〜出エジプト記講解説教(18)〜
出エジプト記15章1〜21節
マルコによる福音書4章35〜41節
2003年5月18日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之
私たちは前回、出エジプト記14章の「モーセとその一行がエジプト軍に追いかけられ、追いつめられる中、神様が海を二つに分けて道をひらき、そこを通らせてくださった。その後、エジプト軍はその海の中に投げ込まれてしまった」という物語をご一緒に読みました。今日の15章は、その出来事の直後、「モーセとイスラエルの民が、主なる神様を賛美して歌った」という歌であります。
この15章をよく読んでみますと、二つの歌が記されていることが分かります。ひとつは1節から18節までの長い歌であり、もうひとつは21節だけの小さな歌です。こちらは、モーセとアロンの姉であったミリアムが歌ったとされています。
ミリアムの歌の方は、こういう言葉です。
「主に向かって歌え。
主は大いなる威光を現し
馬と乗り手を海に投げ込まれた。」(21節)
この歌は短いので、つい読み過ごしてしまいがちでありますが、これはとても大きな意義を持っています。
というのは、第一にこちらの小さな賛歌の方が前半の長い賛歌の原型であったとみられるからです。このミリアムの歌が後代に徐々に整えられていき、恐らくサムエルの時代に、それからダビデ、ソロモンの時代に大いなる賛歌に仕上げられていったのであろうと言われます。この21節と1節とを比べてみますとほぼ同じであり、最初の行だけが違っています。21節の方では、「主に向かって歌え」でありますが、1節では「主に向かってわたしは歌おう」となっています。それに続く言葉、「主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた」というのは全く同じです。前半の長い歌は、いわばこの歌を主題とする変奏曲のようになっております。
もう一つ21節の小さな歌の重要な点は、この歌が、旧約聖書中、最古の賛歌の一つであることです。旧約聖書には、特に詩編の中には多くの賛美の歌が記されていますが、この歌はその基本形を示しています。まず複数の人々に対する賛美の呼びかけで始まり、それに続けてその根拠であり、同時に賛美の内容である神様の行為が語られるのです。例えば有名な詩編98編の冒頭も同じ形式です。
「新しい歌を主に向かって歌え。
主は驚くべき御業を成し遂げられた。
右の御手、聖なる御腕によって
主は救いの御業を果たされた」。
そうした詩編の原型が、すでにこのミリアムの歌の中に記されているということです。
ミリアムについては、後でもう一度述べることにいたしまして、まず前半の長い賛歌を見てまいりましょう。この歌は先ほど「主題と変奏」という言葉を使いましたが、神様の威光をたたえる言葉と、その具体的な業が交互に出てまいります。それは必ずしも時間的順序を追うような形ではありません。4節で
「主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み
えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。
深淵が彼らを覆い
彼らは深い底に石のように沈んだ」
と歌い、一旦完結したかのように見えます。しかしそこからまた新たに始まるのです。
「主よ、あなたの右の手は力によって輝く。
主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。
あなたは大いなる威光をもって敵を滅ぼし
怒りを放って、彼らをわらのように焼き尽くす。
憤りの風によって、水はせき止められ
流れはあたかも壁のように立ち上がり
大水は海の中で固まった。」
(6〜8節)
同じ物語がより詳しく、よりリアルに語られるのです。その後また神様の力をたたえる言葉が繰り返されます。
「主よ、神々の中に
あなたのような方が誰かあるでしょうか。
誰が、あなたのように聖において輝き
ほむべき御業によって畏れられ
くすしき御業を行う方があるでしょうか。」(11節)
そして再び御業の内容です。
「あなたが右の手を伸べられると
大地は彼らを呑み込んだ。」(12節)
ただし13節以降は少し違います。話が将来へと展開していきます。
「あなたは慈しみをもって贖われた民を導き
御力をもって聖なる住まいに伴われた。」
彼らはまだエジプトを出たばかりです。しかし「聖なる住まいに導かれた」ということまで述べている。これは40年の荒れ野の旅の後やがて約束の地に入れられたということでしょう。それはその先を読むと、よりはっきりいたします。
