一人も失わないで

詩編78編23〜25節
ヨハネによる福音書6章34〜40節
2003年5月11日 (母の日主日礼拝)
経堂緑岡教会 協力牧師 一色 義子


(1)母の日に

 今日は母の日です。今から百年近く前、一九〇六年にアメリカのウエスト・ヴァージニア州ウエブスターのメソジスト教会でアンナ・M・ジャーヴィス夫人を記念したことから始まったといわれます。
 ずいぶん以前に教会では、お母様が生きていらっしゃる方には赤いなでしこを(なでしこはカーネーションと同じ種類です。カーネーションは、なでしこ科)、お母様のいらっしゃらない方は白いなでしこを胸につけていました。わたしは母が天に召されるまでは考えたことがなく、ことに母が最後の病床にあった時は是が非でも赤いカーネーションがほしくて、東大病院から抜け出して花屋を探しました。でもその次の年の母の日に私はふと気づいたのです。「母は天国で永遠の命をイエスさまによっていただいている、母は天国で生きている、それなら私は赤いカーネーションをつける」、と決心しました。母の死を知っておられる教会の方が怪訝な顔をされたのを覚えています。今はもうすべて赤、誰にも母は生きている、たとえ近くにいなくとも、たとえ疎遠になっていても、母の心にはいくつになっても子供は子供なのですから。
 そんな母の日に今日与えられた聖書は一見関係がなさそうですが、どこかでつながっているような気がします。

(2)「パンをください」とイエスを捜す群衆

 まず本日の個所は主イエスが「わたしが命のパンである。」といわれたところから始まります。これはその前の五千人に食べ物を与えられた給食のパンの話をうけており、6章全体が結局主イエスが命のパンであるという象徴的なインパクトの強い表現によって綴られるヨハネ福音書の中心テーマの一つの頂点とも思われるところなのです。
 今日の個所の後では、更に無理解なユダヤ人たちがイエスのことを「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」という更にエスカレートした不可思議な表現をしています。その展開を経て、そのパンに象徴される真理こそ、ペトロが「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(6:68)という信仰告白をもって明白に言葉の内にある真理の鍵を解いています。これはヨハネ福音書の第1章の「言葉は肉となって・・・」というヨハネ福音書の特徴であるロゴス(言葉)キリスト論に通じる観点です。この理解の鍵を承知の上でもう少し経過をみてみましょう。ヨハネ福音書のなかなか面白いところでもあります。
 イエスさまがガリラヤ湖、またの呼び名をテベリアス湖の向こう岸で大勢の群集が主イエスが病人を癒されたのを見てついてきました。そして少年が大麦のパン5つと魚2匹を持っていたそのパンを取り感謝して分けられましたところ、それだけのパンと魚でしたが五千人の人々と分かちあってみなが満腹して感動して、群集はイエスさまを王さまにしようと騒ぎましたが、イエスさまはそっと山に退かれた、とあります。一方弟子たちは一艘しかなかった舟を出して湖を横切ろうとして強い風に悩まされているとき、主イエスが湖の上を歩いて舟まで来られました。弟子たちは恐れましたが主イエスの「わたしだ。恐れることはない」でほっとし、また舟も目指す目的地につきました。「その翌日、湖の向こう岸に残っていた群集は」主イエスがそのあたりにおられないことに気づきイエスを探し求めて、向こう岸であるカフェルナウムまできてイエスを見つけて「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言いました。ここからが今日のところです。

(3)朽ちる食物のためでなく

 主イエスはみながイエスを捜し求めているのは「パンを食べて満腹したからだ。」と人間の現実の姿、あたかも人生の最大関心事であるかのように食物のためにのみ心を夢中になる生きざまを指摘されてから、重要な本質のことをいわれます。そこで、「はっきりと言っておく」という前置きは、文語訳では「真に真にわれ汝らに告ぐ」という主イエスの念を入れて言われる時の力をこめて表現で、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、父である神が人の子を認証されたからである」。この認証というのはハンコを捺すところからきている言葉で神様が認証されるイエス様のお働きなのだ、と示されました。やさしい主イエスの懇切な言い方でもあるのです。これこそ、わたしたちが現在教会に来る人生の歩み、生き方の根本ではないでしょうか。人々は「神の業を行うために何をしたらよいか」と問い返すと「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」といわれます。神様が世にお遣わしになったイエス様にしたがってイエスさまを信じればよい、のですが、人々はそれが神の業と知るためのしるしがほしい、人々がパンに関連して思うのはあの旧約聖書のモーセが荒野でマナを天から受けた故事です。出エジプト記を学ぶわたしたちにはこの頃身近かな故事です。
 先程お読みいただいた詩編78編には荒れ野で不信な民に神は憤られたが

