神が道をひらかれる

〜出エジプト記講解説教(17)〜
出エジプト記14章15〜25節
ローマの信徒への手紙6章1〜4節
2003年5月4日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)旧約最大の奇跡

 先週私たちは、「雲の柱、火の柱が、エジプトを脱出したイスラエルの民を導き、それを守られた」という記事を読みました。今日の箇所でも、その雲の柱、火の柱が出てまいります。今日の物語は、「追いかけてくるエジプト軍に迫られる中、神がイスラエルの民のために、海を二つにひらいて道をつくり、そこを通らせ、その後その水を元に戻すことによって、エジプト軍を海に投げ込まれた」という奇跡物語であります。
 これは恐らく旧約聖書に記されている中の最大の奇跡として、イスラエルの人々の記憶に留まり、彼らを支え続けた物語であります。例の「十戒」の映画においても、この海が二つに分かれるシーンは、今ならCG(コンピューターグラフィック)で簡単にやってしまうのでしょうが、1956年の映画としては、最大の特撮シーン、見せ場でありました。
 今日は14章の後半の方をお読みいただきましたが、少し最初から物語を追ってみたいと思います。最初の4節までのところには、神がモーセを通じて、海の手前で宿営するように命じられたことが記されております。
 5〜9節はいわば第二場ですが、エジプトのファラオ側に目を転じます。ファラオは奴隷たちを去らせてしまったことを後悔して、それを追いかける決断をします。ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍隊を率い、えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車を動員し、それぞれに士官を乗り込ませました(6節)。そしてエジプト軍は、この海の手前に宿営しているイスラエルの一行に追いつきます。
 10節のところで、視点が再びエジプト側からイスラエル側に変わります。

「ファラオはすでに間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に襲いかかろうとしていた」

そして彼らは神に向かって、(直接的にはモーセに向かって)こう叫ぶのです。

「我々を連れだしたのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」(11〜12節)。

(2)神と人の間に立って

 モーセは、民に対してこう言いました。

「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」
(13〜14節)。

 この言葉は真実です。モーセは(広義における)預言者としての職務をよく果たしていると思います。しかしモーセは、ここで再びジレンマ、板挟みの中に置かれているのです。モーセは、一方でイスラエルの民に向かっては、先ほどのように答えながら、もう一方で神に向かっては、かのイスラエルの民の言葉に自分自身を重ね合わせて、神に訴えたのでしょう。神様はモーセに向かって「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか」(15節)と言われました。
 このことは指導者の微妙な心の揺れを示しています。モーセは人前では決して弱さを見せません。見せてはならないのです。彼がうろたえると、民全体が動揺してしまいます。ところが、実は当の彼自身、弱さを抱え続けているのです。それはあの召命の時以来、ずっとそうでありました。モーセは神の言葉を預かり、それを語りながら、自分自身、自分が語る言葉を信頼しきれないでいる。言葉そのものは、モーセの弱さを超えて真実なのですが、その約束が一体どのようにして実現するのか、語っている者自身が受けとめ切れていない。これは今日の説教者も同じではないかと思います。私などは「モーセでもそうであったのか」と、ちょっと安心したりいたします。
 語っている言葉そのものは、説教者の疑いや不信仰を超えていきます(もちろん伝わらないこともありますが)。神ご自身がそこで語られるからです。ですから説教者自身が、自分が語っている言葉そのものに慰められ、励まされるということもしばしば起こります。
 モーセも自分が語っている言葉そのものが、自分に向かって語られる神の言葉であることを経験したのではないでしょうか。「恐れるな。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。……あなたたちは静かにしていなさい」。これはモーセが民に向かって語った言葉ですが、モーセ自身、この言葉に慰めと励ましを受けたことでしょう。

(3)海が二つにひらく

 そこから先は、先ほど読んでいただいた部分です。神がモーセに言葉を告げられた後、一連の不思議なことが始まりました。最初に、これまでイスラエルの一行の先頭を進んでいた「神の御使い」が移動して、彼らの後ろにまわりました。そして彼らの前にあった雲の柱も同時に、後ろにまわりました。つまり、この雲の柱がエジプト軍の前に立ちはだかり、彼らに足止めをさせ、その間にイスラエルの一行が次の行動に移ることができる猶予を与える働きをしたのです。「真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった」(20節)
 そしていよいよ大いなる出来事が起こります。

「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった」
(21〜22節)。

 ここで、神の力は奇跡として、超自然現象として、人々の目の前にあらわれました。これは過越の直後のことですから、満月の直後ということになります。潮の満ち引きと何らかの関係があったのかも知れません。
 神様は火と雲の柱から、その光景をご覧になっています。そしてエジプト軍をかき乱すのです。さらに戦車の車輪をはずして、進みにくくさせてしまいます。エジプト軍は、「もうお手上げだ。撤退しよう」と言うのですが、その瞬間に神様の指示に従ってモーセが手を高く挙げると、水がエジプト軍の上に押し寄せ、あっという間に彼らを飲み込んでしまいました。ファラオの全軍は滅んでしまいました。
 この時にファラオ自身がどうなったかは記されていません。この戦いで死んだとは書いてありませんし、エジプトの王ファラオの記録を調べても、この出来事によって死んだファラオというのはいないようです。恐らくファラオはここまでは追いかけてこなかったのでしょう。恐れを感じて、部下だけを行かせたのかも知れませんし、逆に、そこまで奴隷を追いかけては王の沽券にかかわると思ったのかも知れません。

