あなたをいやす主

〜出エジプト記講解説教(19)〜
出エジプト記15章22〜27節
マルコによる福音書1章29〜34節
2003年5月25日
経堂緑岡教会    牧師  松本 敏之


(1)キリストの昇天

 今週の木曜日は、イースターからちょうど40日目で、教会暦ではキリストの昇天日と定められています。使徒言行録1章3節に次のような言葉があります。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」。それから先ほど、招詞で読んでいただきました使徒言行録の1章9節。「こう話し終わると、イエスは彼らの見ているうちに天にあげられた」
 使徒言行録を書いたのはルカ福音書を書いたのと同じ人ですので、まあルカと言っていいでありましょう。このルカによりますと、イエス・キリストの最後の時は、十字架、復活、昇天、聖霊降臨、という風に時間的な流れがあります。ヨハネ福音書などは少し違っていて、復活イコール昇天、聖霊降臨という書き方ですが、ルカでは時間的な幅があるのです。復活の後そのまま昇天というのではなく、再び復活の体をもってこの地上にとどまり、40日後に天に昇られ、さらに10日経って聖霊降臨、ペンテコステの出来事が起こりました。
 昇天が一体どういう現象であったのか、私たちには想像できません。聖書の時代の人と違って、私たちは、空間的な意味で空の上に天国はない、ロケットを飛ばして宇宙の果てに行っても天国はないということを知っております。しかし科学の発達した今日でも、昇天ということの意味を考えることは大事なことであろうと思います。
 天というのはイエス・キリストのふるさとです。神様がおられる場所、神様が直接支配しておられる場所という風に言ってもいいかも知れません。私たちは、いつも主の祈りにおいて、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りますが、この祈りは、「みこころ」つまり「神様の意志」は天においてはすでに成就しているのだということを前提にしています。「天においてはすでに成就している神様の意志が、どうかこの地上においても成就しますように」、という祈りなのです。天がどこにあるのか私たちは知りません。しかし私たちはそういう国があるということを、聖書により告げられており、それを信じているのです。今日もこの後で、召天者記念の祈りをいたしますが、「誰かが死ぬ」ことをキリスト教では「天に召される」と呼ぶこと自体が、そうした天の国を仰ぎ見ていることのしるしでありましょう。

(2)昇天の意味

 キリストの昇天を心に留めるということには、一つにはそのような国があるのだ、キリストはそのふるさとである天へ帰っていかれたのだ、ということを覚えることでありましょう。私たちのために「場所を用意しに行かれた」「その場所があるということを確認しにいかれたのだ」と言ってもいいでしょう。
 もう一つ、昇天の大事な意味は、これが聖霊降臨の前提になっているということです。つまりイエス・キリストが肉体をもってこの地上を歩まれたということは、イエス・キリストが「私たちと共にある」ということのしるしでしたが、あくまでしるしでありました。肉体をもっておられたということは、時間と場所に限定されていたからです。それは2000年前のユダヤ地方の一角でありました。その後天に昇り、そして今度は時間と空間に限定されないで、つまり聖霊という形で、「私たちと共にいる」という約束を実現してくださったということができるでしょう。
 「キリストの昇天」というのは、この地上から姿を消してしまわれたという意味で、寂しい出来事のように思えますが、実はその約束を実現してくださる大事な一段階であったのです。

(3)荒れ野の旅路

 さて私たちは、出エジプトの物語を続けて読んできましたが、このような旧約聖書の古い物語を読む時にも、神様のそのような大きな歴史の一部を読んでいるのだということを、心に留めていただきたいと思います。出エジプトの物語は、ここから新しい部分に入ります。それは「荒れ野の旅路」という段階です。
 22節から読んでみます。

「モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。」(22〜23節)