「それでもなお神は上から雲に命じ
天の扉を開き
彼らのうえにマナを降らせ、食べさせてくださった。
神は天からの穀物をお与えになり
人は力ある方のパンを食べた。
神は食べ飽きるほどの糧を送られた」

 まさに人々は力ある方、神さまが天から降らせてくださったマナ、パンを食べたのです。どうするすべもわからなかったときに愛なる神はかくも具体的に人間の生の継続のために、さし迫って必要なものを与えられた、その神である、ともう一度しっかり意識したい、これは民の願いであると同時に主イエスもその神の具体性,実際性をよくご存知なのです。「神のパンは天から降って来て、世に命を与えるものである」。人間の生のさなかで生きるということを支えてくださる神の愛があることを主イエスは示して下さっているのです。人々がモーセの故事を思い出すのも決してまちがいではないほど確かに神様の具体性があるのですが、しかし人々にはそれをただ腹をふくらますパンのみ、貧しさをカバーする食べ物のことのみになってしまうその問題性を主イエスは言われます。人々は相変わらず「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言ったのです。

(4)わたしが命のパンである

 その時に主イエスは「わたしが命のパンである」と言われました。主イエスご自身がパンである、といわれます。そして主イエスは「わたしのもとに来る者はけっして飢えることがなく、私を信じるものは決して渇くことがない」といわれました。このお方に従うことこそ、人生での飢えも渇きもないのです。ここで具体的なパンと象徴的なパンとの交差があります。人々のあくまでも心を占めて想い描くパンは、どうしても物質的なパンに象徴される生活の領域を離れられません。その無理解に対して、主イエスは「しかし、前にも言ったように、あなた方はわたしを見ているのに信じない。」主イエスを見ているのに更にしるしがほしいという人々に対していわれています。
 けれども「父がわたしにお与えになる人はみな、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人をわたしはけっして追い出さない。私が天から降ってきたのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。」とここではっきりと父なる神とその御子キリストとの関係を示されます。

(5)一人も失わないで

 神の御心を行うためと言われた上で、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」と言われました。
 ここで神の御心のより詳しい説明は、イエスさまの方から見れば「わたしに与えてくださった人」であり、それはわたしたちの側から見れば「神の御子である主イエスを見て信じる人」であるのです。そしてその人を御子キリストは「一人も失わないで」この神とみ子との関係の中にあるものは無条件でそのまま、ありのままに赦されて永遠の命、すなわち終わりの日に復活がある、ということです。一人も見失ってしまわず、一人も滅びないで、とは何という大きなみこころでしょう。
 一人も失わないで、という言葉で、いつか話したかも知れない気がしますが、まだ内の子供が小さかったころのお母さんたちの会話を思い出します。何かのキヤンプの計画の時に、山のキヤンプだから安心と思っていたらその近くの湖でボートにのるかもしれない、と予定外のことを若いリーダーがおまけの様に言っていると聞いたあるお母さんが「うちは一人息子だから、絶対それはやらせない。何々さんは大勢兄弟がいらっしゃるからいいでしょうが。」ところがほとんど同時にその兄弟で参加予定のなになにさんのお母さんが「うちは二人も行くのですから尚危ないことは反対」と異口同音に叫びました。子供が大勢いるから一人ぐらいいいというものではないのです。これが母の愛でしょう。みんなどの子も、その子の性質や能力やそんなものとは関係なくお母さんにとっては一人も失わないで、と祈る大事な子供たちなのです。
 わたしの祖母は明治以前の生まれで息子娘が12人1ダースなのに、食事のお采のお皿を数えるのにも決して数でなく、必ず名前の頭文字を短く呼んで確認していたと聞きました。
だれ一人も失わないで、という神さまの御心は、そのだれもが大事だ、ということなのです。深く愛していれば、どの子も、どの人も、神様にとってかけがえがないのです。ここで子を見て信じるもの、とは、わたしたちは神を見ることはできませんが御子なるキリストを見ることはできる、このお方を見て信じること、そしてその主イエスはわたしたちを終わりの日に復活させてくださること、主イエスを見て信じる絶対失望することなく、絶対神の愛から失われない、神の愛の中に置かせてくださる。そう断言しておられるのです。
 主イエスが「命のパンである」ということは、主イエスによってこそわたしたちが生かされるということです。そしてこの6章は、最初にもちょっと触れましたように、更に無理解にイエスの肉を食べるのかというような議論を経て、68節でペトロの「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」という信仰告白に結ばれます。これこそヨハネ福音書のテーマの一つです。子を見て信じる者、十字架の愛と赦しと復活により命を与えられることを教会に今、座するもの「一人も失わないで」です。
 今日は母の日、父なる神と言われるように父も母も子に対して真の愛を注ぐその象徴を神の深い愛と重ねてそれにもまして神の深い「一人も失わないで」といわれた絶対の愛を皆様とともに感謝したいと存じます。