「諸国の民はこれを聞いて震え
苦しみがペリシテの住民をとらえた。
そのときエドムの首長はおののき
モアブの力ある者はわななきにとらえられ
カナンの住民はすべて気を失った。」(14〜15節)
この人々に、彼らはまだ出会っていません。これから約束の地に入るまでに起こることですが、それが過去形で記されている。
「恐怖とおののきが彼らを襲い
御腕の力の前に石のように黙した。
主よ、あなたの民が通り過ぎ
あなたの買い取られた民が通り過ぎるまで。」(16節)
これもこれからの道のりのことです。
海の奇跡の直後に、約束の地に入るまでのことが過去形で歌われているのは、考えてみればおかしなことであります。しかし先ほど申し上げましたように、これは後に、それもダビデ・ソロモンの時代に仕上げられた歌がここに入れられたためであると、そういう説明をすることができるでしょう。(昔の人たちは、創世記から申命記まではモーセが書いたと理解していましたので、昔の注解者は、いやこれは「預言者的に」将来について述べているのだと理解しました。)しかしながら後の時代にこの歌が挿入されたのであるにしても、最終的にこの歌をここに入れた編集者がいるわけで、その人がこの矛盾に気づかなかったはずはないでしょう。それを承知の上で、ここに入れたと思うのです。
しかし私はそのことは何かかえって聖書らしいなと思いました。つまり聖書というのは、神様の働かれる現実を証ししている書物ですが、それは平気で時間を飛び越えるのです。過去の特定の歴史状況について述べながら、その力がその後も働いたし、今も働いていることを語る。現在と過去を、そして時に将来まで自由に行ったり来たりするのです。それが聖書という書物の一つの特徴ではないかと思います。
説教というのもそういう面があります。過去の物語を紹介しながら、それが決して過去のものではないことを語るのです。この過去の物語と同じ力が今、私たちのもとに働いている。神様は今も生きて働いておられる方で、ここに書かれているのと同じことを今、私たちの間でもなされるのだということを確認するのです。
さてその長い賛歌の後こう記されます。「アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。ミリアムは彼らの音頭を取って歌った」(20節)。
このミリアムという人は、モーセの実の母親が赤ちゃんモーセを葦で作ったゆりかごに入れて、ナイル川に流した時に、ずっと様子を伺いながら、その後を追っていたお姉さんとのことでしょう。彼女は、エジプトの王女がこのモーセを拾い上げた瞬間、すかさず王女の前に現れ、「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか」と申し出、実の母を紹介いたしました。とても機転の利く少女だったのでしょう。その少女が、ここでいわば女預言者となって登場したのです。
これも非常に興味深い記述です。それは、一つには女の預言者がいたということです。この後も聖書の中には何人か女預言者と呼ばれる人が出てきます(列王記下22:14のフルダ、エヘミヤ記6:14のノアドヤ)が、時代が下るに連れて預言者というのは男の職務になっていきます。それはイスラエルが(そしてこの世界全体が)父権制社会であったことと関係があるでしょう。しかしこの記述は、古い古い時代には女性で神の民をリードする人がいたという事実を掘り起こし、それに光を当ててくれます。
もう一つ興味深いのは、ただし預言者とは言っても、いわゆる私たちのよく知っているような意味で、サムエルに始まって、イザヤやエレミヤと言ったような人の場合とちょっと違うぞということです。必ずしも神様の言葉を人々に取り次ぐといったことをしていません。小太鼓を叩きながら、みんなの先頭に立って踊った。歌をリードしたということです。このことを積極的にとらえるならば、こういう形で神と人の間に立つ役割もあるということです。彼女はいわば男の預言者とはちがった形で、神と人の間に立った、ということができるのではないでしょうか。