 シュルの荒れ野というのは、聖書巻末の地図(2)によりますと、シナイ半島の北の方になっています。地域を特定するのはなかなか難しいようですが、いずれにしろエジプトの東国境づたいにある地域でありましょう。そちらの方角に向かって三日間、新たな水を得ることなく、歩きどおしであったということです。これは非常につらいことであったでしょう。食糧は少しの間であればなくても、人間の体はもちますが、水は絶対に欠かすことはできません。
 そこでようやく水のある場所にたどり着きました。(ここでマラにたどり着いたとありますが、それはこの故事をもとにして後でつけられた名前です。)「水があったぞ」と、みんな大喜びしたことでありましょう。ところがその喜びもつかの間、そこの水は苦くて飲めませんでした。この時の彼らの失望はどれほどのものであったか、想像に難くありません。水は旅人にとって命綱のようなものですから、がっかりするどころか、その命綱が急に絶たれたように思えたことでしょう。
 彼らはモーセに向かって「何を飲んだらいいのか」と不平を言いました(24節)。ここでもモーセはイスラエルの民の訴えをそのまま神様に伝えます。イスラエルの民があれほど大きな神様の奇跡を目の当たりにし、モーセやミリアムと共に、神様の栄光をほめたたえる歌を歌いながら、たった三日で不信仰の中に逆戻りしてしまったことは不思議な気もいたしますが、それほど彼らの失望が大きかったということもできるでありましょう。
 この箇所は、40年におよぶ荒れ野の旅路の序章のような感じがいたします。実際この40年の旅は、ある見方からすれば、イスラエルの民の不平の40年であったとも言えるほどです。この次の16章で述べられることも、食べ物をめぐって、イスラエルの人々が文句を言うことから始まっております。「神様のあれほど大きな業と恵みも彼らに伝われなかったのか」と不思議に思うどころか、情けなく見えるほどです。
 しかし考えてみますと、私たちの信仰もそれほど変わらないのかも知れません。一時は非常に燃えて「もうどんなことがあってもこの信仰は変わらない」と、自他共に思っていても、あっという間に冷めてしまうこともあります。受けた恵みの方を忘れて、あるいは棚上げにして、すぐに不平を言い始めるのです。それだけに私たちもいつも恵みの原点を忘れず、いつもそこに立ち返るようにしていかなければならないでありましょう。

(4)数えよ、主の恵み

 私たちが礼拝で使っている『讃美歌』や『讃美歌21』の他に、福音派の教会でよく使われるものに『聖歌』というのがありますが、その中に「のぞみも消えゆくまでに」(604番)という私の好きな讃美歌があります。
英語の原題は、Count Your Blessings というのですが、ブラジルでもプロテスタント教会でよく歌われる歌です。

「のぞみも消えゆくまでに
 世の嵐に悩むとき
 数えてみよ主の恵み
 なが心は安きを得ん

*数えよ主のめぐみ
 数えてみよ主の恵み
 数えよひとつずつ
 数えてみよ主のめぐみ」

 私たちはどちらかと言うと、自分の身に起こった不幸の方を数えたがるものです。「私はこんな不幸な生い立ちをしている。それに自分はこんな病気を抱えている。さらにこともあろうに、こんなに不幸な結婚をしてしまった。自分ほど不幸な人間はあるだろうか。」そういう風に自分の不幸を数えるのです。そして自分を悲劇の主人公のように思ってしまう。そのように考え始めると、何でもないことまで不幸のひとつにしてしまいがちなのではないでしょうか。
 この讃美歌は、そうではなく「自分に与えられた恵みの方を数えよ」というのです。「のぞみが消えゆくまでに、世の嵐に悩むとき」、つまり「もうどんな希望も消えうせていくように思えるほど、この世の嵐に悩まされるとき」です。もうどこにも恵みを見出せないような状況の中にある時にこそ、恵みを数えよ、というのです。
 昔『少女パレアナ』という女の子向きの小説を読んだことがあります。パレアナは本当にかわいそうな境遇にあります。これでもかこれでもかと言うほど、次々と彼女を悩ませ苦しませる出来事が起きるのです。でもそうした中で、パレアナが何をしたかと言いますと、その日自分にあったいいことを数えるゲームをするのです。「今日はこんないいことがあった。あんないいことがあった」と数える。そしてつらいことは数えないのです。
 この讃美歌も、幸せに満ち溢れた生活、誰もがうらやむような生活の中にあるから恵みを数えよ、と言うのではありません。もちろんそういう時にも恵みを数えるのは大事なことなのですが、案外そういう時、私たちは恵みを恵みと感じず、当たり前のように思ってしまうものです。そのような私たちであるからこそ、神様は時に、「私たちが本当は神様の恵みによって生かされているのだ」ということを悟らせるために、試練をお与えになるのでしょう。

