天からの糧

〜出エジプト記講解説教(20)〜
出エジプト記16章13〜27節
マタイによる福音書6章11節
2003年7月13日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)不平を聞かれた神

 本日は、出エジプト記第16章から御言葉を聞いてまいりましょう。彼らはエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かいました。荒れ野に入りますと、イスラエルの人々は再びモーセとアロンに向かって不平を述べ立てます。

「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(3節)。

 話は、このようにイスラエルの民が不平を言うところから始まるのですが、神様は、このイスラエルの民の不平を聞きあげてくださいました。

「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める」(4節)。

 モーセは、民に向かって語ります。

「主は夕暮れに、あなたたちに肉を食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」(8節)。

 「我々は何者なのか」とは、「我々に一体その資格があるのか」とか「我々は人間に過ぎないではないか」という含みをもっています。

(2)うずらとマナ

 その後は、今読んでいただいたとおりですが、夕方になると、うずらがいっぱい飛んで来て、宿営を覆いました。これは「夕暮れには肉を食べさせてくださる」という約束がこのような形で実現したということでしょう。ちなみにこのうずらとマナの物語は、民数記11章にも出てきますが、そこでは少し違った書き方がなされています。神様は「そんなに肉を食べたいのならば、食べさせてやる」という具合にうずらの大群を送るのです。彼らは、うずらの肉をいやという程食べるのですが、その後ひどい食中毒にかかって何人も死ぬことになります(民数記11:31〜34)。
 この出エジプト記の方は、そういう不信仰についての裁きということではありません。不平として述べたことまでも、神様は聞きあげてくださったという記述です。朝になると宿営の周りに露が降りていました。この露が蒸発すると、何か地面の上に薄くて壊れやすいものが、すうっと大地の霜のように薄く残っていました。イスラエルの人々は「これは一体何だろう」と言いました。彼らには見たことも食べたこともないものでした。「これは一体何だろう」というのが「マナ」という言葉の語源です。モーセは彼らに言いました。

「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人あたり1オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい』」(15〜16節)。

(3)神が与えた糧

 このマナというのが、どういう食べ物であったのか、また実際には何であったのか、よくわかりません。31節には、「それはコエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした」とあります。それはまた翌朝までとっておくことはできないものでした。先ほどの民数記11章の方では、こう記されています。

「マナはコエンドロの種のようで、一見、琥珀の類のようであった。民は歩き回って拾い集め、臼で粉にひくか、鉢ですりつぶし、鍋で煮て、菓子にした。それは、こくのあるクリームのような味であった」(民数記11:7〜8)。

 おいしそうですね。食べてみたくなります。この二つの記述でも微妙に違いますが、それがかえってリアルな感じがします。味の感じ方というのは一人一人違いますし、料理の仕方、食べ方というのも違うものです。
 このマナが実際に何であったのかを解明しようとする試みもあります。タマリスクという木の樹液から一種の黄白色のフレークまたは玉ができるそうです。あるいは別の説明によれば、ある種のあぶら虫が木の実に穴をあけ、このジュースからある物質を排泄する。それは日中の暖かいときには溶けるけれども、寒くなると固まる。味は甘い。土地の人はそれを料理してお菓子のようにして食べる。とても腐りやすいし、蟻がつきやすい。そういうものが実際にあるようです。こうしたものと、マナについての聖書の伝承は、恐らく何らかの関係があるのでしょう。
 しかしここで大事なことは、この不思議な食べ物は、神様ご自身が彼らのために備えられた天からの糧であったということです。それか聖書が語ろうとしていることなのです。みんなその日一日分だけ取ることが許された。欲張って翌日の分まで取ったら、虫がついて臭くなってしまった、あるいは日が高くなると溶けてしまったということです。おもしろいことに、ある人は多く集め、ある人は少なくしか集められませんでしたが、量りで量ってみると、みんな必要な分がぴったり与えられたというのです。「よーし、今日はいっぱい取ってやるぞ」と言って、がんばってみても同じでした。その代わり病気か何かで少なくしか取れなくても、ちょうど必要な分は取れたということになるでしょう。つまり必要な分は神様が定められる。そしてその分は必ず神様が約束して与えてくださるということです。何かしらこの世の原理とは違う原理が働いているのです。これはひとつの奇跡です。

(4)六日目は二倍

 もうひとつおもしろいことがありました。それは六日目になると、普段の倍の量が取れたというのです。六日目は二倍働いたというのではありません。他の日と同じ働きをしているのに、どういうわけか収穫は二倍になっていた。それは七日目が安息日であるからだという風に説明してあります。他の日は翌日まで取っておくことはできないのに、この日に取った分だけは、煮たり焼いたりはしたかも知れませんが、翌日まで取っておくことができました。ここでもまた欲張りな人がいて、安息日であるにもかかわらず、マナがないかどうか見にいくのです。しかし何もありませんでした。
 そこで神様は再び登場します。

「あなたたちは、いつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。よくわきまえなさい、主が安息日を与えたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない」(28〜29節)。