(4)ポロロッカ

 テレビ放映50周年記念ということで、NHKがアルカイーブズという過去の歴史的番組を再放送していますが、先週の火曜日4月27日には、1978年にNHKの取材班が、ブラジルのポロロッカという現象を世界で初めて撮影に成功した番組を再放送していました。ポロロッカというのは、アマゾン川の河口において海の水が川を逆流する現象です。やはり潮の満ち引きと関係があって、年に一度でしたか二度でしたか、そういう奇怪な現象が起きるのです。それは海の水が、10数キロもある川幅全体に広がる大きな波となって、延々と何十キロも川を遡ってくる現象であります。波の高さも数メートルもあるようです。確かにそれは薄気味悪い光景でした。このポロロッカを最初に撮影しようとしたヨーロッパのテレビ取材班は、全員その波に飲み込まれて、死んでしまったということでした。私は、それを見ながら自然のもつ力の迫力と、エジプト人が海に飲み込まれてしまったという物語を思い起こしました。

(5)神にできないことはない

 物語は大体以上のとおりでありますが、この物語のもつ意味について、少し考えてみましょう。この出来事は、先ほど申し上げましたように、文字通りイスラエル史上最大の奇跡であり、またイスラエルの民の間においても、そのようにして語り伝えられてきました。詩編に何度も何度もこのことがうたわれていますし、早速この直後の第15章にも、モーセのお姉さんミリアムが歌ったと伝えられる「海の歌」というのが出てきます。今日のこの出来事を通して、神様の栄光をたたえた歌です。
 海でイスラエルを救った神の奇跡的な働きは、神がその民を神の民として存在させた出来事として記憶され続けることになります。さまざまな伝承があるのですが、そこに共通していることは、「これは偶然起こったのではない、神の介入によって起こったものだ、それ以外ではない」、ということです。
 八方ふさがり、文字通り四面楚歌の状況において、神ご自身が突破口を開いてくださる。道をつけてくださった。何の希望もなかった時、もはや絶望しかない時に、逃れの道を備えてくださったのは、この神に他ならなかった。そのように神をほめたたえ続けました。
 少し別の見方をすれば、神様がその権能をあらわすために、普通に考えられるありとあらゆる逃げ道を閉ざされた。そして神様御自身の手で、再びその道をあけられたということになるでしょう。宗教改革者のカルヴァンは、そのことを強調しています。それは神自身が働かれたということが、みんなにわかるために、あえてそうなさったのだということです。
 神様は時々そういうことをされます。あの不妊の女と呼ばれたサラがイサクをみごもった時もそうでした。サラはすでに90歳でした。その約束を聞いたとき、サラはひそかに笑ったのです(創世記18:12)。夫のアブラハムも心の中で笑ったのです(創世記17:17)。そんなことが起きるものか。しかし主はこう答えられました。

「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずはないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか」
(創世記18:13)。

神は、「主に不可能なことがあろうか」と言われます。人間的可能性がすべて閉じてしまったところで、神様の可能性が開くのです。
 マリアがイエス・キリストを身ごもった時もそうでした。同じように不妊の女とよばれていた叔母のエリサベトが身ごもったことを指して、「神にできないことはない」(ルカ1:38)と、天使が告げました。あのカナの婚礼におけるぶどう酒の奇跡においてもそうでした(ヨハネ2:1〜11)。もう人間の力ではどうしようもないというところまで引き延ばされて、そこで神の可能性が開くことを示されたのでした。

(6)新約聖書において

 さて先ほど、ローマの信徒への手紙6章の言葉をあわせて読んでいただきました。それは、新約聖書の著者たちがこの海の奇跡物語をどう見ていたのかを思い起こしていただくためであります。中でもパウロは、そこに、ある種のバプテスマを見いだしておりました。

「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に預かるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」
(ローマ6:3〜4)。

 水につかることによって古い自分に死ぬ。そしてその中から新しい命をいただいてあらわれてくる。その恵みの事実を、新約聖書の著者たちは、この出エジプトの海の奇跡の出来事と重ね合わせました。水は裁きを示すものであり、洗礼はその裁きから逃れの道を提供するものとして理解されました。そしてこれを私たち一人一人の中で起きる奇跡として受けとめたのです。つまりその場合、敵というのは、私たちの魂を攻略しようとして襲ってくるむさぼりやおごり、怒りなどのすべての罪です。その敵をバプテスマの水に溺れさせて、新しい道をひらかれたということに他なりません。
 過去と現在、古い時代と新しい時代との間に、はっきりとした断絶があるのだということ、そしてそこから新しいものが生まれてくるのだということ、さらに洗礼によって私たちが新しく与えられる命というものは、あの出エジプトの出来事にたとえられる程に、こちら側からは理解不可能な次元の奇跡なのだ、それはただただ、神の力によってのみあらわれてくるのだ、と言おうとしているのです。

(7)倒れないように

 私たち一人一人の歩みにおいても、教会の歩みにおいても、私たちは、今なお葦の海(紅海)とその手前の砂漠を生きていると言えるかも知れません。さまざまな試練が私たちを襲ってまいります。そこでもう可能性が閉じてしまったように思えることもしばしばあります。そうした中にあって、先ほど招詞で読んでいただいた言葉が響いてくるのです。

「だから立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられなかったようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなく、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」
(コリント一10:12〜13)。

この言葉を信じて、私たちも前に向かって進んでいきましょう。

われらを導く あがないの主よ
力強い手で 旅路を守り
そなえてください 天の糧
命のパンを

泉を開いて 渇きを癒し
炎と雲との 柱を立てて
行かせてください 世の旅路
主よ、わが盾よ

ヨルダンの流れを 渡るわれらの
死の恐れ砕き 導く神よ
ほめ歌歌おう 声高く
約束の地で
(『讃美歌21』467)