(5)甘い水

 さて人々の不平は、ここでもモーセに向けられ、モーセはそれを神に訴えました。そうすると、神様はモーセに一本の木を示されました。モーセがその木を水に投げ込むと、水は甘くなりました。「甘くなった」というのは、砂糖水になったということではありません。英語でも Sweet Water というのは、砂糖水ではないですね。ポルトガル語でもそうです (Agua Doce)。硬水ではなくて軟水、飲める水、おいしい水ということです。
 神様はこの時、イスラエルの人々の訴えを即座に聞いてくださいました。この後の荒れ野の旅路においては、必ずしもそうではありません。時に、そのような不平を言ったということで、神様が怒り、罰を与えられるという話も出てまいります。しかし旅のはじめに、すぐに応えてくださったという話があることは、一体神様がどういう方であるかということを象徴的にあらわしているように思いました。聖書の神様は私たちの悩みを無視するのではなく、その悩みにこたえてくださる方なのです。

(6)聖書の幸福論

 このところで、神様はいわばその奇跡に続いて、モーセに掟と法を与えられ、次のように続けます。

「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人にくだした病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である」(26〜27節)。

 神様の御心に即した歩みをするならば、幸いを得るであろう、ということです。ここに人生の大きな指針が与えられていると思います。あるいは聖書の幸福論がここに記されていると言ってもいいかも知れません。幸せはどこにあるか、それは神と共に歩むことだというのです。聖書にあらわされた神様は、根本的なところで、私たちを裁き、滅ぼす主ではなく、私たちをいやし、生かす主なのです。神様自身からモーセを通して、私たちに与えられている大きな約束の言葉、慰めの言葉であります。
 そしてこのマラの後、エリムという場所に着くと、そこには12の泉と70本のなつめやしが茂っていました。大きな恵みが待っていたのです。そのところで彼らはしばらく滞在することになりました。

(7)いやし主キリスト

 今日読んでいただいたマルコ福音書1章29節以下は、イエス・キリストがいやし主としてこの世に来られた方であるということをよくあらわしていると思います。最初にシモン・ペトロのしゅうとめの熱病をいやされ、その後さまざまな病気や問題を抱えた人々が次々とイエス・キリストを訪ねてきます。主イエスはその人々を十把一絡げではなく、一人ずつ受けとめ、その病をいやし、問題を解決していってくださいました。それこそ私たちと同じ肉体をもってこの世に来てくださったイエス・キリストは、自分の命をすり減らすようにして、その一人一人の問題を丁寧に受けとめてくださいました。
 ある時は少女の瀕死の病をいやすため、その子の家に向かうのですが、その途上でまた、別の女性のために立ち止まるのです。それは12年間、出血の止まらない女性でした。その女性がいやされると、休む間もなく、その少女のもとに赴かれました(マルコ5:21〜43)。その姿はあたかもあの一匹の迷子の羊を探し求める羊飼いのようです(ルカ15:4〜6)。それが私たちの主イエス・キリストであります。
 イエス・キリストはこの後、十字架にかけられて死なれます。そして復活された後に天へ昇られ、今度は私たちのために聖霊という形で、この地上へ帰ってこられました。それによって時間と空間を超えて、いつでもどこでも私たちと共にいてくださるようになりました。
 昇天日を間近に控えたこの日曜日、新しくその恵みを思い起こし、また私たちに与えられた恵みを数える日々を送りましょう。