この3月、一色義子先生が『エバからマリアまで〜聖書の歴史を担った女性たち』というすてきな本を出版されました。非常におもしろいものであり、それでいて優れた研究に基づいた書物です。この本の中でも、「ミリアム」が取り上げられ、ミリアムの章には「新しいタイプのリーダー」という題がつけられています。ミリアムにヒントを得ながら、新しいタイプの女性ならではのリーダーシップについて丁寧に述べておられます。ミリアムについて考えるということはおもしろいですね。その後の時代に封じ込められてしまった女預言者の役割、つまり過去のものに光を当てながら、それが同時に将来の何かしらを指し示すことになるのです。先ほど、聖書というのは過去に光を当てながら、それが現在と将来を行ったり来たりすると申し上げましたが、それがまさに、このミリアムにも当てはまると思います。ミリアムについて考えることは、私たちの教会の将来、教会だけではなくて歴史が歩むべき道に終末論的に光が当てられているのではないかと思いました。
それから一色先生もご指摘しておられますが、このミリアムという名前は新約聖書でたくさん登場するマリアという名前の由来であります。
先ほど前半の歌の最後を読みませんでしたが、それは次のように締めくくられます。
「あなたは彼らを導き
嗣業の山に植えられる。
主よ、それはあなたの住まいとして
自ら造られた所
主よ、御手によって建てられた聖所です。
主は代々限りなく統べ治められる。」(17〜18節)
このことは約束の地にやがて入れられるということを、すでに視野に入れていると同時に、歴史のもっとずっと先、ある意味で歴史の終わりに至るまでのことを視野に入れております。
私はこの言葉がいかにして実現するかを、イエス・キリストがこの世界に来られたということの中に重ね合わせてみることができるのではないかと思いました。
先ほどマルコによる福音書の記事を読んでいただきました(4:35〜41)。ここに記されていますのは、ガリラヤ湖で嵐に出会った弟子たちとイエス様のお話です。弟子たちが舟を漕ぎだして沖に行ったところで激しい突風が起こって舟は波をかぶり、水浸しになってしまった。ところがイエス様は舟の艫の方で枕をして、そんなこと何も関係ないかのごとくに眠っておられた。弟子たちはイエス様に向かって、「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えます。するとイエス様はすっと立ち上がって、風に向かって「黙れ。静まれ」と言うと、風も波も静まってしまったというお話です。弟子たちは、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言いあいました。
私たちはこの出エジプトの物語を通して、神様が風をも海をも自由に支配される方であることを聞き、そしてその権能についての賛美の言葉を聞いてまいりました。その神様の力、自然をも自由に支配しながら神の民を守り、導かれる力というものは、イエス・キリストによって受け継がれているということができるのではないでしょうか。イエス・キリストこそは、風や海さえも従える力をもって、私たちを守ってくださるお方なのです。
そのことは私たちが今、どういう状況にあろうとも、その状況を超えて、そのような確かな将来を見据えることができるということなのだと思います。私たち自身は、今なおエジプト軍に追いつめられたイスラエルの人々のように、「もうだめだ。解決がつかない」と思わざるを得ないような状況に置かれるかも知れません。あるいは、この嵐の中の弟子たちのように、「いったいどうすればいいのか。もう溺れて死んでしまいそうだ」というような状況に置かれることがあるかも知れない。しかしながらそれを超えた方が私たちと共におられるということを知ることによって、その先に将来、未来が開けていると信じることが許されているのです。「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)とイエス様はおっしゃいました。
この後、「勝利をのぞみ」(We Shall Overcome!)という讃美歌をご一緒に歌います。1960年代、アメリカ合衆国ではまだまだ黒人差別の強かった時代に、マーティン・ルーサー・キングを中心とする人々が、公民権運動を展開しましたが、そのテーマソングのようにして歌われた曲です。厳しい現実を超えて、将来を仰ぎ見、「私たちはやがて、これに打ち勝つのだ」(We Shall Overcome!)という勝利の歌を歌ったのでした。私たちもイエス・キリストが共にいてくださることを信じて、神様をほめたたえて、前に進んでいきましょう。
勝利をのぞみ、勇んで進もう
大地ふみしめて。
ああ、その日を信じて われらは進もう
恐れをすてて 勇んで進もう
闇に満ちた今日も
ああ、その日を信じて われらは進もう
手をたずさえて 歩もう共に
勝利のときまで
ああ、その日を信じて われらは進もう
平和と自由 主はいつの日か
与えてくださる
ああ、その日を信じて われらは進もう
(『讃美歌21』471)