なぜこのひと女を困らせるのか

詩編86編1〜7節
マルコによる福音書14章3〜9節
2003年6月15日 (青年伝道礼拝)
経堂緑岡教会協力牧師  一色 義子


 本日は青年月間で第五週に船本弘毅先生をお迎えして特別礼拝が持たれるその前座として、第一回の青年月間礼拝という事です。この箇所を選んだのは、こここそ一つの入り口であると同時に、もう一つには船本先生の「あなたはどこに立つのか」という問い掛けの題、6月22日の松本牧師の「何を求めているのか」という呼びかけの題に揃えて問い掛けの個所であるからです。
 もちろん形式だけではなく、ここは、主イエスが私たちに明白に問い掛けて、大事な問題をしっかりとらえている有名な箇所でもあります。
 そして、その問いによって、ここには、二通りの人間模様が明らかにされます。一つは世間に通用する良識かもしれない見方の、言ってみれば大人的発想と、もう一つには、世間からまったく相手にもされない、世慣れないささやかな存在で見すごされている人との、非常にはっきりとしたコントラストが記されています。
しかも、主イエスが、その普通なら認めがたいような一人の弱い者の存在と生き方を認めておられるところです。人生の価値、あるいは意味ある生き方とは何なのかをあらためて考えさせられるところです。

(1)ナルドの香油を注いだ人

 まず、聖書は「イエスがベタニアで重い皮膚病のシモンの家にいて、食事の席に付いておられた時」と始まります。こういう呼び名でよばれているシモンとはすでに差別を受けている家ですが、主イエスはかまわず、そこで食事をしておられます。
 そこへ、つつと無言で一人の女性が非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、壺の口は細くくびれていたのでしょう、それを壊し、香油は少しつければいいものですのに、主イエスの頭から、どっと香油を注ぎかけたのです。ナルドの香油は贅沢中の贅沢品、その美しい香りは、別格です。
 ところが香油をかぶった主イエスよりも先に、4節には「そこにいた何人かが、憤慨して互いに言った、『なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油を三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことが出来たのに。』そして彼女を厳しくとがめた」とあります。三百デナリオンといえば働く人の一年間の収入にも近い金額なのです。おどろいたその場の様子が想像出来るでしょう。わたしはここにナルドの香油の芳香で、かまどにいた女性たちも顔を突き出して「まあもったいない」とあきれて、思ったのではないかと想像します。
 たしかに非常識な行動でした。あきれた反応も、ごく、あたりまえの事です。まして批評した常識的な人々は、そのお金を一瞬の注ぎでなく「貧しい人々に施せたのに」という立派な用途、周目の認める善行をかわりに提案しているのです。
 実は律法の書の一つである申命記15章10節辺りには、貧しい人々への配慮が詳しく記されていて「どこかの町に貧しい同胞がいる」のなら「見捨ててはいけない」「このことのためにあなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福して下さる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞の内、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」とあるのです。ですから咎めた人々は「律法の知識もあり正当だ」とイエスさまにほめられるくらいに思って言ったのかもしれません。
 一般的にはこれでいいのです。私たちの社会でも、日常的に誰もがいい事だ、と認めるものがあります。大概の場合はそれで十分です。けれども人生には例外があるのです。