 これは命令形で書いてありますが、裏返して言えば、「七日目は働かなくてもいいように、私はちゃんと考えているんだ」ということでしょう。ざっとそういう物語です。

(5)まず神の国と神の義を求めなさい

 さてここにはいろんなメッセージが含まれていると思いますが、一番大事なことは、やはり神様は私たちに必要な糧を、毎日与えて養ってくださるということでありましょう。私たちには、毎日の生活に対する不安があります。この時のイスラエルの民の訴えは、「エジプトでは肉鍋が食べられたのに」という、いわばわがままな不平でした。エジプトにいた時に、どんなに苦しい目にあったのかということは引き合いに出さずに、いいことばかり思い起こしています。私たちはつらい時というのは、どうもそういう傾向がありますね。あの時はあの時で大変であったのに、何かいいことばかり思い出して、「それに比べて今は何と大変なのだ」と不平を言うのです。
 このようなわがままでなくとも、この荒れ野の旅路にはさまざまな不安と困難が伴っていたに違いありません。何とか翌日まで取っておこうとする人がいたり、安息日にまで何か来ていないか見にいったり、というのは、確かに不信仰ではありますが、必ずしも貪欲とまでは言い切れないかも知れません。私たちだって明日のことは心配なのです。
 しかし神様は決してそのような不安、困難、悩みを放置されるお方ではないということを語っているのではないでしょうか。イエス・キリストは、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)と言われました。むしろ必要なことは、「何よりもまず神の国と神の義を求めること」、「そうすれば必要なものはみな添えて与えられる」と約束してくださいました。この言葉を語られた時、主イエスは、「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収めもしない。だがあなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」(マタイ6:26)と言われました。
 このところのマナの話もちょっとそういう面があります。働いて収穫を得たというのではないのです。いわば無償で与えられた。朝起きたら、そこにあったのです。もちろんそれを拾い上げることはしていますが、特に労働といえる程のものではありません。神様がこの食べ物を無償で与えてくださったということが主題でありましょう。
 私たちは、たとえ信仰をもっていても、誰しも将来への不安を持っているものです。自分はその日その日を神様に委ねるということでいいかも知れませんが、子どもに対してはそういうわけにはいかない、と思われる方もあるでしょう。確かにそうかも知れません。子どものために明日の備えをすることは、親の責任でしょう。私は、そのことと「明日のことを思い悩むな」ということは、必ずしも矛盾しないと思います。そういう責任を果たしながら、最後の最後のところでは、神様に任せていくより仕方がないものです。しかし逆に言うと、任せることが許されているのです。いや最後のところを任せるのではなく、むしろまず最初に神様に任せて、その大きな御手の中で、自分のなすべきことをなしていくのではないでしょうか。それが本来的な生き方なのです。「まず神の国と神の義を求めなさい」というのは、明日のために何もしないでいいということではないでしょう。日々の事柄に追われている生活の中で、一体何を優先すべきか、まず何をなすべきかということが問われているのです。それを考え、実践する中で、かえって心がゆるめられ、思い悩むことなく自由な形で、次になすべきことが見えてくるのではないかと思います。

(6)恵みの契約

 ここから学ぶべき第二のことは、人間の不信仰によっても、神様の恵みの契約は損なわれなかった、神様の恵みの態度は変わらなかったということです。
 私は、ノアの箱舟の話を思い起こします。洪水の物語です。あの洪水の後で、神様は何と言われたかご存知でしょうか。こう言われるのです。

「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは二度とすまい』」(創世記8:21)。

 洪水の後、人は何も変わらなかったかも知れないけれども、神様の中で何かが変わったのです。それは「人が悪いという理由で、今回のようなことは二度とすまい」と、神様が決意されたということでした。これは大変なことを語っています。神様と私たちの関係というのは、対等ではありません。普通、私たちの契約というのは、対等な関係の上に成り立っています。ですから双方がなすべきことを守って初めて成り立つのが契約です。しかし神様と私たちの契約もそのようなものであるならば、いつも人間の方が契約不履行ということで、破綻してしまうわけです。そのことを神様が悟ったというのです。だから人間がどんなに不信仰で不平を述べ立てたとしても、それによって、恵みの態度を変えることをしない、ということです。むしろ神様の方からいつもその関係を修復する道をつけていかれる。ですから私は、神様のそうした決意の果てに、イエス・キリストの姿が浮かんでくるような気がいたします。

(7)試練を通して幸福へ

 ただしそれは人間がそのままでよいということではありません。三つ目に申し上げたいことは、その不信仰を修復するために、神様は試練を通して、悔い改めの機会を与えられるということです。今日のところでも、「わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す」(5節)とあります。ただ何のために試されるのか。それによって、後でもっとひどい裁きをなすためなのか。私はそうではないと思うのです。むしろそのことによって、本当に彼らを養っているのが誰であるかということに気づいて欲しい、必要かつ十分な糧を与えることで、まことの養い主がその向こうに立っておられることに気づいて欲しいということであると思います。荒れ野の40年の旅が終わろうとする時モーセはこのように語ります。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうしてあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8:2〜3)。

 そしてこの言葉の続きに、結論のようにしてこう記されています。

「それはあなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった」(申命記8:16)。

 何のために、苦しめて試されたのかといえば、「ついには幸福にするためであった」というのです。これは私たちには、なかなかぴんと来ないことであるかも知れません。「試練」と「幸福」というのは、随分かけ離れたことのような気がします。しかしその試練によって、人はパンだけで生きるのではなくて、主の口から出る言葉によって生きることを知る。そしてそのことを知る中にこそ、私たちの幸福があるということなのでしょう。
 イエス・キリストは、こう語られました。

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)。

 イエス・キリストこそがまことの糧であって、私たちはその言葉によってこそまことの命を得るのです。その信仰を新たにして、今週も歩み始めましょう。