなく、むしろそこで信仰を確認し、神様へと立ち帰っていくことを求められておられるのです。
さて次にこう記されています。
「モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが『神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように』と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである」(19節)。
これも気の遠くなるような長い年月の話です。イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は430年と言いますから(出エジプト12:40参照)、ヨセフが「いつか自分の骨を持ち出してくれ」と頼んだのは、実に430年も前ということになります(創世記50:24参照)。それが今、ここに実現しようとしている。聖書というのは、何とスケールの大きな話、長い年月の話をしていることかと思います。
私たちは、本当に目先のことしか念頭にありません。「明日を読む」なんていうテレビ番組もありますが、せいぜい10年先位のことしか視野にありません。しかし聖書は世代を超えた話、それも何世代も何世代も超えた話をするのです。
「一行はスコトから旅立って、荒れ野の橋のエタムに宿営した」(20節)。このスコトというのは先ほど地図で確認しました。「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」(21〜22節)。
この「雲の柱、火の柱」というのは、エジプト脱出をしたイスラエルの民に対する神の臨在と導きのしるしでありました。この後も何回も出てまいります。早速、次の14章では、このように出てきます。
「イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。」(14:19〜20)。
この雲の柱は、ただ前を進むだけではなく、時に後ろへまわり、イスラエルの陣とエジプトの陣の間へ入り込み、イスラエルの陣を守る役割を果たしました。
このようにも記されます。
「朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された」(14:24)。
神様御自身が、その雲の柱、火の柱の間から顔をのぞかせて、見守られるのです。このエジプト軍との戦いにおいてだけではありません。その後の長い旅路においても、ずっと道しるべとなるのです。
現在はカーナビという便利なものがありますが、この雲の柱、火の柱はカーナビ以上のナビゲーターです。ただ単にどちらに行くべきかというだけではなく、出発するべきか泊まるべきかも教えてくれました。カーナビはそういうわけにはいきません。
出エジプト記の最後には、こう記されています。
「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである」(出エジプト40:34〜38)。
ここでは「柱」とは書いてありませんが、「雲」が、そして夜はその雲の間から「火」が導いてくれたというのです。
この雲の柱、火の柱は、目に見える神様の臨在のしるしでありました。この「目に見える神様の臨在のしるし」というのは、新約聖書においてイエス・キリストという形でより明らかになります。イエス・キリストがお生まれになる時に、天使がマリアの夫ヨセフにあらわれて、「その子はインマヌエルと呼ばれるであろう」と告げましたが、このインマヌエルとは、「神は我々と共におられる」ということに他なりませんでした(マタイ1:23)。神様は、イエス・キリストによって、その臨在をはっきりと目に見える形でお示しくださったのでした。そしてその同じマタイ福音書の一番最後のところには、「見よ、わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」というイエス・キリストの約束の言葉が記されています(マタイ28:29)。この約束は聖霊によって実現され、それは今日にいたるまで続いているのです。
雲の柱、火の柱として、目に見える形で、その臨在をお示しくださった神様は、それをイエス・キリストによってより確かなものとし、さらに聖霊によって、今も私たちと共にいてくださるのです。
今日は、経堂緑岡教会の創立73年の記念礼拝をまもっています。神様はこの73年の間も雲の柱、火の柱をもって、この教会を導いてくださった、イエス・キリストの聖霊が守り導いてくださったということを改めて思い起こしたいと思います。教会が創立記念日を覚えるというのは、私たちが誕生日を覚えるのと似ています。過去を振り返って、その間に与えられてきた神様の恵み、導きを感謝するのです。
私は昨日『経堂緑岡教会50年史』をひもといておりまして、この教会のこれまでの歩みが必ずしも順風の時代ばかりではなかったということを改めて知らされました。特に、戦時中、高橋豊吉牧師の時代に、この教会もやはり厳しい時代をくぐり抜けて来たことが記されておりました。昭和18年のところに、こういう記述があります。
「年末の祈祷会は牧師と、教会員1名。他に他教会の方が官憲によるホーリネス教会の弾圧を声をひそめて語り、身をよじって祈った。1年半前の6月26日の早朝に起こった、このホーリネスに対する弾圧は、日本共産党を対象として作られた治安維持法を適用し、日本全国にわたって百数十名のキリスト教伝道者の突然の検挙がなされた。多くの方が、獄死、又は出所後病死された。また、日本基督教団に合同した旧日本聖教会、きよめ教会にも解散命令が下った。セブンスデー・アドベンチストの人たちも検挙された。こうして信教の自由がおびやかされ続けた」(『経堂緑岡教会50年史』p.94)。
教会員で直接の逮捕というようなことはなかったようですが、当然そのような時代の空気はこの教会をも覆っていたであろうと思います。教会に集う人は、「どうして神様はこういうことをなさるのか」と思ったことでありましょう。信仰のゆえに迫害を受けた人々は、「神様は自分たちを苦しめるためにここに導かれたのか」と思ったかも知れません。しかしながら、神様は最初に申し上げましたように逃れの道を備えてくださって、将来へと希望をつないでくださったことと思います。そして後の時代になって、それも教会にとって必要なことであったと、振り返ることが許されたのではないかと思います。
今日はまた、4月召天者を覚える祈りをいたしますが、先ほどの高橋豊吉牧師も4月召天者のお一人であります。1943年4月10日に、静岡教会からこの教会に転任して来られまして、その約30年後の1972年4月29日に召天されました。「天に召されるまで30年間、一貫して十字架の義と愛を説いてやまなかった」と『50年史』に記されております。
先ほど、ヘブライ人への手紙12章の最初の部分を読んでいただきました。
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」(ヘブライ12:1〜2)。
イエス・キリストが私たちの信仰の創始者であり、完成者でもある。あの雲の柱、火の柱が前からも後ろからも、イスラエルの民を取り囲んでいましたように、イエス・キリストが前からも後ろからも私たちの信仰を支え、守り導いてくださっているのです。更にイエス・キリストに支えられているだけではなくて、ここに記されているように、私たちは多くの証人に取り囲まれています。口語訳聖書では「わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれている」と訳されていました。私たちの信仰の先達は4月に亡くなられた方だけでも27人おられます。その雲のような証人たちは、あの雲の柱がイスラエルの導きであったように、私たちの信仰の道しるべでもあります。
創立記念日に当たって、改めてこれまでの導きを感謝しながら、これからも雲の柱火の柱、そして聖霊の導きがあることを信じて、新しい一回りを歩み始めましょう。