(2)イエスの反応

 この場で、食事中に頭から香油をかけられた主イエスが、なんと言われたか、注意して見ましょう。三つのポイントで、私はこれをいつも思うのです。
 まず、「するままにさせておきなさい。」と主イエスはこの女性のありのままを受け容れられます。
 その次に、「なぜ、この人を困らせるのか。」と非難を一人浴びて当惑している彼女の側に立っておられます。
 そして、更に、「わたしに良いことをしてくれたのだ。」と、なんと、この無駄とみえる愚かしい行為を、評価されたのです。
 なぜでしょう? 主イエスははっきり説明されています。
 「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したい時に良いことをしてやれる。」 確かに、窮乏の人々を助けるというチャンスは日常的にあるのです。当時のローマの圧制下にあったユダヤは貧しく、また不合理に苦しむ者も多かったのですから。その日常に私たちも当時の人々もどれだけ手を貸しているかは別に問題があります。
 「しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と主イエス。これが唯一のチャンスだと見ておられます。なんと、それを彼女の感性がキャッチしているのです。なぜ、そんな大事なチャンスを彼女はとらえることが出来たのでしょう。ここに、この弱く無知に見える女性の中にある鋭い感性、深い主イエスにより人生を生かされたことへの、命を与えるイエスの教えへの感謝、その深い感性と動機を、誰も見えない時に主イエスはしっかりと気づき、認めておられるのです。その主イエスへの感謝の最高の表現として、彼女の範囲で出来る最高の事として、香油を主に注いだのです。これが唯一彼女が主イエスに対してできることだったのです。
 ここに、社会的地位や、社会への貢献度でもなく、まだ若く、世間の常識とかけ離れているかもしれないが、青年たち、若者たちの中にある魂の感性を、主イエスは知っておられるのです。
 しかもこの時というのは、マルコによる福音書によれば、これが主イエスの最後の晩餐の直前の出来事、しかもユダの裏切りの直前にある、のです。これは主イエスの地上の生涯の唯一の普通の生活―一見日常に見える最後の食事の席でした。
 この女性がどういう人かはわかりませんが、ともかく主イエスに出会ったことで、かくも主体的に生きることが出来るようになった、そうでなければこんなに大事な香油を持ってこようとする主体的行動には出ないはずです。ここにこの話の隠された鍵があります。
 そして主イエスは「この人はできるかぎりのことをした。」とその感謝の気持ちを認められて、さらに「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」と言われました。これはとんでもない事ですが、すでに十字架を目前に感じられている主イエスにとってその肉体への最高の弔いでもあったのです。
 思えば主イエスはすでに何度かこのエルサレム行きがただならぬ真剣さで先頭を進まれたとあるほどですし、またこれよりも以前に十二弟子には何度も「エルサレムでは祭司長、律法学者とむきあい、捕らえられ、十字架につけられ、死なれ、三日目に復活される」と語っておられることが記されている後のことです。この一人の女性の感性が、「この時以外に、またいつかという機会に延ばせない」、という真剣な気持ちであったと思われます。それにしても実際に実行するには、非常に勇気のいることであったはずです。それを彼女は先延ばしにしないで実行したのです。これはなんでもないことではありません。
 私には、悲しく悔やまれる経験があります。ある先生に昔、学生として、後々まで影響をうけたような授業だったことの感謝を、もう老年になられた先生にお礼を言いたいと思って、会場の奥におられるところまで行ったのですが、あまり取り巻きが多くて、気おくれがして、また来週でも、と止めたら、その先生が来週には病気になられ、とうとうそのチャンスを逸してしまったのです。
ですから、この女性が今こそ、と思いこんでそれを実行した、ということには、彼女の決断と勇気と実行力、それを動かすほどの主イエスの深いかえりみとそれに応じるほどのひたすらさがあったのです。直感的と同時に実行力、大切な一瞬間をとらえる感性とひたすらさ、それはすごいものだと思います。もしかすると、これこそ青年に願うところかもしれません。そして主イエスは「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」と言われました。
 主イエスの十字架の愛への感謝と愛の応答の重要さです。これこそ、主イエスに出会うひとびとが、いつの時代であっても、主イエスが期待される信仰による感性とひたすらさではないでしょうか。
 主イエスは、主イエスにしたがうものは、互いに愛しあいなさい、と言われました。私たちはこの主を愛する思いをもって互いに愛しあう、それも彼女のように、自分の範囲で出来るかぎりのことをしたいのです。彼女が生きることの根源を与えてくださったその主への彼女の中で出来る限りの思いを表明したかった、そのこと、それが望外の大きなことをしたのです。彼女の表現はおろかに見える香油を注ぐということが精一杯であったかもしれない、けれども主イエスによってそれに深い意味が加えられるのです。

(3)青年月間とは

 青年月間とは何か、をあらためて考えさせられます。単純に言えば、教会の次世代を担う若者たちが、一人でも多く、この教会に主体的に関わって欲しい、という願いをこめて青年ウエルカムの歓迎の時でもあります。けれども、と同時に、どうしたら青年をウエルカム出来るかと言えば、青年の如く、私たちの心、魂が、柔軟性があり、新鮮に、新しいことをすうっと受け容れるような、若い心が必要だ、という事でもあります。若い人々が居心地よい場は、それなりに誰でも存在をありのままに受け容れられ、認められ、みんなが味方になってくれ、一人の存在を評価される場ではないでしょうか。これはなにも青年にかぎった事ではありません。すべての人が受け容れられ、存在を大切にされるところであるように、青年月間はわたしたち一同に、心をフレッシュにし、慣習からくる埃りを払いのけ、率直に主イエスの愛と赦しの十字架がすべての人のためであることを、互いに誰もが感謝する時ではないでしょうか。
 詩編86編に「主よ」とよびかけ「わたしの魂をお守りください。わたしはあなたの慈しみに生きる者」と神によりたのみ賛美しているように、若者も高齢の者もみな、お互いに主にたより生かされて参りましょう。
 「なぜこの人を困らせるのか」といわれた主イエスに、いと小さき者の主体性を大切にされる主イエスを見ます。この社会は常識の社会が支配的です。しかし、もし若者が、純粋に主イエスへの親愛の心と、「私をみとめてくださるお方だ」、という発見の喜びで、反応したとしたら、勿論主イエスが受け容れられる新しい出会いとなります。「それを止める大人になってはならない」、とも本日の聖書は示されます。私たち主にあって生かされることは、年齢でも、女性でも、男性でもないのです。幾つになっても、キリストの愛への感性に率直で、二度とない人生の主を愛する機会を受け止めるフレッシュな信仰をもちたいと、青年月間に思います。どんな時にも、十字架の主の愛に感動と感謝をもって、日々応答するものでありたいと願います。